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わが忘れなば

備忘録の意味で。タイトルは小沢信男の小説から。

”ぼくがキライなドクターは四人、Dr. フロイト、Dr. ジバゴ、Dr. シュバイツァー、Dr. カストロだ! ”―『ストロング・オピニオンズ』 よりナボコフの1968年のインタビュー

 V.ナボコフの『ストロング・オピニオンズ』("Strong Opinions"、1973)から、1968年9月3日に行われた Nicholas Garnham によるインタビューを紹介。(以前のナボコフや”ストロング・オピニオンズ”間連のこのブログの記事はここに。"ナボコフ" - 記事一覧 - わが忘れなば今回のインタビューについても、少し触れてた。”考えることは天才的、書くものは並はずれた作家のもの、喋ると子供みたい”-V. ナボコフ, "Strong Opinions" の感想 - わが忘れなば

 このインタビューは、収録されているもののうちでも特に短いものもひとつだが、ナボコフ・インタビューの特徴(”フロイト嫌い”、”新作の紹介”、”ナボコフのいう現実とは主観的なものだという意見”、”ドストエフスキーへのイヤミ”など、この本のいろいろなインタビューで繰り返される)が詰まっているという印象を持った。

 では、Strong Opinions のインタビュー・パートより9番目のインタビュー。(BBC、1968)

 (ちなみに、原文は、ここNabokov's interview. (09) BBC-2 [1968]でよめます。誤訳などのご指摘をくだされば幸いです。ブログのコメント欄か、プロフィールに書いてあるメール・アドレス(fromambertozen[at]gmail.com)もしくは、twitter(kohaku_nanamori)に頂ければ、反応できます。)

  • あなたは、ご自分の小説には「なんの社会的な目的も道徳的メッセージもない」とおっしゃいましたね。あなたの小説に特別な役割とは何ですか? また、普通の小説はどんな役割を持っているものでしょうか? 

VN ぼくの全小説の持っている役割の一つは、普通の小説なんてものは存在しないということを証明することだ。ぼくの作った本は、主観的で特別なひとつの事件だ。ぼくは、文章を創ることに対してそれを創る以外の目的を全くもっていない。ぼくは、完全な所有の感覚と喜びを手に入れるまで、懸命に・長い時間、文章を練り上げる。そして、読者が読むときにはーーもっともっと、(そういう努力が必要)だ。芸術は、困難なものだ。簡単な芸術が見たかったら現代美術館に展示してある作品やら落書きやらを見ればよいよ。

  • あなたは、本の序文でフロイトのことをいつもウィーンの魔術師と揶揄していますね。

VN なんだってぼくの心の傍らにいる赤の他人を大目に見なけりゃいけないんだ? 前にも云ったかもしれないが、もう一回言っておくよ。キライな Dr は一人じゃなくて四人なんだ。 Dr. フロイト、Dr. ジバゴ、Dr. シュバイツァー、Dr. カストロだ。もちろん、最初の奴は、服は着ている。他の連中は解剖室で話している。ぼくは、オーストリアの変人が古い雨傘について抱いた、くすんだ中産階級の夢についての夢を見る気はない。あと、フロイトの信者どもが倫理的に危険な影響を起こすかも知れないとも指摘しておこう。例えば、サナダ虫並みの脳みそを持った不潔な殺人者に、そいつの母親がわが子をひっぱたきすぎたとか、ひっぱたかなさすぎたとかーどちらもでいいんだ、精神分析にとってはーそういう理由で軽い判決が下されるとか。

  • あなたが現在取り組んでおられる小説は、どうやら、”時間”に関するものですよね? あなたは、時間というものをどのように捉えておられますか? 

VN ぼくの新作は、(現在800ページのタイプ原稿になっているが、)ある家族の年代記で、ほとんどの出来事は夢の中のアメリカで起こる。五つから成る章のうちひとつは、ぼくの時間に関する観念についてのものだ。ぼくは、時空間に対してメスをふるって、腫瘍である空間を切り取ってしまった。ぼくはたいした物理学の知識があるわけではないが、アインシュタインの巧みな公式は拒否している。しかし、無神論者になるのに、神学について知っておかなくてはならないわけではないからね。ぼくの作り出した二人の女性には、アイルランド人とロシア人の血が混ざりあっている。一人の少女は、700ページ生きて、若くして死ぬ。彼女の姉妹はハッピーエンディング、つまり95本のろうそくがマンホールの蓋の大きさのケーキにともされるまで、ぼくと共に在る。

  • あなたが心酔する作家とこれまでに影響を受けてきた作家をお教え下さい。

VN まずは、ぼくが一目見てきらいになる現代作家どもの本について話した方がいいだろう。マイノリティーグループについての生真面目なケース・ヒストリー、同性愛者の悲哀を扱ったもの、反米親ソのお説教、子供のわいせつ行為が書かれた悪漢小説。これは、私的な分類のいい例だ。いっしょくたに扱われ、タイトルは忘れられ、作者も混ざりあうよ。影響ということだが、誰である特別の作家に影響を受けたことはないし、どんなクラブや運動にも参加したことはない。実際、ぼくはどんな大陸にも属していない。ぼくは、アトロンティス大陸の上空に浮かぶ羽根だ。とても明るくて青いプライベート・スカイにいて、鳩の巣穴や土くれのような鳩どもを見下ろしているよ。

  • チェスやポーカーといったゲームのパターンは、あなたにとって魅力的であるばかりか、あなたの運命論者的な人生観とも関わっているようですね。あなたの小説における運命の役割についてご説明頂けますか? 

VN ぼくはそういったなぞなぞの答えは学問的な注釈者のために取っておいてある。誰が見ても、いわゆる中心的なアイデア、例えば運命とか、をぼくは自分の小説の中に見出すことができない。少なくとも数語やそこらでぼくの小説を表現する言葉はない。あと、ぼくはそういったゲームに興味がない。ゲームというからには他人に参加が必要だ。ぼくの興味があるのは一人で出来るものだ。例えば、詰めチェスを作るとき、ぼくは凍りついたような孤独の中にある。

  • あなたの小説にはいつも映画やパルプ・フィクションへの言及があります。あなたは、大衆文化の雰囲気がお好きなようですね。そういった作品を実際に楽しまれているのですか? また、御作とそれらの関係は? 

VN いや、大衆小説なんて大っきらいだ。ゴーゴーギャングも嫌いだし、ジャングル・ミュージックも、サイエンス・フィクションも、そこに出て来る小娘や小僧っ子も、サスペンスもサスペンソリーも嫌いだ。下品な映画がことのほか嫌いだ。

  • ロシアからの亡命は、あなたにとってどのような意味がありますか?

VN 生まれた教区から一歩も出たことがなくても常に亡命者であるようなタイプの芸術家に、ぼくは親近感を感じるが、もっと言葉通りの意味で言えば、亡命したことで芸術家の受ける唯一の影響は本が発禁になることだ。ぼくが43年前にドイツの下宿屋の虫食いだらけのカウチで初めて書いた小説以来すべての作品は、ぼくの生まれた国では禁止されている。これはロシアの損失であって、ぼくの損失ではない。

  • あなた全創作において、想像上の存在の方が、古くて退屈な現実よりもずっと真実であるという感じがあります。あなたは、想像と夢と現実のカテゴリーをどのように捉えておられるのですか? 

VN 君の使う”現実”という言葉は、ぼくを当惑させるね。確かに、平均的な現実というものはある、我々みんなに知覚されるものだ、しかしそれは、真の現実ではない。それは単に一般的な意味での現実、単調で古めかしい形式でしかない。君が「古い現実」ということばをいわゆる昔の「リアリズム」小説ーバルザックやサムセット・モームD.H.ロレンスの陳腐な作品ーの意味で言ったのなら、平凡な登場人物によって演じられた現実は退屈なもので、対して想像の世界が夢のような非現実的な面を持つという意味なら正しい。逆説的だが、唯一の現実的で、確実な世界は、非現実的に見えるのだ。

  • あなたが、生をとても喜劇的で残酷なジョークだとみなしていると言ったら、正当でしょうか? 

VN 君の言う「生」という言葉は、ぼくには受け入れられないような意味で使われているね。誰の生だ? 何の生だ? 誰のものでもない人生なんてものは存在しない。レーニンの人生はジェイムズ・ジョイスの人生とは、何百もの墓穴とブルー・ダイヤモンドが違うくらいに全然違う。二人ともスイスに亡命し膨大な量の言葉を紡いだが。あるいは、オスカー・ワイルドルイス・キャロルの運命を取り上げてみよう。一人はひけらし屋のハデな倒錯者で、獄に繋がれた。もう一人は、自分のつつましやかな、しかし、もっとずっと邪悪な小さな秘密を現像室の感光乳剤の中に隠した、そして全ての時代において最も偉大な子供の物語の作者になって生涯を終えた。ぼくはこういう実人生のファルスには何の責任も持たない。ぼく自身の人生については、ジンギス・カンのそれと比較にならないくらい幸福で健康だ。彼は最初のナボク(Nabok)の父親に当たる人物だといわれている。(ナボクは、)12世紀のタタールの小国の王子で、ロシア人の娘と結婚した。ぼくの作品の登場人物の人生について言えば、全部が全部グロテスクで悲劇的なわけではない。『賜物』のフョードルは忠実な愛に恵まれて、早くから自分の才能を自覚している。『青白い炎』のジョン・シェイドは、強烈な内的な実存を導くし、君のいうジョークとは遠く隔たっている。君は、ぼくとドストエフスキーを混同しているにちがいないね。

 簡単に注釈&感想を。

 ナボコフが自分の小説に「なんの社会的な目的も道徳的メッセージもない」と言ってるのは、1962年のインタビュー(BBC)のこの箇所のことだろう。

  • あなたはなぜ『ロリータ』を書いたのですか? 

VN それが面白かったからだよ。ほかの本だってどんな理由で書くというんだい? それが悦びだから、それが困難だからだ。ぼくには社会的な目的なんかないし、道徳的なメッセージもない。展開しようという一般論も持っていない。ぼくは、ただパズルと素敵な解答を作るだけだ。

 あるいは、1962年の別のインタビューでも同じようなことを言っている。

  • -インタビュアーたちは、あなたを掴みどころのない人物だと考えています。どうしてですか?

VN ぼくは自分が公的な主張を一切持たない人間であることを誇りに思っている。今までの人生で酔っぱらったことは一度もないし、男子生徒たちが使う四文字言葉子使ったことも一度もない。事務所や炭鉱で働いたこともない。クラブや集団に属したこともない。どんな宗派や学派にも一切影響を受けたことはない。政治小説と社会的な目的をもった小説ほど僕を退屈させるものはない。
(『ストロング・オピニオンズ』p.3)

 ナボコフフロイト嫌いが話題になっているけれど、ナボコフはロシア語時代の自作の英訳版の序文にいつもフロイトの悪口を書いていた。例えば、『ディフェンス』(ロシア語原書1930、英訳版1964、日本語訳1999)から、

ロシア語で発表した小説の英語版(これからも何冊か出る予定)に最近付けている序文では、私はウィーンからの派遣団に対して歓迎の言葉を述べるのを決まりにしている。本書のまえがきもその例外ではない。精神分析にたずさわる医者や患者なら楽しんでいただけると思うのは、ルージンが神経衰弱になってから受ける治療の詳細であり(たとえばチェス選手は、自分のクイーンにママの、そして相手のキングにパパの面影を見るといった暗示療法)、さらに鍵穴式(ピックロック)携帯盤をこの小説を解く鍵だと誤解するフロイト派の小僧は、漫画的にとらえた私の両親や、恋人や、一連の私自身と登場人物たちを同一視することをきっとやめないだろう。そうした探偵諸君のためを思って告白しておくと、私がルージンに与えたのは私のフランス人女家庭教師と、私の携帯用チェスセット、私の優しい気質、それに我が家の壁に囲まれた庭で私が拾った桃の種であった。

(『ディフェンス』、若島正訳、河出書房新社、1999、p.9)

ディフェンス

ディフェンス

 さらに、『キング、クイーン、そしてジャック』(ロシア語原書1928、英語版1968、日本語訳1977)から。

 例によって、言わせていただきたいのだが(そして、例によって、ぼくの好きな感受性に富んだ読者は機嫌を損ねると思うが)、例によってウィーンからの派遣団はご招待しないことにする。しかし、もし果敢なるフロイドの信奉者が、なんとかまぎれ込み得たなら、彼または彼女に、この小説には随処に意地悪い穽(おとしあな)が仕掛けてある、と警告しておかなければならない

(『キング、クイーン、そしてジャック』、出淵博訳、集英社、1977、p.8)

 ついでに、『断頭台への招待』(ロシア語原書1938、英語版1959、日本語訳1977)からも。

この小説は虚空で奏でられるヴァイオリンなのだから。(・・・)意地の悪い人間は、エミーのなかに、ロリータの姉妹を認め、さらぬヴィーンの妖術師(フロイトのこと)の弟子たちは、罪悪の共有と進歩主義的(プログレシヴィノエ)教育から成り立っている彼らのグロテスクな世界にあって、これを読みながら忍び笑いをすることだろう。

(『断頭台への招待』、富士川義之訳、集英社、1977、p.221)

 ナボコフフロイトへの悪口がしつこすぎて、後年のインタビュー(「ナボコフ・ラストインタビュー」『ユリイカ 特集ナボコフあるいは亡命の二十世紀』)ではこんなこと聞かれちゃってる。

ロバート・ロビンソン フロイトの学説がお嫌いのようですが、お話をうかがっていますと、裏切られた者の怒りがこもっているようにも聞こえます。したたかな奇術師にスリーカード・トリックでまんまといっぱい食わされた人ならさもあらんというような。ひょっとしたら、以前はフロイトの熱烈なファンでいらしたとか。

ウラジミール・ナボコフ これはまたずいぶんとおかしなことを思いつくものだな! 正直いって、あのウィーン野郎の雄叫びにはうんざりだよ。そりゃあ私だって、かつてはフロイトを追って思考の小暗い小路をたどってみたことはある。だが、酔っぱらって傘の先でドアの鍵を開けようと必死になっているといわんばかりの学説は、もう二度とごめんだ。

(『ユリイカ 特集ナボコフあるいは亡命の二十世紀』、1991、p.76)

 ところで、キライな四人のドクターのうち、フロイトについてはいつも言ってるから、まあ、分かる、『ドクトル・ジバゴ』も否定的な評価を『ストロング・オピニオンズ』のインタビュー22でしている。けれど、シュバイツィアー博士は、なぜ? あと、Dr. カストロってフィデル・カストロのことなのか? 彼は、Dr. なのか? 日本語と英語の wikipedia をちょこっとみたけどよく分からなかった。もし、フィデル・カストロがドクター付きで呼ばれる理由、もしくは他のカストロ博士に心当たりがある方がいたらご教授ください! 

 このインタビューで話題になってる新作は、『アーダ、あるいは情熱-ある家族の年代記』で間違いないだろうけど、現在、若島正による新訳が進行中(『アーダ』翻訳をめぐって - Togetter)とのこと。年内に訳了するかもしれないようなので、これは楽しみ。(最後にちらっと言及されているラッセルへの悪口が気になる! ぜひ確認しておこう。)

 ナボコフが”現実”について語るのは、『ストロング・オピニオンズ』ではここだけではなく、また、『ナボコフの文学講義』でも似たような見解を披露している。それについては、前にブログ記事(『ナボコフの文学講義』と"Strong Opinions"からナボコフの現実に関する意見 - わが忘れなば)にしたことがある。

 ルイス・キャロルについては、ナボコフは『不思議の国のアリス』をロシア語に訳している。下のリンクを参照。

Льюис Кэрролл. Аня в стране чудес(”Алиса в Стране чудес”というのがロシア語のタイトルのようです。)


 ナボコフ、最後にお得意のドストエフスキーへのイヤミを披露しているけれども、ナボコフドストエフスキー嫌いについては、最近、秋草俊一郎「ナボコフがつけなかった注釈」という論文(http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/15494/1/SLA0230004.pdf)を読んだけど、なかなか単純でない関係があるみたい・・(この論文、面白かった。結構、ナボコフ観を、変えてしまう・・・ )

 ちなみに、ナボコフは『二重人格』が一番好きなそうな。

VN ドストエフスキーでは、『二重人格』が一番ましかな、恥ずかしげもなく、露骨にゴーゴリの『鼻』のまねだけどな。
(『ロリータ』の注釈をつくった、ナボコフの教え子でもあるアルフレッド・アペルJrによるインタビュー。)

(今後、書き加えたりするつもりです。)