わが忘れなば

備忘録の意味で。タイトルは小沢信男の小説から。

アラン・ウッド、碧海純一訳『バートランド・ラッセル―情熱の懐疑家』(1978、木鐸社)感想(1)

 アラン・ウッドによるバートランド・ラッセル(1872-1970)の伝記『バートランド・ラッセル―情熱の懐疑家』(1978、木鐸社)を読んだ。高村夏輝訳『哲学入門』(2005、ちくま学芸文庫)の訳者解説に、ラッセルの生涯を知るには「読み物として面白いのはアラン・ウッド『情熱の懐疑家』[碧海純一訳、みすず書房、1963]」と書いてあったからだ。

 この本は、原著は1957刊、訳書ははじめみすず書房から 1963 年に刊行され、1978 年に「邦訳新装版への訳者あとがき」を付して再刊された。「邦訳新装版への訳者あとがき」には碧海純一がラッセル死去の際に朝日新聞へ発表した追悼文(1970.2.4 夕刊)が全文採録されていて、読み応えがある。

 アラン・ウッドのこの本は原著の刊行年からも分かる通り、ラッセルの生前に刊行されたもので彼の人生のうちの80年ほどを邦訳で400ページ弱の分量で扱ったものに過ぎない。シドニー大学とオックスフォード大学を卒業したウッドは、本書のほかにも『ラッセルの哲学――その発展の研究』というラッセルの哲学についての専門書を計画していたが、本書の刊行後まもない1957年に、43歳で亡くなったため結局、完成されることはなかったそうだ。(ウッド著p.379、p.383)もしウッドが長生きしたら、ラッセルの全人生を俯瞰した大著を書いたかもしれないと想像する。

 これまで、ぼくは、ラッセルの伝記的事実を描いた読み物としては、ポール・ジョンソンの『インテレクチュアルズ』(別宮貞徳監訳、講談社学術文庫)くらいしか読んだことがなかった。この本は、英国の保守派であるジョンソンが、ルソーにはじまって、トルストイマルクスサルトル、ラッセル、etc.といった人たちの主張と実生活の矛盾を論った「週刊新潮」ふうのイヤミな「進歩的知識人」列伝とでもいう本で、読んだときはコノヤロー、と思ったものだったが、そのときのぼくには反論するための知識も頭もなかった(でも自分が特にシンパシーを感じてない人たち――ルソーやトルストイについての章は、フンフンなるほどね、と面白く読んでしまった記憶があるから勝手なもん)。今回、ラッセルの人生についていろいろおもしろい逸話や基本的な知識を知ったので何か反論してやろうと思って『インテレクチュアルズ』を引っ張り出してこようと思ったが、書籍流に埋もれてしまったようで何処をひっくり返しても見つからない。残念だが、反論は本が見つかってからに持ちこしにしよう。

バートランド・ラッセル―情熱の懐疑家 (1978年)

バートランド・ラッセル―情熱の懐疑家 (1978年)

哲学入門 (ちくま学芸文庫)

哲学入門 (ちくま学芸文庫)

 今回からの2-3回くらいの記事で、『バートランド・ラッセル―情熱の懐疑家』でよんだラッセルの生涯にまつわるエピソードをテーマ別に紹介してみたい。

  • 家族

 ラッセルは、1872年5月18日5時45分に、アンバーレー子爵とケイト(旧姓スタンレー)の三人目の子供として生まれた。兄フランク(1865生)と姉レイチェル(1868生)がいた。なお、バートランドという命名については、父方の祖母が「ギャラハッド」というアーサー王伝説に出て来る騎士の名前をつけようとしたが母方の祖母がそんな変な名前を付けるなと反対したせいで「バートランド」になったという話が出て来る。『哲学入門』のジョン・スコルスプキや wikipedia に書いてある、父親の親友のJ・S・ミルが名付け親になったという話はここには出てこない。

 姉と母は、兄フランクが罹患したジフテリアが感染して、1874年に、父は1876 年に亡くなってしまった。そのため、フランクとバートランドは、祖父ジョン・ラッセルの邸「ペンブローク・ロッジ」に引き取られ、そこで養育されることになった。(p.17)

 ジョン・ラッセルは、宰相を務めたこともある政治家で、初代ラッセル伯爵でもあったが、二年後の1878年に亡くなったのでラッセルには直接的な影響をほとんど及ぼしていないようだ。

 ちなみに、ラッセルがケンブリッジ大学トリニティ・コレジに入学する18歳まで過ごした「ペンブローク・ロッジ」は現在では結婚式場になっているようだ。(バートランド・ラッセル・ルームとかいうのまである)


Pembroke Lodge

 そういうわけで、ラッセルの養育に大きな影響を及ぼしたのは、まず第一に祖母ジョン・ラッセル夫人(ミント伯爵の娘で、ジョン・ラッセルの後妻)だった。スコットランド長老会議派の出身で、清教徒的な厳格な性格だったが、思想は進歩的で、ジョン・ラッセルの同僚のうち慎重派からは怖れられていたらしい。アイルランドの自治を支持したり英国の帝国主義戦争に反対したりしていたそうだ。また、70歳でユニタリアンに改宗したそうだ。(p.18)

 八木谷涼子『知って役立つキリスト教大研究』(2001、新潮 OH! 文庫)によると「長老派」とは、予定説のカルヴァンの神学を基礎に置く、謹厳実直・禁欲的というイメージのオカタイ教派のようだ。なんでも聖書に起源をもたない風習を認めないので、クリスマスを禁止していた時期もあったという。

 対して、ユニタリアンは三位一体説を認めない神の単一性(ユニティ)を強調する教派で、インテリ層の進歩的な教派だという。ユニタリアンと近い教派のユニバーサリストは、予定説とまっこう対決の万人救済説をとるらしい。三位一体を認めないので、他の教派からは、異端として見られていたこともあったそうだ。

 そんな保守的な教派から進歩的な教派へ70歳で転向するとは、なかなか並みでない人物だというかんじだ。

 兄フランクは、祖父の死後、二代目ラッセル伯爵を継いだ。内向的な弟と対照的で、活発な性格で自分で望んで寄宿学校に入った。11歳の弟にはじめて幾何学を教えたのもこのフランクだという。オックスフォード大学に入学した後、仏教徒になってパリオル・コレジを追放になった。三度結婚し、アメリカでの離婚手続きの不具合から重婚罪で禁固刑になったこともあるという。訴訟や事情の損失で破産寸前になり、綱渡りのような人生を歩んでいたようだ。(pp.114-115)ラッセルが中国で客死したという誤報を日本新聞が報じたときに「そんな馬鹿なことが――バーティーがおれに黙って中国で死ぬなんて」といった。(p.213)

その他のラッセルの家族としては、叔父のロロと叔母のアガサがいた。叔父のロロは、ラッセルの科学に関する関心をかきたてた最初の人物ということだ。この人は、科学的な内容を盛り込んだ”詩”をつくっていたそうだ。(『吾輩は猫である』に出て来る「巨人引力」みたいなもん?)

 ところで、バートランドの愛称はバーティーだったそうだ。そして、彼にはアガサという名前の叔母さんがいた! となると、気になるのはラッセル家の従僕の名前だ! (残念ながら記述はない)

ジーヴズの事件簿―才智縦横の巻 (文春文庫)

ジーヴズの事件簿―才智縦横の巻 (文春文庫)

  • 教育
    • 初等教育

 バートランドは、初等教育は家庭で受けていた。ケンブリッジ大学に入学するために、古典語(ギリシャ語とラテン語)を勉強する必要があったので、「クラマー」という士官学校を受験する子供たち用の学校に通ったそうだが、それ以外は学校には行かなかったようだ。(p.31)

    • 語学

 バートランドは、英語のほかにドイツ語・フランス語・イタリア語を自由に使えたそうだが、ギリシャ語とラテン語は、同時代の他の哲学者たちと違って自由に操れなかったそうだ。これは、バートランドパブリックスクールに通って6年かけてこれらの言語を学ぶ代わりに「クラマー」で18ヵ月で勉強したからだ。(p.32)

とりあえず、今回はこれくらいにして、次回はラッセルのケンブリッジ入学以降のエピソードを紹介したい。