先月(2012年12月)の日本経済新聞の「私の履歴書」欄は、元首相の森喜朗が書いていたが、産経新聞に入社するにあたって社長の水野成夫(1899-1972)に口利きしてもらったというエピソードがあった。
水野成夫のことは、同じく日本経済新聞に昔連載されていた辻井喬(堤清二、水野の養女と結婚)の小説『風の生涯』を連載時にときどき読んでいたので少し知っていた。『風の生涯』は、水野成夫を思わせる人物を主人公にしたモデル小説で、水野は、戦前の共産党中央委員で、投獄され、その後転向し、国策パルプの社長となり、戦後は小林中、櫻田武、永野重雄らとともに”財界四天王”と呼ばれ、吉田茂や池田勇人を支えるブレーンとして財界の有力者であった。この小説では、水野(を元にした主人公)のイメージは「快男児」って感じに描かれていた記憶がある(が、細部はほとんど忘れた)。水野による産経の苛酷な首きりと紙面の右傾化を批判する 1961 年のパンフレット『産経新聞残酷物語』では、「才気と臆病と冷酷さの組み合わさった」人物と評されていた。
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水野が口利き的な行為をしているエピソードは他にも読んだことがあったので、「私の履歴書」と合わせて、水野はいわゆるフィクサーだったんだなと思った。そのあとも水野が社長を務めた産経新聞に関するノンフィクションや渡邊恒雄の回顧録を読んだら水野のフィクサーぶりを示すエピソードがいくつも出てきたのでまとめてみることにした。
まず、石原慎太郎の回想録『国家なる幻影 わが政治への反回想』(1999,文藝春秋)や佐野眞一の石原慎太郎に関するノンフィクション『てっぺん野郎 本人も知らなかった石原慎太郎』(2003,講談社)に水野と石原慎太郎の関係が書かれていた。
当時サンケイ新聞の社主だった水野成夫氏はいつの頃からか、私たち兄弟が気に入って自ら私たちの親代わりになってくれた。
(中略)
日生(劇場、引用者注)でやった初めての創作ミュージカルに、東洋工業の松田社主に水野氏からの手紙を持参することでかなりの額の出資を強引に取り付けたこともある。依頼事の成果について報告し、昼間からかなり酩酊しながら巻紙にしたためてくれた達筆の手紙の効果に感謝すると、
「たいしたことない、たいしたことない。またなんでもいってこいよ。」
いってくれたものだ。
(中略)
そんな関わりのあった自称父親代わり水野氏にも立候補の報告にいったら、
「ああそれなら、票なんぞたくさんあるにこしたことはないから、俺がいい人に頼んでやるよ」
「誰ですか」
「霊友会の小谷(喜実、引用者注)教祖だよ。彼女にいって、そうだな二十万くらいの票はもらってやるさ」
(中略)
「やあやあ、今度ね、この石原が立候補するんですよ。私はこいつの親代わりをしていましてね、あなたとも義兄妹だし、だから義理の甥っ子だと思って、そうだな二十万票くらい出してやって下さいよ」
「あらそうなの、あなた今度立候補するの」
「どうです、二十万票、それっくらいはあるんでしょ」
「そりゃもっとありますよ。前にはうちだけで内田芳郎さんをとおしてるんだからね」
「じゃ頼みます」
(『国家なる幻影』)
水野が、霊友会の小谷喜実と石原慎太郎の関係をとり持った話は、『てっぺん野郎』にも出て来る。
慎太郎がサンケイ新聞社主の水野成夫に立候補の挨拶に行くと、水野はその場で、自分とは義兄弟の契りを結んだ仲だという小谷喜美に会わせるといい、オレからも二十万票くらいの集票を頼んでやる、と約束した。
(『てっぺん野郎』)
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水野と小谷喜実の関係は、『国家なる幻影』によると、水野が別荘地開発に手を出したら、霊友会が土地を買ってくれたっていうのが縁だということだ。
『渡邊恒雄回顧録』(監修・聞き手 御厨貴)には、水野と福本邦夫の関係が出て来る。福本邦夫は、戦前の共産党の理論的指導者福本和夫の長男で、学生時代は共産党員だったが、転向して、その後、椎名悦三郎の秘書となり、竹下登と関係の深いフィクサーだった人物で、イトマン事件などに関するノンフィクションを読むと必ず名前が出て来る人だ。
(渡邊) 福本の父・和夫は共産党時代、水野成夫と仲がよかった関係で、福本は産経新聞の発行していた日本工業新聞に入るんだけど、水野は椎名さんとも親しかったから、福本を秘書官に押し込んでたんだ。
(『渡邊恒雄回顧録』)
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水野が、戦中に軍部に食い込んで実業家として成功するまでの履歴、産経新聞を財界御用達の”右派”新聞に仕立て上げた内幕は、中川一徳『メディアの支配者』(上、講談社、2005)に詳しい。産経新聞の乗っ取りと右傾化推進、経営再建=苛酷なリストラに関しては、奥村宏『徹底検証 日本の五大新聞』(七つ森書館、2009)や『産経新聞残酷物語』(1961)にも書かれていた。
水野が、”実業家”として成功した経緯を『メディアの支配者』をもとにまとめるとこんな感じだ。
水野と、やはり共産党からの転向者の南喜一で陸軍の後ろ盾を得て、国策パルプを作った。しかし、金看板の南喜一の古紙からの再生技術という”発明”は、使い物にならないもので、結局、普通に木材から作っていた。陸軍と、海軍よりの三井系の王子製紙の対立を利用して、上手く立ち回った、ということだ。上手く立ち回ったという内実は、南が特別編成の陸軍部隊を使って中国・広東にあった製紙工場の資材の略奪を海軍より先にやったということのようだ。その資材を使って北海道の勇払に製紙工場を作った。
そのときに、陸軍の先兵として、国策パルプのために活動したのが、当時陸軍にいたのちのフジ・サンケイグループの独裁者鹿内信隆だ。1941年に陸軍における水野・南の後ろ盾岩畔豪雄陸軍省軍務局軍事課長が、鹿内信隆に水野たちの”面倒を見ること”を命令した。
会議の場で、三十そこそこの信隆は軍刀をドシンドシンと床に叩きつけて喋りまくり、有無を言わさず物資を取ってしまったと、”敵方”である海軍の調達担当官だった小坂徳三郎(後に運輸大臣)は回顧している。
(『メディアの支配者』)
『メディアの支配者』には、水野への本質的な批判と思える言葉が簡潔に書かれていた。
二人(水野と鹿内信隆、引用者注)に共通する点があるとすれば、後ろ盾となる岩畔のような有力者をかぎ分け食い込み、場面によっては踊ることも厭わない資質であろう。それは、水野が門外漢の製紙業界で結果的に大きな果実をもぎとったように、利権への嗅覚に優れたいわば”政商”に通じる道である。
(『メディアの支配者』)
前半部部に関しては、石原慎太郎や渡邊恒雄についても言えるのではないかな。(それぞれ水野や大野伴睦に食い込んでいる。)政治的幇間、とでもいうべきか。
戦後、水野は、国策パルプ内では労働運動の弾圧などで財界の信用を勝ちえ、1955年に文化放送に乗り込んで経営再建、1958年に産経新聞東京本社の社長に就任、1959年にフジテレビ社長となった。”財界のマスコミ向けエース”等と呼ばれていた。
このとき、産経新聞の乗っ取りの過程というのが結構怪しげ、”財界の秘密組織”なる魑魅魍魎の集団が出て来る。
まず、水野が乗り込以前の産経新聞の沿革は、『徹底検証 日本の五大新聞』によると次の通りだ。
大阪の新聞販売者だった前田久吉がやがて新聞社の経営に乗り出し、産業経済新聞、大阪新聞、日本工業新聞、サンケイスポーツなどを発行した。そして東京に進出して、福沢諭吉ゆかりの時事新報を買収した。
ところが東京に進出したものの、発行部数は伸びない。そのため広告収入も増えない。それに大阪・梅田に新社屋を建設したので銀行からの借入金が増え、金利負担が経営を圧迫する。
その結果、一九五二、三年ごろが産経新聞の全盛時代で、それ以後業績は低下したが、それなのに、前田久吉は参議院の全国区に立候補して一九五三年に当選し、新聞経営から政界活動に入った。
その後、産経新聞の経営は急速に悪化し、もはや自力での再建はむずかしくなった。
そこで取引銀行である住友銀行の堀田庄三頭取などが動き、財界として産経新聞の再建をはかることになった。
その結果、一九五八年になって、当時、国策パルプの社長であった水野成夫が産経新聞東京本社の社長に就任した。
(『徹底研究 日本の五大新聞』)
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ちなみに、産経新聞は、「それまでは完全な商業新聞で、政治的立場は『朝日』『毎日』とあまり変わらなかった」(『徹底研究 日本の五大新聞』)そうだが、水野の乗り込みで急激に右旋回、「財界・自民党の”機関紙”にされた」(『サンケイ新聞残酷物語』)ということだ。
そしてこの産経乗っ取りをの費用として十五億円が”財界”から動いたというのだが、そういう意志決定・資金調達を行ったのがさっき述べた”財界の秘密組織”である。
組織の名は「共同調査会」と言った。
名称の由来ははっきりとしないが設立は昭和三十五年(一九五五年)九月、共産党をはじめとする左翼の勢力拡大を食い止めることが目的とされ、四十三年(一九六八年)十一月に解散するまで活動期間は十三年に及んだ。マスコミや労働組合対策を含め、公にはできない手段を取ることも稀ではなかったという。
(中略)
幹事を務めたのは東京では櫻田武、植村甲午郎、小林中、水野成夫、佐藤喜一郎、永野重雄、今里広記の七人。大阪、名古屋では堀田庄三、松下幸之助、芦原義重、松原与三松、野淵三治の五人。
(『メディアの支配者』)
組織に属していた人で、この当時唯一存命だったのが元ダイヤモンド社社長の坪内嘉雄で、『メディアの支配者』では、彼に対する聞き取りによって、「共同調査会」の輪郭を伝えている。
「共同調査会は櫻田さんの提唱で始まった。当時の共産党は『歌って踊って恋をしよう』と”微笑み路線”で民主青年同盟(共産党の生年組織)や労音に若者を集め、企業内に勢力を拡大し、党員の組織化を行っていた。この流れを断とうというのが会の大きな目的だった。」
(中略)
「(企業に浸透している共産党員を)把握しているのは共産党の地区委員会だから、ここの党員リストを取る必要があるわけです。かなり大変だったが、公安関係者を使うなどしてリストはいりいり入手した。該当する企業の社長に伝えると、判で押したように『ウチには共産党員はいない』と胸を張るんですが、リストを示すと一様に驚愕するのも常だった」
党員リストの入手を含めて実務を担ったのは補佐会議のメンバーである。信隆をはじめとして小坂徳三郎、井深大、日経連専務理事の早川勝、それに青年会議所専務理事だった坪内ら数人で構成された。
(『メディアの支配者』)
年会費は資本金によって一口百万円と七十万円に分かれ、集められた年間予算はおよそ二、三億円に上った。
(『メディアの支配者』)
「リストを示し党員が相当数に上ることを明かして『このままではあなたの会社は破壊される。協力して下さい』と呼びかけることが会員獲得の決め手だった」
(『メディアの支配者』)
共産党対策のほかに、日教組の分裂工作とアメリカへの教員派遣、三井・三池宗祇の鎮圧、民社党の結党資金の提供といった各種の活動を、三十年代から人知れず実行した。坪内によれば、民社党の西村栄一書記長(後に委員長)に五億円の資金を手渡したのは信隆だったという。
(『メディアの支配者』)
「すでにニッポン放送、フジテレビを財界で抑えており、幹事会、補佐会議の場で、この際、新聞も持とうということになった。堀田さんが『五億円は住銀で立て替える』と表明したこともあり、幹事の一人である水野さんを社長に送り込んだのです」
(『メディアの支配者』)
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「日教組分断工作」、「公安を使っての共産党リスト作成」となんともひどい。「共同調査会」については、坪内嘉雄が去年(2012)亡くなったので、もう詳しいことは分からないのだろうが、『産経新聞残酷物語』やそれを引用した『徹底検証 日本の五大新聞』にもそれらしい組織のことが少しふれられている。
水野成夫と自民党、財界の主流派との結びつきは、あまりにも有名だ。池田首相に対する財界の後援会「二黒会」に経団連副会長植村甲午郎、住友銀行頭取堀田庄三らとともに名を連ね、財界の”マスコミ対策委員会”なる半公然組織の中心メンバーである。この委員会には、植村、堀田のほか前開銀総裁小林中、富士製鉄社長永野重雄、日清紡の櫻田武、ニッポン放送専務鹿内信隆といった顔ぶれが並んでいる。水野のサンケイ入りにさいしては、これら”財界有志”から十五億の資金が贈られ、水野はこれでサンケイの増資(サンケイの資本金十億円は新聞界で最高)を行い、創立者前田久吉の支配下にあった株を少数派に引き下げ、前田一族をサンケイから追放した。余談だが、前田は自宅の庭で印刷した時から今日の全国紙にまでサンケイを育て上げた創業者、しばらくは「会長」という名誉職をあてがわれていたが、間もなく一切の地位からはずされて参院議員へほうり出された。会社の乗っ取りはよくあることだが、これほどの冷酷さもめずらしいと業界の評判である。
サンケイ入りした水野のもとに、財界の有力メンバーと子飼いの子分が、重役として参加した。専務に友田信(フジテレビ専務)、常務に田中富弥(国策パルプ常務)、堀高義(国策パルプ)、取締役に五島昇(東急社長)、小坂徳三郎(信越化学社長、小坂外相の実弟)、三好基之(国策パルプ)、監査役に鹿内信隆。幹部社員には、幡上重次郎(大阪本社販売局次長)、岡本武雄(総務局次長兼人事部長)ほか多数。
さる十月一日、新聞社の首脳を集めて東京で開かれた「新聞大会」の昼食会に、異例の出席をして演説した池田首相は、そのあと各社の社長クラスと”会談”したが、水野成夫だけは別格で、その夜池田邸にとくに招待されておそくまで懇談したという。池田内閣成立に際して吉田ワンマンが水野をマスコミ担当大臣に推していたエピソードもある。
(『産経新聞残酷物語』)
人物がだいぶ重なっているので、財界の”マスコミ対策委員会”は、「協同調査会」そのものもしくはその一部なのだろう。
あとここでは、前田久吉が財界ぐるみで政商に会社乗っ取られて追放されたことに同情的な文章を引用したけど、中川一徳『メディアの支配者』では、倒産寸前の会社をお金的には有利な条件で渡した(水野成夫に経営感覚がなかったから。)って感じの書き方だった。
ここでも書かれているように、戦後の水野の政治力の源泉は、吉田茂・池田勇人・佐藤栄作といった歴代首相にがっちりと食い込んでおることにあったようだ。
財界四天王として吉田茂を支え、池田勇人とも戦前からの付き合いがあり、総裁選の情勢を無理やり「池田優勢」と書くなど露骨な池田びいきをしていたそうだ。池田退陣後も、佐藤栄作支持で財界をまとめ、佐藤の首相就任に貢献したという
しかし、この後、「読売新聞への国有地払い下げ阻止」に失敗した水野は、佐藤栄作と縁を切り、急速に政治力を衰えさせ、フィクサーとしては失脚してしまう。その様子は『メディアの支配者』に詳しい。
考えてみると、産経新聞、前田久吉がゼロから全国紙にしたのを水野が乗っ取って、水野の政治力がなくなると、鹿内信隆が横取りして、鹿内家で相続したものの二代目の鹿内春雄は若くして亡くなり、三代目の女婿鹿内宏明は、日枝久らの反乱によって追放されるという、まるで戦国大名の争いを見るような展開だ。司馬遼太郎が小説化すればよかったのにね。。。
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あと、今後、松浦行真『人間・水野成夫』や福本邦夫の回顧録『表舞台裏舞台』、日本電波塔=東京タワーの創設者前田久吉の伝記『前田久吉伝』などを読んで面白い話があれば追記します。