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わが忘れなば

備忘録の意味で。タイトルは小沢信男の小説から。

常石敬一『医学者たちの組織犯罪ー関東軍第七三一部隊』

731部隊

 常石敬一著『医学者たちの組織犯罪ー関東軍七三一部隊』(朝日文庫、1999、親本は朝日新聞社、1994)を読んだ。本書は、「陸軍軍医学校防疫研究報告第二部」(報告第二部)を中心とした各種資料の研究や七三一部隊の関係者へのヒアリングをもとに部隊の活動、とくに技師として部隊にかかわった医学者・研究者たちの「研究」の実態を、戦後の医学界の対応まで含めて論じた研究書だ。なお、「報告第二部」を発掘したのは、児童文学者・銃後生活研究家の山中恒である。

 七三一部隊について従来持っていたイメージは、「戦時下において中国で、生物兵器の開発を目的にして人体実験を繰り返した陸軍の組織。敗戦後、アメリカに実験結果を受け渡すことで関わった軍人は戦犯免責を勝ち得た。大日本帝国の最暗黒面のひとつ」というものだ。これは、森村誠一悪魔の飽食』三部作(1981-1983)による人体実験の告発が話題になったことや帝銀事件の真犯人に元隊員が擬せられたことがあること、部隊の関係者が戦後設立した製薬会社ミドリ十字が薬害をひきおこしたことでおきた話題などから漠然と抱いたものだった。

 しかし、本書を読むまで七三一部隊、石井機関の実態を知らなかった。(森村著は話題になったのを知っているだけで読んではいない。)実際に読んでみると、石井機関を含む防疫給水部が日本・中国・シンガポールまで広がる巨大な組織であったこと・大学医学部を巻き込む巨大なネットワークをもっていたこと・さまざまな目的を持った(あるいは目的のはっきりしない)広範かつ残酷な人体実験を、大学の助教授・講師出身の若手研究者が軍属として行っていたこと・戦後、責任を逃れた医学者たちが人体実験の「研究成果」を学会に発表していたこと・ GHQ 参謀二部の調査が極めてずさんであったことなどイメージ以上におそろしいかつ問題を含んだ主題であった。

 本稿では、本書や他の常石著(『消えた細菌部隊―関東軍731部隊』ちくま文庫、『七三一部隊生物兵器犯罪の真実』講談社現代新書)で学んだ内容をもとに七三一部隊の実態を簡単にまとめてみたい。


ひとつのエントリーにまとめようと思ったが、結構内容も膨らんでしまい、最近忙しくなってもきてしまったのでとりあえず第一回として石井機関の創設までをまとめた。今後も書き続けて、全 6 回程度にまとめる予定。


だいたいこんな予定でいきたい。

  • 石井機関の誕生と拡大
  • 石井機関における「研究」
  • 細菌戦と疫学

  • 証拠湮滅と GHQ の調査・取引

  • 戦後の医学界の対応
  • 石井機関の告発


石井機関の誕生と拡大

 七三一部隊を中心とする石井機関の設立者である石井四郎は、1892年千葉で生まれた。1920 年京都帝大医学部を卒業し、陸軍省に入省、翌年近衛歩兵隊第三連隊付けの二等軍医(軍医中尉)となった。1924年、陸軍の命令で出身大学の京都帝大大学院微生物学教室に入り、病理学・細菌学の権威清野謙次やその弟子で細菌学の木村廉の指導を受けた。

 以降、石井と石井機関にかかわる出来事を時系列に沿って整理していきたい。

 1925 年、生物兵器化学兵器の使用を禁じたジュネーブ議定書が締結された。日本も代表を送り署名はしたが、批准していない。1926 年、石井は大学院を卒業し京都衛戍病院勤務となった。1926-1930 年の間、石井は、ヨーロッパからアメリカをまわる長期の出張に出た。この出張ははじめ陸軍の許可もなく自費でいったものが、途中から公務出張の扱いになったという。帰国後、石井は三等軍医正(軍医少佐)となり、軍医学校防疫部・防疫学教室に配属された。(防疫部はワクチン作成を、防疫学教室は細菌学の教育を受け持つ部署であったが、両者はひとまとめにして扱われた。)

 大学院生であった石井が生物兵器の研究・開発に関心を強めたのは、ジュネーブ議定書によって生物兵器は強力なものだと言う印象を受けたこともあるらしい。 大学院卒業後から、参謀本部などに生物戦に備える機関の創設を訴えていた。帰国後はさらに活動を活発化させ、軍医学校の上司小泉親彦、陸軍省軍務課長大佐(当時)永田鉄山参謀本部作戦課長大佐(当時)鈴木率道の支持を得たという。

1932 年、石井の念願がかない軍医学校内に新たに生物戦防衛の研究を行うための防疫研究室が設立された。設立当初は、防疫部の地下に間借りしていた防疫研だが、翌年には近衛騎兵連隊の土地を譲り受け自前の研究棟をもつ。その後は、敗戦までつぎつぎと施設の拡大を続けた。(1936 年ごろには防疫部・防疫学教室を吸収した。)このような厚遇の背景には、永田鉄山の援助が大きかったという。

 1933 年、石井は中国東北部へ渡り、石井機関の前身となる「東郷部隊」を、寒村の背陰河に 設立した。東郷部隊は、石井機関の本格的な活動のための準備であった。それは、石井機関の研究の中心が京大・東大等の医学部の助教授・講師出身者であったのに対し、東郷部隊では軍医中心だったことで分かる。つまり、日本の大学医学部からリクルートしてきた人員を投入する前に手持ちの人員で人体実験を含む「研究」の下調べをしていたのである。この段階ですでにマルタ(ドイツ語の「モノ」という意味の Material からきたと言う説と丸太からきたという説がある)と呼ばれる被験者(捕虜)に各種病原体を植え付けるような人体実験が行われていた。また、普通の水や蒸留水だけを与えて何日生きられるか調べると言う実験も行われていた。 1934 年ごろに、捕虜の脱走事件がおきている。( そのとき、日本人看守二人が殺された。脱走事件の時期は、 看守の死亡時期から常石が推測したもの。)

 この時期までに、石井は代表的なふたつの研究成果を上げた。1931 年の細菌培養缶の考案と1933 年の濾水器(石井式無菌濾水器)の考案だ。細菌培養缶は、細菌の大量培養を可能にする技術で、本来はワクチンの大量生産を目的にしたものだが、細菌兵器製造への転用も可能だ。濾水器は、細菌を除去し汚水を飲料水に変えることができるというものだ。1933 年には昭和天皇が視察し、濾水器で作った飲料水を飲んだようだ。1936 年に技術の一部が秘密兵器扱いとなった。

 これらの研究成果を受け、1936 年「関東軍防疫部」(石井機関)が天皇の認可を受けた部隊として正式に発足した。部隊はハルビン近郊の平抱に置かれた。1937 年盧溝橋事件から始まった戦線の拡大と共に石井機関も大きく拡大していった。

 上海戦線においてコレラが流行すると 、石井はこの機会を捉えて濾水器を戦線に持ち込み必要性と有用性を認めさせた。濾水器は改良によって大量生産可能となり 1938 年に陸軍に正式採用された。同年、経理部から給水業務を奪う形で石井部隊を中核とする師団防疫給水部 18 個が正式に編成された。師団防疫給水部は、師団と共に移動し防疫給水業務を担った。  これらの師団防疫給水部用員の教育は日本の防疫研があたった。防疫研は、これ以外にも民間の医薬物資の収集や情報の分析など石井部隊のセンター的な役割を果たしていた。防疫研と石井機関の間では定期便が通っていて、人員や「研究」の「成果」を迅速の移動させる体制ができていた。

 師団防疫給水部の編成が終わるまでは研究機関としての石井機関の発展は足踏みしていたが、その後研究施設である固定防疫給水機関も整備されていった。1939 年までにはハルビン、北京、南京、広東に中国の衛生機関や病院などの施設を接収するかたちで固定防疫給水機関が設立されていった。1940 年には、ハルビンの「関東軍防疫部」も「関東軍防疫給水部」に名称変更された。同年、関東軍防疫給水部の支部が中国東北地方に設置された。ちなみに「満州七三一部隊」とは、関東軍防疫給水部の本部の通称名で、関東軍防疫給水部全体の通称名は満州第六五九部隊である。この時点までで、1942 年シンガポールに設立された南方軍防疫給水部を除いて、敗戦時まで続く防疫給水部が完成した。

本エントリーを書くのに参考にした本。 

常石敬一『医学者たちの組織犯罪ー関東軍七三一部隊』。一番主要に参考にした本。

医学者たちの組織犯罪―関東軍第七三一部隊 (朝日文庫)

医学者たちの組織犯罪―関東軍第七三一部隊 (朝日文庫)

七三一部隊生物兵器犯罪の真実』。新書本であり、三冊の中でも新しい方なので、まとまっていて分かりやすい。三冊の中でこの本にしかない情報もある。

七三一部隊 (講談社現代新書)

七三一部隊 (講談社現代新書)

『消えた細菌部隊―関東軍731部隊』。常石敬一の 731 部隊関連の最初の本。増補部分にも重要な情報があるので、増補版や文庫本がおすすめ。

『細菌戦部隊』。731 部隊の関係者(主に末端でかかわった日本人)に取材した証言集。年譜や参考文献一覧、簡潔な解説がるのでわかりやすい。

細菌戦部隊

細菌戦部隊