わが忘れなば

備忘録の意味で。タイトルは小沢信男の小説から。

昭和天皇による田中義一内閣倒閣‐半藤一利『昭和史』をもとに

 張作霖爆殺事件の責任者の処分を巡って、昭和天皇田中義一首相を辞職に追い込んだ経緯について、半藤一利『昭和史』(平凡社ライブラリー、2009、親本は平凡社、2004)をもとに簡単にまとめます。同書の第一章「昭和は”陰謀”と”魔法の杖”で開幕した‐張作霖爆殺と統帥権干犯」中の田中義一倒閣について述べた部分(pp30-44、平凡社ライブラリー版)が対象です。

昭和史 1926-1945

昭和史 1926-1945

 この本は、講義形式、というか講談調の本なので、参考文献・資料などをそれほど厳密に記していないようにも感じられますが、この部分は、主に伊藤隆ほか編『牧野信顕日記』(中央公論社)と寺崎英成『昭和天皇独白録』(文藝春秋)を参考にしているようです。

 まず、天皇および側近の宮中グループが田中内閣倒閣に至るまでの経緯をまとめます。

 1928年6月4日、満州軍閥の巨頭張作霖の乗った列車が奉天付近についたとき線路に仕掛けられた爆弾によって、列車が爆発され張作霖が殺されるという事件が起きました。当時、”満州某重大事件”といわれた張作霖爆殺事件です。首謀者は、関東軍参謀の河本大作大佐でした。半藤によると、河本の指揮した陰謀は、関東軍だけでなく、陸軍省参謀本部も関わっていたらしいことが、当時の陸軍大臣などの手紙から推測できるそうです。

これ(元陸軍大臣白川義則から立憲政友会の小川平吉へあてた手紙と工藤鉄三郎・安達隆成から小川にあてた手紙を合わせると、引用者注)を合わせますと、元陸軍大臣の白川が小川に渡した三千円が、河本大作が利用している工藤・安達という男に渡り、彼らがそれで張作霖派の中国人を使って謀略を行わせた、また工藤・安達は金をもらって逃げ出したことなどが分かるわけです。
 当時の三千円というのは、相当の金額です。それが陸軍大臣によって調達されているということは、関東軍だけの謀略ではなく、東京の参謀本部陸軍省が後ろにいたということなのですね。
(p36)

 発生当初から事件が関東軍の陰謀であることを、天皇側近の西園寺公望はかんづいていたようです。田中義一首相を呼びつけ、世界的には公にできないが国内的にはけりをつけなくてはいけないとの方針で、犯人を調べて厳罰に処すように指示したということです。陸軍出身の田中は、調査の実行も天皇への報告もしぶっていましたが、せっつかれて12月24日に天皇に報告し、犯人を厳罰に処すことを約束しました。しかし、陸軍幹部から妨害・牽制され、調査は進まなかったということです。そして、1929年5月6日、再び天皇のもとへゆき、今度は事件は陸軍とは一切関係なく、しかし関東軍には張作霖を警護する義務があったのでそれについて軽い行政処分を行うと報告したそうです。

 ここまでが、天皇および宮中グループ(具体的には、内大臣牧野や侍従長鈴木貫太郎)が倒閣を策謀するまでの前提です。

天皇はびっくりしました。最初は、これは陸軍の謀略かもしれないので犯人は厳罰に処しますと約束しておきながら、約半年もすっぽかした揚句に一切関係ないというのですから、天皇はかんかんに怒ります。
(p37)

 5月6日、牧野と西園寺が会談しました。引用は牧野の日記です。

「ために(田中首相の責任をあくまで追求すると)政変の起こる事も予想せらるるところ、これは政治上ありがちの事にして、さほど心配する事にあらざるべきも、大元帥陛下と軍隊の関係上、内閣引責御本件をい如何に処置すべきや、……善後の処置をあらかじめ考慮し置くべき必要あるべし」
 要するに、責任追及によって政変が起き、田中内閣がひっくり返るかもしれない。しかしそんなことはよくあることなので心配しなくてもよい。ただし、これによって大元帥陛下(天皇)と陸軍との関係がぎくしゃくした場合にはどうするべきか、あらかじめ考えておいた方がいいんじゃないか、ということです。
(pp.37-38)

 5月11日には、牧野と鈴木が会談を持ちます。

「前後の首相の内奏相容れざることありては聖明を蔽う事となり、最高輔弼者として特にその責任を免れず、……聖慮のあるところ御尤もと存じ上げ奉る次第なれば、折を以てその趣を上聞に達せられたく依頼せり。侍従長もまったく同感なりと云えり」
つまり、天皇陛下への田中首相の報告がごまかしだとすると、陛下の判断を曇らすことになる。総理大臣としては責任を免れることはできない。天皇がおいかりになってけしからんと思うのは当然だろう。西園寺さんと私は、少々問題が起こるかもしれないが、あくまで田中の引責辞職を求めるのが正しいと決めた。したがって侍従長にはその旨を天皇陛下に申し上げてほしい、ということです。
(p38)

これによって宮中グループの意志がまとまり、6月27日の田中の最終報告に合わせて、天皇が辞職勧告をすることになりました。ところが、牧野が西園寺にこの決定を確認に行くと意外なことが起こりました。

この件について六月二十七日に田中首相が天皇に最終報告をすることになったため、牧野内大臣が念のため先の結論を確認したところ、なんと西園寺さんが意見をひっくり返してしまったのです。「そんなことをしたらとんでもないことになる。天皇陛下自ら総理大臣に辞めろというなど、憲法上やってはいけないこと。賛成した覚えはない」というわけです。
 驚いたのは牧野内大臣で、「あなた陸軍を抑えなくてはならないとおっしゃったじゃありませんか」と迫っても、西園寺さんは、「天皇自らそのような発言をすることはとんでもない大間違い」として「明治天皇の時代より未だかつてその例はなく、総理大臣の進退に直接関係すべしとして、反対の意向を主張せられ……、」つまり天皇は総理大臣の進退について余計なことは言ってはいけない、と主張しはじめるのです。
(p.40)

 この西園寺の態度について、半藤は陸軍の策動(西園寺に脅しをかけた)と天皇が立憲君主の枠を超えて活動することを恐れたためと説明しています。

 しかし、西園寺の変心(?)が天皇に伝わることはなく、田中と会見した天皇は予定通りに次のような経緯で田中を辞職に追い込みました。

 おそらくこれが鈴木侍従長の耳に入らないまま二十七日となってしまい、天皇は田中義一総理大臣に対して、責任をはっきりさせよ、やめたらどうか、といったようです。
(p.41)

 いくら時間的に差し迫っていたとしても、耳に入らなかったというのはどういうことでしょうか? (牧野がわざと伝えなかった可能性 or 天皇と牧野が西園寺の意見を無視した可能性はないんでしょうかね?)

 その後の展開は、6月28日に白川義則陸軍大臣が陸軍の処分案(軍法会議で罪を問うことなく書類上の裁断で済ます)を天皇に伝え、再び田中が呼び出され、お前はやめるようにとはっきり言われます。そして、7月2日に田中内閣は総辞職しました。

 これを受けて、半藤は『独白録』を引用し次のように書いています。

「こんな云い方(「辞めるように」)」をしたのは、私の若気の至りで会った。(中略)
 いずれにしろ昭和天皇は、結論として、
 「この事件があって以来、私は内閣の上奏するところのものはたとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与えることに決心した」
(中略)
この独白録は戦後に昔のことを思い出して語った記録ですが、証拠はないものの、天皇は「今後は余計な事は言ってはなりません、それは憲法違反になりますから」と、元老の西園寺さんにかなりきつく言われたのではないでしょうか。
(pp.42-43)

  以上が、半藤一利『昭和史』をもとにまとめた天皇による田中内閣倒閣の経緯です。

 簡単に僕の感想をまとめます。

  1. 西園寺が天皇を叱ったというのは、『独白録』の記述などからの半藤の想像のようだがどの程度妥当性があるのか。
  2. 西園寺や天皇も一見陸軍の侵略性に反対しているが、処分を公にする気が最初からないのでは意味がないのではないか。
  3. 半藤は、陸軍軍人には厳しいが、天皇の印象が良くなるように印象操作していないか? (陸軍の横暴を天皇が止めようとして天晴れ、でも陸軍にビビった西園寺に止められ、その後は自分の意思表示が抑えられた、というイメージにもっていっていないか?)
  4. 自分の意思で自分の権力を制限できる立憲君主って何? 立憲君主って言えるの? (この件で天皇が議会の批判を受けたとか、法的に処分されたとかなら分かりますが)

というものです。