わが忘れなば

備忘録の意味で。タイトルは小沢信男の小説から。

アンスコム「トルーマン氏の学位」 (2/2)

アンスコム「トルーマン氏の学位」 (1/2) - わが忘れなばの続きです。

 近刊の松元雅和『平和主義とは何か』(中公新書、2013)を読んだのですが、 平和主義に向けられる典型的な疑問にこたえる形で、平和主義を絶対平和主義と平和優先主義に分けて説明を精緻化していく前半も、正戦論・現実主義・人道介入主義と対決(対話)してながら、平和優先主義を擁護していく後半も面白くて、説得的でした。アンスコムの「トルーマン氏の学位」の議論は正戦論に近いと思うので、『平和主義とは何か』の議論を踏まえて、感想をいつか書きたいです。

(誤訳は多いと思います。。自分でも気づき次第直していきます。また、ご指摘いただければ、なるべく速やかに反映します。)

原文

http://www.pitt.edu/~mthompso/readings/truman.pdf

II

目的のための手段として罪のないものを殺すことを選択する事は常に謀殺だ。当然、殺すこと自体を目的として罪のないものを殺すこともまた謀殺だ。しかしながら、これ[殺すこと自体を目的として罪のないものを殺すこと]は、わたしたちにとって将来の可能な発展でしかない。わたしたちのいる地球の部分ではこれまでのところナチスに限定された慣習だ。わたしは自分の公式化を厳密に取り扱ってもらうつもりだ。ここでの一語一語は必要不可欠なものだ。罪のないものを殺すことは、たとえ統計的な確実性があることを知っていたとしても、必ずしも謀殺ではない。わたしの言っている意味は軍事的な目標、例えば軍需工場や海軍工廠を多く攻撃すれば、いくら注意深くしたとしても、大量の罪のない人を殺すことになるであろうが、これは謀殺ではないということだ。一方で、その可能性を考慮するときに無法が入り込めば謀殺になる。最近、オランダから受け取った手紙をこの点の例として掲げよう。

わたしたちはあなたのトルーマンへの反論がオランダの新聞に載ったのを読みました。わたしもトルーマンのことは好きではありませんが、戦争中に英国が、ゼーラント州の工廠を爆撃したのはご存知でしょうか? その島から逃げ場はありませんでした。そこでは全ての住人が傷つけられました。子供たち、女性、畑で働いていた農民、何百人も何百人もの人たちがです、わたし達は同盟国民だったのに! 誰もこれについて何も言いません。このことは知られるべきです。あるいは、思い出されるべきです。


これは逃げ出したドイツ軍を捕まえるためのものだった。わたしはなんらかの意味のある返答をしていると思う。


破壊しようと欲している事物(や人物)[だけ]を攻撃目標にすることは不可能かもしれない。大勢の罪のない人々を含む対照を攻撃する事だけが可能なのかもしれない。そのときは人々が偶然で死んだとは言えない。ここでは、この行動は謀殺だった。


「しかし、どこに境界線を引くのか? 正確に線を引くのは不可能だ」これは線引きにおいてよくある馬鹿馬鹿しい批難だ。それは非常に難しいかもしれないし、明らかに境界事例も存在する。しかし全く線を引かないという道に入ってしまえば、自由な世神の持ち主なら悪い冗談としか思えないものを正当化してしまうことになる。どこに線があろうと、確実に線のこちら側もしくはあちら側に属する事柄はあるのだ。


では、戦争において「罪のない」ものとは誰なのか? 戦闘に参加しておらず、戦闘の手段として[物資を]供給していないすべての人である。軍隊が食べるかもしれない小麦を育てている農家は「戦闘の手段として[物資を]供給して」いない。これ以上に線引きは非常に困難であろう。しかしこのこと[線引きが困難であること]は線引きを一切すべきでないことを意味しない。たとえ、どこに線を引いていいかに迷っていたとしても、ある事柄が必ずしも線を越えていないかはっきりできないことを意味しない。


「しかし戦闘している人たちもただ徴兵されただけだ! こういう場合、彼らも他の人たちと同様罪のない人たちだ」”罪のない”とはここでは個人的な責任については一切言及していない言葉なのだ。むしろ「害をなさない」という意味だ。しかし戦闘している人たちは「害をなす」、だから彼らは攻撃されうる。しかし彼らが降参し、この意味で罪のない存在となったときには虐待されたり殺されてはならない。彼らを犯罪人として裁こうとしてもならない。戦闘に対して個人としての責任を負っていないということではなく、彼らが自分の国の主権者ではなく囚人であるからだ。


この時点で先手を制しておくべき必要がある経験から分かっているある議論がある。それは、わたしには明らかな揚げ足取りだと思えるが、こういうものだ。わたしの理論では、兵士を殺すことが許されるのは彼が実際に戦闘中の時だけということになるのではないか? それは例えば、睡眠中の部隊を攻撃することはできないのではないか。その答えはこうだ、「ある人物がしていること」というのは、ある瞬間にその人がしていることもしくはある状況での彼の役割全体だ。武装した兵士はたとえ彼が睡眠していても後者の意味で「害をなす」。しかし敵の戦闘力を奪う以上に残忍に攻撃されてはならないのは真実だ。


これらの考えは明瞭かつ知的なものだ。これは形式的には諸国の法に属するといわれてきた。誰もがそれらを善いものと分かっていて、わたしたちの敵が法を乱したとき、道徳的な怒りを以てそれらに犠牲をささげる。しかし、実際はそれらは去ってしまい、ただかけらだけが残される。アイゼンハワー将軍は、例えば、捕虜への騎士道精神については、ほとんだ話していないと伝えられている。


謀殺よりも殺人の恐怖を語るのは今日の特徴だ。それゆえ、戦時下では自分自身が殺人を犯しているのだから―「必要悪」として―殺す人のことは気にしない。これは、悪の業というふうにみえる。しかし、わたしは平和主義が存在することの影響も疑っている。これ[平和主義]は、多くの人が敬して遠ざけている主張だ。この影響は、何が平和主義の間違いをもたらしているかはっきりと考えれば存在しなくなるだろう。


それゆえ、ある人が別の人を故意に殺すことが必然的に悪いことではないことを示すのが重要だとわたしには思える。大半の人が平和主義を拒否しているのだから、わたしは時間の無駄をしているように見えるかもしれない。しかし、それにもかかわらず、この点を議論する事は重要なのだ。もちろん、人々は国内ではこれを受け入れている。しかし、戦争になると彼らはどんな制約もクイーンズベリー・ルールのようなものだと考えるようだ。-謀殺での有罪と無罪の違いを考える代わりに。


わたしは、個人の自己防衛については議論してない。もし、ある人が彼を攻撃してきた人を殺したとしても事故であることはあるだろう。殺すことが目的の場合は謀殺となりうる。(わたしはこの考えでさえゆきすぎることを怖れている。最近ある男が上司が留守の間に危険なブービートラップを仕掛けて逮捕された)


しかし一国には自国民を護るためあるいはぞっとするような不正を正すために故意の殺人を命じる権威がある。(例えば、ヒトラー[政権下]のユダヤ人の苦境は、戦争の合理的な理由となりえただろう)この理由はとても簡単だ。それ[その理由]は、一国が国内で殺人を命じる権利についてまず考察することでいっそうはっきりするだろう。わたしは死刑について述べているのではなく、反乱が起きたときや暴力的な犯人が捕まった時に起こる出来事について述べている。反乱者や犯人はある場合には[軍事]力によって拘束されるだけだろう。[軍事]力を持たない法は役立たず、法を持たない人間は惨めな存在だ。(わたし達の法律があまりにも多くあまりにも変わりやすいので、はっきりとこのように感じるのは簡単ではないかもしれないが)かなりの程度まで明瞭なことだ。社会が平和であればある程、法の番人による殺人が必要なことがはっきりしなくなるとはいえ。このことは、反乱や大きな暴力行為が起きて法の番人による殺人が必要になったときに完璧に明瞭になるだろう。


死刑自体は全く別の問題だ。国家は死刑を宣告されている犯罪者と戦っているのではない。そういうわけで死刑は必要不可欠ではない。人々は[死刑の]ポイントは抑止力にあるのか復讐にあるのかという議論を続けているが、どちらでもない。抑止力ではないのは、なぜなら、誰もそれを証明していないし、人々は自分たちの偏見通りに考えること考えているからだ。そして復讐でもない。なぜならそれ[復讐]は誰の業でもないからだ。この点については混乱が起きている、というのも国は、犯罪者を罰するといわれ、正しくは言われているだけだが、”罰”は”復讐”を連想させるからだ。そして多くの心優しい人々はこういう考えが嫌なので”矯正”だとか”更生”といった言葉づかいを好む。しかし国がある人の権利を―命をも―奪うことは二つの側から考察されるべきだ。まず、その人自身だ。もし彼が「なぜわたしにこんなことをしたんだ。わたしはこんなことをされるはずはないのに」と言ったら、国は不正をなすことになる。それゆえ、彼が有罪であることが証明されなければならないし、罰としてのみ国家は彼に対して害になることをする権利を有している。罰という概念は厚かましくて権力を持つ人々が行う”善いこと”へのわたしたちの予防手段の一つなのだ。次に国家の側に立ってみると神聖で応報的な正義など関心事ではない。単に人々を保護し犯罪者を拘束する必要があるだけだ。[その犯罪者の]自由や生命を奪う権利があるということの根拠は、その犯罪者が壊死しかけた手・足のように迷惑な存在であるという事だけだ。それゆえ、[国は]彼を完全に切り落としてしまうことができる、もし、彼の犯罪が余りにも悪く「わたしはそんなこと[死刑]には値しない」と自己弁護することができない場合には。しかし、わたしが国がある人を殺す権利の根拠は彼が迷惑な存在であることだというときに、わたしが意味しているのは、彼が犯罪者として迷惑だという事のみだ。罪のないものの命は社会の要点だ、だから他の面で(例えば、介護の困難)その人々を国家が排除することを正当化しない。それは問打にすべき別の事柄ではあるけれども。


そういうわけで有罪であることがはっきりした犯罪者は国が死に追いやるかもしれない唯一の無防備な人物である。必要があるわけではない。もっと情け深い法律を選択することも可能だ。(わたしは、死刑への賛意については何の偏見もない)その他のどんな無防備な人物もこの「害を加えない」という意味で罪のない存在だ。


これは、一国が国民に、他国を不正に攻撃もしくはそれに類することをしてきた敵と戦う事を命じる権利の基礎である。外国の悪のために戦いを命じる権利は、たしかにもっとあやしげなものだが、それは隣人が攻撃されたときに感じる人間に共通の同情のために存在するのだ。


それゆえ、平和主義は間違った考えだ。今では疑いえない。この理由で間違いだと言える、なぜならいつも間違った意識を抱いていたからだ。


わたしは人々がこのように語るのを非常によく聞いてきた「よくいうだろう。『善をなすかも知れないからと言って、悪をなしてはいけない』と」しかし、戦争は悪だ。誰でもが知っている。もちろん、今日でも、絶対平和主義者であることは可能だ。わたしは尊敬はできるが、自分がその一員になることはできないし、他の大部分の人たちにしてもそうだろう。だから、わたし達はこの悪を受け入れなくてはならない。これは、この悪を見ないことではない。そしてそうと決めたら徹底的にやらなければならない。これではわたしが誰かを騙そうとしているかのようだが、誰かが私を止めようとしたらこういう、「絶対的な誠実! わたしは敬意を抱く。でももちろん絶対的な誠実は実際には何の意味もない」


当然のことながら、平和主義が非常に有害な主張であるというわたしの苦情はそれが間違った平和主義であるかに依存している。もし、平和主義が真実の主張であるのなら、この無意味な「理想的な偽善」を推奨することは平和主義の振りとならないだろう。しかし、これは間違いだ。わたしは平和主義は非常に悪いものだと思わざるを得ない。


「戦争は邪悪だ」という言明に対する正し答えは戦争は悪い(bad)、つまり戦争状態にあることの不幸ということだ。そして二つの国が戦っている時疑いもなく少なくともどちらかの国は不正義だ。しかしそのことは戦う事が悪いという事を意味しない。


1939年から1945年までにおきた出来ごとの歴史を振り返るとき、わたしはトル-マン氏が名誉を授けられることの驚きを感じない。しかし、彼の行動をひとつひとつ検討するとき、わたしは改めて驚きを感じる。


実際に[核]爆撃を賞賛し大衆に核兵器保有を推奨する人たちがいる。「わたし達は死によって協定を結んだ、そして地獄によって同意に達した」これでは長期的にはこのような希望のための良き基盤とはならないようだ。


平和主義者たちは、長いあいだ次の点を彼らのプロパガンダのポイントとしてきた。すなわち、人間は破壊のための技術が進歩するほどにますます残忍になったというものだ。そして謀殺を擁護するものが熱心にこの点を強調している。そのためにわたしは今ではこの考えが全世界で広く受け入れられていると思っている。もちろん、これは真実ではない。例えば、ナポレオンの時代には破壊の手段はヘンリー五世に時代よりもはるかに進歩した。しかし、ナポレオンではなくヘンリー五世のほうが市民を大量虐殺したのだ。残忍な行為をしつつ、フランスは罪深い国家で、自分は彼らを罰するという髪の指令を受けているのだと主張していた。もちろん、今日までの、本乙に大規模な虐殺は全く原始的な殺害方法を用いた時代に行われてきたのだ。現代では、兵器は大量生産されている。しかし、責任ある人々が残忍であるのは彼らが兵器を持っているからではなく、彼らが残忍だから兵器を持っているのだ。彼らは、原子爆弾がなくても、他の爆弾を使って虐殺を行っただろう。

力を持たない日々とによる抵抗は時間の無駄だ。わたしは原爆のもとで「抵抗のジェスチャー」をする機会について言ったのではない。わたしはトルーマン氏に名誉を差し出すというわたしたちの行為について猛烈に反対している。なぜなら悪事の罪はその行為を弁護することや賞賛することによって共有されうるからだ。わたしは、副学長や学監たちの態度に困惑した時に、なぜオックスフォードのこんないも多くの人たちがこの男を賞賛するべきかを説明しうるものがないか探している。


わたしは、第一次世界大戦に以来のオックスフォードの道徳哲学の研究成果―最近になって読む機会があったのだが―について考察することでこの主題についていくらかの巧妙を得ている。その特徴は手短に簡単に示すことができる。第二次世界大戦までに流布していたオックスフォードの道徳哲学では、ある行為はそれがなされた結果に関わらず”道徳的に善いもの”になりうると教えてきた。一例が、ヒムラーのユダヤ人絶滅の努力だろう。彼は「至高の価値」を持つ「義務感」ららこれを行った。同じ哲学によって人々のために罪のないものを殺すことが正しいことになりうるかもしれない。なぜならなんらかの利点を確保する「第一義務」が罪のない人を殺さないという「第一義務」より重いかもしれないからだ。この種の哲学は現在では廃れてしまって別のものがその位置に座っているようだ。その[哲学の]重要な原則は、「善」とは「叙述的」なことばではなくて、話者の子のんでいる立場の表明に過ぎないということだ。これと手を取り合って、わたしにはなんらかの論理的な関連が存在するのか分からないが、どんな一般的な律法も不可能と言う主張が現れる。つまり、「嘘をつくな」とか「ソドミーを犯すな」とかの律法は経験豊かな人なら破るべき時が分かっている経験則に過ぎない。それ以上にこれらを履行すべきという選択もここの場合における如才ない対応もどちらもその人の「生活様式」に基づいている。どちらの哲学もある種の行動、たとえば謀殺は絶対に排除すべきという考えは拒絶している。わたしにはこれらの考えがどれほど感染力を持っていたか、もっているかは分からない。


この恥ずべき学位授与を取り消すことはまだ可能だ。記念祭に行かないことは可能だ。