わが忘れなば

備忘録の意味で。タイトルは小沢信男の小説から。

『ナボコフの文学講義』と"Strong Opinions"からナボコフの現実に関する意見

 『ナボコフの文学講義 下』(野島秀勝訳、河出文庫、2012)のフランツ・カフカ「変身」講義に、客観的な「現実」というものが主観的な現実を平均して抽出した産物でしかないと主張する、こんな見解が書いてあった。

 「外套」、「ジキル博士とハイド氏」、それと「変身」、この三つはすべて一般に幻想的作品と呼ばれている。私見によれば、傑出した芸術作品はいかなるものであれ、独特な個人の独特な世界を反映している限り、幻想なのである。しかし、これら三つの物語を幻想と呼ぶとき、その意味はこれらの物語が主題において、一般に現実と呼ばれているものから離れているということだけだ。したがって、いわゆる幻想的作品がいわゆる現実からどのように、どの程度に離れているかを見出すために、現実(原文傍点、引用者注)とはなにか、それを調べてみようと思う。
 タイプの違う三人の男が同じ一つの風景のなかを歩いているとする。一番目の男は、当然与えられてしかるべき休暇をもらってやってきた都会人である。二番目の男は、専門の植物学者。三番目の男は、土地の農夫である。都会人である一番目の男は、いわゆる現実的、常識的、実務的なタイプで、木を木(原文傍店、引用者注)として見、地図を見て自分が歩いている道が、事務所の友人がすすめてくれた立派な料理屋があるニュートンに通じる立派な新道であることを、知っている。植物学者はあたりを見まわし、自分の周囲をまさに植物学の見地から、特定の樹木、草、花、羊歯類といった正確に生物学的に分類された単位という見地から、眺めている。彼にとって、これ(原文傍点、引用者注)こそ現実なのであり、彼にとっては(樫と楡の区別もつかぬ)無神経な旅行者の世界が、幻想的、茫漠とした、夢多き、空想の世界なのである。最後に、土地の農夫は、そこで生まれ育ったので、彼の世界は強く情緒的なものであるという点で前二者とはまったく異なる。彼はあらゆる小道、木の一本一本、小道に落ちる木の影一つ一つを、すべて自分の毎日の仕事、自分の少年時代の温かいつながりのなかで知っている。ほかの二人――平凡な旅行者と植物分類学者――が、この一定の時と一定の場所でまったく知りえようもない無数のささやかな事物やものの姿形を知っている。われらの農夫には、周囲の植物と世界の植物学的概念との関係が理解されるときはないだろう。ひるがえって植物学者には、そこに生まれた者にとって、いわば個人的な思いでの培養液のなかに浮かんでいるあの納屋、あの古い畠、ポプラの木の木陰のあの古い家がいかに大事なものであるか、そのことが理解されることはないだろう。
 かくして、ここに三つの異なった世界――三人の男、それぞれに違った現実(原文傍点、引用者注)を持つ普通の人間がいる。(中略)いずれの場合にも、三人の世界はたがいに全く異なっている、木、道、花、納屋、親指、雨(原文傍点、引用者注)といったこの上なく客観的な言葉にも、それぞれのなかに全く異なった主観的な含蓄、内包がひそんでいるのだから。実際、この主観的な人生はたいへん強いので、いわゆる客観的な存在など空ろなひび割れた殻にしてしまう。客観的現実に戻る道があるとすれば、次のようなものだろう――つまり、これら個々別々の世界をとって、それを完全に混ぜ合わせ、その混合物から一滴すくいとって、それを客観的現実(原文傍点、引用者注)と呼ぶことだ。(中略)
 かくして、現実(原文傍点、引用者注)というとき、われわれは実はこれらすべてのことを――一滴の中に――何百万という個々の現実が混じった混合物の平均的標本を考えているのである。特殊の幻想的作品である「外套」「ジキル博士とハイド氏」「変身」のせかいのような背景に対置して、わたしが現実(原文傍点、引用者注)という言葉を使うのは、このような(人間現実の)意味においてなのである。
 
(pp.143-146)

ナボコフの文学講義 下 (河出文庫)

ナボコフの文学講義 下 (河出文庫)

 この意見とちょっと似た意見を、まえにどこかで読んだな、と思ったら、ナボコフのインタビュー集"Strong Opinions"の中の一編だった(BBC、1962、二つ目のインタビュー)。そこの部分を訳してみた。

 あなたの新しい小説、『青白い炎』では、登場人物の一人が、現実("the reality")は真の芸術にとって主体でも客体でもない、真の芸術はそれ自体の現実を創るのだと言っています。現実はなんでしょうか?

 現実とはまさに主観的な代物だ。ぼくはそれを情報の段階的な蓄積と特殊化とでも定義することしかできない。例えば、ユリを例にしてみよう、あるいはほかのどんな自然物でも構わないが、ユリは普通の人よりも博物学者にとってより現実的だ。しかし植物学者にとってはもっと現実的だ。更にもう一段高い現実がユリを専門としている植物学者によって到達される。いってみれば、どんどん、どんどん現実に近づいていくことができる。しかし決して十分ということはない、なぜなら現実とは無限の階梯であり、知覚の段階であり、ニセの底だからだ。それゆえ、到達することも触れることもできない。ある事物についてはいくらでも知ることができるが決して全てを知ることはできない。それはありえない。だからぼくたちは多かれ少なかれお化けめいたものに囲まれて生きることになる――例えば、この機械がそうだ。これはぼくにとっては完全にお化けみたいなものだ。これについては何一つ分からない、そう全くの神秘だ――ちょうどバイロン卿にとってそうであったように。
(pp.10-11)

Strong Opinions (Penguin Classics)

Strong Opinions (Penguin Classics)

 『文学講義』は 1980 年の死後出版なので、Strong Opinions(1973)より活字になったのは後だが、実際にナボコフが大学で講義していたのは、1941年ごろから『ロリータ』で商業的大成功を収める 1958 年までの間、しかも、講義用のノートを執筆したのは 1940 年だというから、書かれたのは『文学講義』の見解のほうがはるかに先だろう。

 両者とも現実というものが主観に依存したものであると語っている(知識の量によって、真の現実との”差”を定量しようとしているかにも聞こえる Strong Opinions の意見よりもそれぞれのアプローチの多様性を強調する『文学講義』のほうが、ぼくには好ましいけれども)。そして、前者では、一般に客観的「現実」といわれるものは個々人の現実を標本平均したものに過ぎないといい、後者では、真の現実は永遠に到達できない無限の知覚の集積の果てにあると語っている。

 絶対に現実へは到達できないという諦念とそれでもそれぞれの人が無限に近付いていくことができるという希望の両方を抱かせる魅力的な見解と思うけど、なぜ別人の現実に対して「これら個々別々の世界をとって、それを完全に混ぜ合わせ」ることができるのだろうか、という疑問と到達できないにせよ、真の現実というものが存在することはナボコフにとって自明だったのだろうかという疑問を抱いた。