わが忘れなば

備忘録の意味で。タイトルは小沢信男の小説から。

『ナボコフの文学講義』からカフカ「変身」講義の感想

 むかし、TBSブリタニカから出ていたナボコフの『ヨーロッパ文学講義』が、『ナボコフの文学講義』として河出文庫から上下巻で復刊された。原題は"Lecture on Literature"なので、今回の訳題の方が原題に忠実なタイトルだ。ナボコフが"Strong Opinions"で語っている大学での講義録を死後編集して本にまとめたものだ。

1940 年、アメリカで大学人としてのキャリアをはじめる前に、運のいいことに、僕はロシア文学について100回分の講義-約2,000ページを苦労して書いたんだ。その後、ジェーン・オースティンからジェイムズ・ジョイスまでの偉大な作家たちについての100回文の講義を別に書いた。これらのおかげで、僕はウェルシーとコーネルでの20年間の大学生活を幸せに過ごしたよ。教壇で僕は、ちらちら目を上げたり下げたりしていたけど、目敏い学生たちも僕が読んだいるんであって、話してるんじゃないとは全く気付いてなかったよ。
( "Strong Opinions" から 1962,6,5 のインタビュー)

 この調子で『ロシア文学講義』や『ドン・キホーテ講義』も復刊されるといいな。

ナボコフの文学講義 上 (河出文庫)

ナボコフの文学講義 上 (河出文庫)


ナボコフの文学講義 下 (河出文庫)

ナボコフの文学講義 下 (河出文庫)

 さて、『ヨーロッパ文学講義』で取り上げているのは次の七作品。

 残念ながら、ぼくは、このうちの二作品しか読み切っていない。(全部少しだけ手をつけていて読みきれてないのがお恥ずかしい。)出来れば読んでから、ナボコフの講義に接したいと思ったので(きちんと予習しない学生にナボコフ先生は厳しそうだ)、とりあえず読了作品の一つカフカの「変身」が入った下巻を買って読んでみた。

 中学生の時に、はじめて「変身」を読んだときは、小説を「お話」としてしか受け取れなかった。中学生ぐらいの時は、まだ世界が不定型で不安に満ちていたので、どんなことにも”確からしさ”が感じられなかった。狭い場所、例えば、トイレなどに入ると、その間に外の世界がどうなっているのか不安だった。ドアを開けた後に、まだ、外の世界がそのまま残っているのか、残っているとして本当に以前の世界と連続した同じものなのか? あるいは、僕が見ていないときも、ちゃんと存在しているのか? 自分自身についても不安でしょうがなかった。自分が自分であるというのは、どうして保証されているのか? なんでこのぼくの視点が宿っている人物が、ぼくなのか? なぜそうなのか? いつからか? いつまでもなのか? そうであるという保証はあるのか? 記憶の一貫性がその保証なのか? でも、記憶は完全なものではないし、もしかしたら「そういう記憶を持っているということ」自体が錯覚かもしれない。ぼくは、一瞬一瞬別人で、ただ記憶の一貫性(のように思えるもの)があるからそれに気づかないだけなのではないか? と思ったりした。

 そういう心境だったので、主人公グレゴール・ザムザが朝起きたら毒虫に「変身」しているという物語は、まさにぼくの感じている不安に近いものに思えた。朝起きた後の自分が自分だということに、確信を持てないという不安をそのまま描いた作品として「変身」をとらえていた。

 高校生ぐらいになって、「変身」を読み返したころは、もうそういう不安感はあまり感じていなかった。疑問が解消したわけではない。日常的ないろいろ(人間関係、将来のこと、悩みや希望)に圧殺されて、そういうことを感じる余地がなくなっていた。歯が痛くて、足が折れている痛みがごまかされているような感じだ。小説を読んでも、もうただ「お話」としては受取れなかった。逆に、なんでも「たとえ」のように感じて、解釈が必要になってしまった。グレゴール・ザムザは、鬱病にかかった人のように映った。虫になったというのは、彼が人間関係を正常に結べなくなってしまったということと自分自身に価値を見出せなくなってしまったことを象徴しているように思えた。無気力になったグレゴールは、一日中寝ていて部屋から出てこない。家族が心配して、話しかけてもまともに返事をしない。はじめのうちは、彼を心配していた家族もだんだん疎ましく思うようになる。父親が彼を殴打し、肉体的にも精神的にも追い詰められたグレゴールは、自殺(あるいは衰弱死)してしまう。そういうことを象徴的に描いた作品に思えた。ただ、実際に鬱病の男の破滅をリアリスティクに描いた小説など、とても読む気になりはしなかっただろう。

 ナボコフは、小説を「お話」として読むことも、「たとえ話」として性急に解釈することもしない。ナボコフが真っ先に退けるの解釈は、マックス・ブロートの宗教的な読み方とフロイト流の精神分析的な読みだ。

文学者というより聖者としてカフカを考えてこそ、彼の著作ははじめて理解しうるというマックス・ブロートの意見をすっかり排しておきたい。カフカはなによりもまず芸術家だった。たとえ芸術家は誰でも一種の聖者であるといいうるとしても(わたし自身、はっきりとそう感じているものだが)、カフカの天才の中にいかなる宗教的な意味合いをもよみこむことは出来ないと思うのだ。

もう一つ、わたしが排したいと思うのはフロイト流の読み方である。(中略)彼らにいわせれば、南京虫は誠に適切にカフカの父親にたいする無力感を特色づけているということになる。ここでわたしに興味のあるのは南京虫(バッグ)であって、大法螺(ハンバッグ)ではない。そんな馬鹿々々しい話は願いさげだ。

 ナボコフの読み方は、作品の構造をとらえようという次のような読み方だ。

わたしたちにできることは、その物語を分解して、部分がどのようにぴったりと組み合わさっているか、作品の様式の部分がいかに互いに呼応しあっているかを見出すことだけだ。が、定義づけることも、念頭から追い出してしまうこともできないこの感動に答えて、うちふるえるなんらかの細胞、遺伝子、胚種を、身内にもっていなければならない。美と哀れを知る心‐これが芸術の定義としては、わたしたちがゆきつけるぎりぎりにものだ。

 ナボコフの指摘する点で、ぼくが気になったことを挙げると次のようなものがある。

  1. ザムザ家、特に妹の残酷さの指摘。
  2. グレゴールが優しい気持ちしか家族に抱いていないこと。
  3. 三、という数字が特別な意味を持っていること。(ザムザ家の三人、彼らの書く三通の手紙、三人の召使い、三人の下宿人、グレゴールの部屋のドアの数、三章に分かれた小説の構成)
  4. ドアの開け閉めの主題
  5. 家族の浮沈とグレゴールの哀れな境遇の対比。
  6. 虫になったグレゴールが音楽に反応するのは、彼の芸術的感覚を反映するのでなく、理性の退化を反映しているという指摘。
  7. グレゴールが変身したのはゴキブリではなく(ゴキブリは平たいが、ザムザは丸々している)、翅のある昆虫だという指摘。(〈-ヨーロッパのゴキブリは翅が退化しているそうです。)

 最後の指摘についてナボコフはこんなことを言っている。

これはわたしが発見したたいへん精緻な観察だ、一生大事に銘記しておきたまえ。自分には羽根があるということにきづかぬグレゴールたち、ジョーやジェインたちが世の中にいるものである。

 割と無理な解釈(「夥しい数の小さな足」を六本の足とみなす)をしてまで、ナボコフが昆虫だと主張するのはこれが言いたかったからだろう。この講義を受けた(読んだ)記念に、グレゴールに「薄く小さな羽根が隠され」「よたよたながら何マイルも何マイルも」飛ぶことができたことを一生覚えておこう。

 ナボコフの音楽嫌いは、"Strong Opinions"でも繰り返し述べられているので、音楽が「文学や絵画よりも芸術の価値尺度上より原始的で、より動物的な形式に属するものである。」という評価には、ナボコフ自分の趣味に引き付けすぎだよ、と笑ってしまった。同じく音楽が苦手な三島由紀夫もそこまでは言ってないね(『小説家の休暇』)。

 しかし、この評価には結構納得できるものがある。今回読み返して気づいたが、グレゴールの「変身」は、小説中でも進行しているのだ。朝の場面ではまだ人間の言葉をしゃべれるのに、家具を片づける場面では、もう喋れない。妹のヴァイオリンに反応したのは、人間的な感性の残滓というより虫化の進行と考えるべきだろう。

 そして、家族の残酷さの指摘が、ナボコフの意見の中で最も印象に残った。

グレゴールの家族は彼の寄生虫で、彼を搾取し、内側から彼をむさぼり食らっている。甲虫になったグレゴールが感じたかゆみを人間関係の面から見ればこういうことだ。裏切り、残酷、不潔さから何とか身を守ろうとする哀切な衝動こそ、彼の背甲、甲虫の殻をつくった当の因子なのである。しかし最初固く安全と見えた甲羅も、ついには彼の病んだ人間の肉と魂と同じように、傷つきやすいものであることが分かる。三匹の寄生虫‐父、母、妹‐のうちでだれがいちばん残酷であるか? はじめは父親のように思える。だが、彼が最悪ではないのだ。実はもっとも残酷なのは、グレゴールがだれよりも愛している妹なのである。

 ナボコフの強烈な言葉(「寄生虫」とか)には、彼の家族への憎しみとグレゴールへの同情が感じられるが、これも結構納得できるものだ。グレゴールは、虫になってしまったことが不幸だったのではなく、この家族に囲まれて脱出できなかったことが不幸だったのだろう。

 グレゴールが家族に恨みや怒りを感じることがなく、ただただ彼らに優しい気持ちだけを抱いているのも、彼にはもう怒りを感じるだけのエネルギーが残っていなかったのだろう。

 ナボコフの読み(「細部を愛撫せよ」)は、象徴や神話的な意味をあてはめてゆくものや、社会的な意味を読み取ったりする読みとは全く違うもので、上手くはまれば非常に納得できるものだ。読者にできるのは、「その物語を分解して、部分がどのようにぴったりと組み合わさっているか、作品の様式の部分がいかに互いに呼応しあっているかを見出すことだけだ」という言い方から来る、まるでジグソー・パズルを解くような印象の言葉とは裏腹に、ナボコフの実際の作品の読み方は、非常にナボコフの個性が出た、温かさを感じさせるものだ。(と言ったらナボコフ先生はあきれるだろうか?)