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わが忘れなば

備忘録の意味で。タイトルは小沢信男の小説から。

ネオコンへの傾倒ぶりに驚き、戸塚ヨットスクール擁護には吐き気を覚えた‐鮎川信夫『時代を読む』を読んだ

 週刊連載文春コラムの1982-85分、100篇を収めた鮎川信夫(1926-1986)『時代を読む』(1985、文藝春秋)を久々に読んだ。

 初めて読んだ時も感じたが、今になって読み返してみると、なかなかもやもやするというか、率直に言って一言反論しておきたくなるような内容が目白押しであった。

 鮎川信夫は、荒地派の詩人で、戦後詩の詩人・詩の批評家としては、一番のビッグネームと言っても過言ではないだろう。ぼくが読んだのは、現代詩文庫の『鮎川信夫詩集』(いまはなき、池袋のポエムパロウルで買った)や『鮎川信夫著作集』の端本、それとこの晩年の文春連載コラムを収めた『時代を読む』と『最後のコラム』くらいのものだが。

 初期の詩群、北村太郎らと同時期に文学者の戦争責任を論じた文章群や『著作集』に収められた詩論にはそれなりに思い入れがないでもないが、今回はそれらとの関連までには手を出さず、『時代を読む』の書き手としての鮎川信夫の感想だけを述べたい。

 まず、大まかな感想を言うと、鮎川信夫、「アンテナの鋭い保守反動」という印象だ。アンテナが鋭い、というのは例えば、マンガやテレビなどのサブカルチャー(花田清輝風に言えば、視聴覚文化もしくは「恥部の思想」)を結構だいたんに評価している。(「劇画コミック『童夢』の迫力」や「松田聖子と竹村健一」)村上春樹ボードリヤールやなどこの当時まだ新しかった作家や思想家、また当時の話題作丸谷才一の『裏声で歌へ君が代』についてもきちんと読み説いて鋭いことを言っている。(「丸谷才一の毒のないパロディ」や「若い世代の感性」)

 誰とは言わないが、80-90年代位から活躍しだして現在でも続々登場しているサブカルやマイナー文化に詳しく、「進歩的な文化人」の偽善性を鋭く突くというイメージの「保守反動思想家に学んだ」タイプの書き手たちの元祖の一人なんじゃないか、という印象を抱いた。

 ぼくが、気になったのは、次のような事件や政治思想についての見解だ。

 率直に言って、小室直樹のロ裁判批判への賞賛にはイライラし、戸塚ヨットスクール擁護には、吐き気を覚えた。オーウェル『1984』をスターリン体制への批判として誉めたり、レーガン政権の新保守革命ネオコンに好意的な言葉を送っているのを読むのは悶々とし、ロス疑惑で三浦を叩いているのは怒りを感じた。

 それぞれについて、さわりだけ抜き出してみる。

反共・反ソ的意見

 彼の意見を要約すれば、次のようになる。共産主義に、よいとわるいの区別はない。中国を強くすることが、世界平和を保障するといった考えは間違っている。中国は四百万の軍隊を擁し、チベットを侵略し、カンボジア、マレーシアにたえず圧力をかけている。
(中略)
 今の日本は、内憂外患交々至るで、厳冬期を迎えようとしている。冬の人の忠告に耳を傾けて損はないはずである。
「ソルジェニーツイン来日の意味」

 核戦争は、十年前にも、二十年前にも起こらなかったのである。十年後にも、二十年後にも起こらないと考えて、何か不都合な理由でもあるのだろうか。過去において、核戦争を防止した抑止力が、今後とも有効に働くと判断しても、少しもおかしくないはずである。キューバ危機のときは、米ソの核兵器の比率は十対一以下であった。二十年でソ連が追いついた。そして、いまが最大の危機だというなら、核戦争の仕掛人はロシア人だというのと同じである。
「人類の絶滅はあるか?」

 五年前ならフォーサイスの意見は、単なるチャーチル主義者の言として無視されたかもしれない。しかし、第二次冷戦時代と言われる今日の状況下ではかなりの説得力を持つはずだ。反戦が戦争に呼び水になることもある。英仏がヒットラーに宣戦布告しても、米英の共産党は、反戦を唱えていたのである。反核、反戦が、西側の弱さと見なされれば、核戦争の可能性を大きくするだけであろう。
「海外篇<<反核>>アンケート」

 今度、三十年ぶりにハヤカワ文庫版(新庄哲夫訳)で読も返してみて、未来社会の想像図と言うよりも、現に存在している「別の社会」を写した小説だということが意外なくらい生々しく感じられた。完全な虚構であり、極度に戯画化されてるが、これはどうみてもスターリン体制以外のものではない。
(「オーウェル『一九八四年』」、1983/12/15)

 ここらへんの意見にきちんとした返答をすることができる人は、共産主義とはそもそもどのような思想で、ソ連はあるべき共産主義であったのかということを判断できる人だけだろう、(ぼくはそうでない)というのが悶々の理由だ。
 ところで、オーウェル=反共という主張は、ぼくも何度か目にしたことがある。たとえば、城島了『歪曲される「オーウェル」―「一九八四年」は何を訴えたのか』(自由社、2009)がある。

歪曲される「オーウェル」―「一九八四年」は何を訴えたのか

歪曲される「オーウェル」―「一九八四年」は何を訴えたのか


アメリカのネオコンへの親炙

一九八○年代に入り、米国はそうした過去を反省して、政治ではポスト・リベラルの時代に移っていく。国民は国家の思い切った進路変更を求めると同時に、その蝕まれた構造を根本から変えてほしいと望むようになる。その結果として現れたのが、「小さな政府」を提唱した前回のレーガンの地滑り的な大勝利だったのである
「ルカックスのレーガン評」

 レーガン政権下の米国では、何が起こっているのか? 一言でいえば新保守主義革命とでも言うべきものだが、その実態は、まだよく知られていない。というより、まったく誤解している人が多い。新しい国家主義だろうくらいに思っている人がいるが、とんでもない誤解である。むしろ強烈な「反国家」の理想によって特徴づけられている。それが分からないと、今の米国で起こっていことは、何一つ分からないだろう。
(中略)
政府の介入にはきりがない。税金を取り過ぎるおせっかいな国家は悪である。小さな政府は防衛に専念すればよい。福祉は少しくらい削っても、実質一千億ドルを上回る民間の慈善活動が上昇して困窮者を救うだろう。(強調、引用者)
「米国の新保守主義革命」

 最後の段落は、新保守主義・反福祉の思想が煮詰まったような強烈な文章だ。

 ジョージ・W・ブッシュまで続いた(途中にに民主党右派のクリントンがいたけど)保守派の時代の「小さな政府」が金融危機をもたらしたことを、鮎川信夫が知ったらどうこたえるだろうか?

ロ裁判批判への賛意

 ロッキード裁判は、もともと不具な裁判である。贈賄者の免責もおかしいし、突然の別件逮捕もおかしい。各省と言えるものはないし、証人はそろいもそろって要領を得ない人物ばかりである。ハチの美恵子の証言だって、田中角栄の犯罪を立証するものとは、到底思えなかった。五億円、五億円と騒ぐが、誰がそれを見たのだろう? 誰も見てはいないのである。
小室直樹田中角栄論」

 ロッキード裁判批判については、立花隆の『ロッキード事件とその時代』(朝日文庫)、『ロッキード裁判批判を斬る』(朝日文庫)といった一連の著作があるが、最近読んだ『政治と情念』(文春文庫)に簡潔にまとまっていた。

政治と情念 権力・カネ・女 (文春文庫)

政治と情念 権力・カネ・女 (文春文庫)


戸塚ヨットスクール擁護

 逮捕は予想されていたのだろう。マスコミの反戸塚キャンペーンは「警察はなぜ放っておくのか」というところまでエスカレートしていたし、テレビ、新聞、週刊誌は、連日のようにヨットスクールの<暴力>や<しごき>の恐ろしさ、凄まじさを報じていたからである。マスコミによる組織的な魔女狩りといってよかった。
(中略)
 重度の情緒障害児を立ち直らせる戸塚の方法は、確かに安全であるとは保証できない。犠牲者を出さないのがいいに違いないが、それを目的にしたのでは、時間と費用がかかるばかりで、立ち直れるものも立ち直れなくなってしまう。そこに戸塚の方法のディレンマがあるが、多くの子供は厳しい<しごき>に耐え、ヨットを操縦することを覚えて、立派に更生しているのである。それらの子供は、もしかしたら一家を破滅させたか、自殺したか、犯罪者になったかもしれない子供たちなのである。
 形式的な民主主義やえせヒューマニストになって戸塚糾弾をやったところで、一人の情緒障害児も直せるものではない。
「戸塚スクールと民主主義」

 人はよく、戸塚の<体罰>には理由がない、といって非難する。しかし、なまじっかの理由があったら、かえっておかしくはないか。どんな理由でも抗弁の余地はあるし、体罰を否定する契機を孕む。
 それを許さないのが、戸塚の教育方針である。わずかな<体罰>による苦痛で値を上げるようでは。ヨットはおろか、世の荒波を乗りきっていくことはできない。それを無言で教え、あくまでも子供の自発心を促すのを目的としているのである。
戸塚宏の本『私が直す!』」

 これはひどすぎる。他の事柄に関しては、本の紹介などでお茶を濁してしまったが、これには自分の言葉で反論しておきたい。

 直近に引用した「戸塚宏の本『私が直す!』」の書評の文章の論理は、まったくひどい、これに従えば、どんな暴力でも認められてしまう論理だ。そもそも理由以前に、<体罰>と称するものは、暴力だから許されないという、当然の考えが全くない。

 「世の荒波」に耐えるために、暴力的な環境をあえて作って訓練しているのだというのは、まったく無茶苦茶だ。そもそもなんでそんな地獄のような社会が存在するのかと言えば、戸塚の暴力を許すような人が大勢いる社会だからではないか!(マッチポンプ! ) 変わらなくてはいけないのは、そんな地獄のような社会の方だ。

 この文章からぼくが感じるのは、「重度の情緒障害児」や不良と呼ばれかねない子供たち、社会にうまく適応できないひとたちに対する憎しみとサディズムだ。「こんな奴らは、暴力をふるわれて当然だ!」と言っているようにしか聞こえない。

ロス疑惑での三浦氏批判

 善良な一市民としては、いかにも不可解な言動である。本当のことが言えないという奇態なビョーキに罹ってしまった人のようだ。これでは、ますます疑惑が集中するのはやむを得ないだろう。一生疑惑をせおっていきていくつもりなのだろうか。余生は長いし、なまじっかな罰よりは重いから、身体にはよほどこたえるのではないか。
「ロス事件とジャーナリズム」

 ロス疑惑については、 島田荘司の著作『三浦和義事件』が必読だ。

三浦和義事件 (角川文庫)

三浦和義事件 (角川文庫)

 この文章についても、戸塚ヨットスクールのについての文章に抱くものと同じような感想を抱くが、罰(リンチ)を与えているのは、異端者やハズレモノ(とされてしまう存在)を許さない社会であり、そのような社会のあり方を積極的に認める、この文章の書き手(たち)ではないのか?