わが忘れなば

備忘録の意味で。タイトルは小沢信男の小説から。

ロバート・H・ディッケ 「ディラックの宇宙論とマッハ原理」―「物理学者を作るのに炭素が必要だということはよく知られているのだ」

 ロバート・H・ディッケの論文"Dirac's Cosmology and Mach's Principle" (Nature 192, 440 - 441 (04 November 1961), doi:10.1038/192440a0) の翻訳です。[]内は訳注です。

 論文といっても、 1 ページ強の「編集者への手紙」("Letter to editor")です。

 「人間原理」(the anthropic principle)のはじまりとなった論文として名高いものですが、もともとはポール・ディラックの「巨大数仮説」に反論した内容です。

この論文に関する日本語の解説としては、三浦俊彦『論理学入門』の第二部があります。

 「巨大数仮説」については、『ディラックの現代物理学講義』に、ディラックが1975年にシドニーで行った講演が入っています。

ディラック現代物理学講義 (ちくま学芸文庫)

ディラック現代物理学講義 (ちくま学芸文庫)

ディラックの宇宙論とマッハ原理

 {m_{p}}をなんらかの素粒子、[値を]確定するために、ここでは陽子の質量としたとき、無次元の重力結合定数[dimensionless gravitational coupling constant]

{\frac{G {m_{p}}^{2}}{\hbar c}\sim 5 \times 10^{-39}} (1)

は、あまりに小さな数値なので、その重要性[significance]が長く疑問視されてきた。 Eddington1は、これを含むすべての無次元の物理定数は簡単な数学的な表現で評価できるのではないかと考えた。Dirac2は、このような奇妙な数値は、必ずや他の同程度のサイズの数値と関係があり、宇宙の構造[structure of the universe]を特徴づけているだろうと考えた。しかし、大半の物理学者は(1)のような無次元の定数は、自然[Nature]によって与えられたものであり、[他の数値から]計算することはできず、どんな形でも他の数値とは関係していないと信じているようである。

 Dirac は大半の物理的、宇宙物理的な無次元の定数は、10^{40}という数値の(正または負の)整数乗のケタを持っていると指摘している。ここで、{m_{p}/m_{e}\sim 1,800}{\hbar c/e^{2}\sim 137}といった数値はヒトケタつまり10^{40}の0乗のケタだといえる。彼は、一見関係のない巨大な数が、偶然一致してあらわれるということはありそうもないと考え、なんらかの未知の因果関係[unknown causal connexion]が存在すると[いう説を]提案した。

 そのような巨大数[large numbers]の一つに

{T\frac{m_{p}c}{\hbar}}\sim 10^{42} (2)

がある。ただし、{T}は宇宙のハッブル年齢(the Hubble age of the universe)である。進化する宇宙では、{T}は時間とともに変化する。このことから、Dirac はすべての巨大数は、時間とともに、{T^{n}}の変化に対して、{(10^{40})^{n}}とともに変化すると考えた。Dirac[2] はこの着想に基づいて宇宙論を構築し、Jordan3 は、Dirac の宇宙論に対応する適切な相対性理論を導出した。

 三つの主要な巨大数[The three principal large number]は、式(1)、(2)および観測可能な宇宙の質量によって与えられる。[三つ目の巨大数である宇宙の核子数は]次のように、

{\frac{M}{m_{p}}\sim 10^{80}=(10^{40})^{2}} (3)

と表される。[M は観測可能な宇宙の質量である]Dirac の仮説のよれば、これらの三つの数値は、それぞれ時間の-1乗、1乗、2乗にともなって変化するはずだ。

 Dirac の仮説の正当化には、三つの数値(1)、(2)、(3)の間に関係があるということ以上の仮定が必要であることを指摘しておこう。加えて、三つの数値の見かけの相互関係[apparent interconnexion]が、時間とは独立であることも仮定しているのである。この仮定は統計的な考察によって検証しうるだろう。もし現在の{T}の値が概念的に、{T}の広い範囲の可能な値からランダムに選択したものだとみなすことができるのなら、この現在の「選択」の事前確率[a priori probability]は非常に小さなものであり、偶然に三つの数値の間に上で見たような関係が生じたというのはありそうにないといえる。三つの数字の相互関係がはっきりしていないときに、この種の考察で Dirac の仮説が支持されるためには、{T}が非常に広い領域から選ばれたものであり、事前確率が非常に小さいものであることが不可欠である。

 宇宙が進化していることを仮定すれば、{T}を膨大な範囲の数値のなかから選ぶことは許されず、人類の活動期という生物学的な要請を満たすように、ある程度限定された値しか取ることができないということを示そう。

 これらの(生物学的な)要請の内のうちには、宇宙は、つまりは銀河系も、水素以外の元素を存在させるのに十分な時間がたっていなくてはならないということが含まれる。物理学者をつくるのに炭素が必要だということはよく知られているからだ。 (強調、翻訳者)

 銀河系は、最初水素だけから成り立っていたことが分かっている。だから人類の活動期の開始までの最小の時間は、水素以外の元素が最短寿命の恒星の内部でつくられて、星の死によって[宇宙に]ばら撒かれるまでの時間によって決定される。

 人類の活動期の上限は、恒星を巡っている惑星が、人間が生存できるような環境にある時期によって決まる。この時間は恒星が、核反応によってエネルギーを生産できる最長の年齢によって決まる。比較的重くない恒星では、重力収縮は、中心温度が核反応が起きるまで高温になる前に、電子の縮退圧が開始することによって止まる。最も寿命の長い恒星の質量は、電子の縮退圧が核反応温度で起きると仮定することで計算できる。これによって、{M_{s}}の下限を決めることができる。ただし、{M_{s}}は恒星の質量である。

{\frac{M_{s}}{m_{p}}\sim 10^{-3}(\frac{\hbar c}{G{m_{p}}^{2}})}^{3/2}(4)

ただし、ここでも{m_{p}}は陽子の質量とする。前に述べたケタの定義によって、10^{-3}は1と等しいとみなされ、この数値は(10^{40})^{3/2}のケタである。

 上記の質量を持つ恒星の寿命は、

{T_{max}\sim (\frac{m_{p}}{m})^{5/2}(\frac{e^{2}}{\hbar c})^{3}(\frac{G{m_{p}}^{2}}{\hbar c})^{-1}\frac{\hbar}{m_{p}c^{2}}}(5)

となる。ただし、{m}は電子の質量である。'1とみなせる数値'['unity factor']を無視することにより、

{\frac{m_{p}c^{2}}{\hbar}T_{max}\sim (\frac{Gm_{p}^{2}}{\hbar c})^{-1}}(6)

となる。これは、式(1)および(2)と整合的である。同様に、星の安定性という要請から、{T_{min}}も決定でき、同じケタの数値となる。よって、われわれのもともとの仮定に反して、Tは可能な広い領域からの'ランダムな選択'ではなく、物理学者の存在という基準によって制限されるのである。

 二つの問題が残っている。なぜ重力結合定数はこんなに小さな値なのか? なぜ式(3)の平方根は式(1)の逆数とほぼ一致するのか? この二つの疑問はマッハ原理の導入によって解決される。マッハ原理による説明4-6によれば、重力結合定数は固定された値ではなく、宇宙の質量分布によって、次のように定まる。

{\frac{GM}{c^{3}T}\sim 1}(7)

式(7)と(6)を組み合わせることで、式(1)と(3)を組み合わせた表現が得られる。

 重力定数が小さいことへの答えは、宇宙には非常に多くの物質があるということである。これは十分な解答ではないかもしれない。完全に十分な回答が得られるためには、質量の生成が解明されることが必要である。

 Dirac の宇宙論には、統計的な支持がないことが分かった。しかしながら、現在物理学者が存在していることとマッハ原理の正当性を支持することで、三つの式(1)、(2)、(3)によって与えられる数値のケタの関係という要請を満たすには十分である。

R.K.DICKE

 Palmer Physical Laboratory,
Princeton University,
New Jersery.

[1] Eddington, A. S. , Theory of Protons and Electrons (Cambridge Univ. Press, 1936).
[2] Dirac, P. A. M. , Proc. Roy. Soc., A, 165, 199 (1938).
[3] Jordan, P. , Schwerkraft und Weltall (Braunschweig, 1955).
[4] Sciama, D. W. , Mon. Not. Roy. Astro. Soc., 113, 34 (1953).
[5] Dicke, R. H. , Amer. Scientist, 47, 25 (1959).
[6] Brans, C. , and Dicke, R. H. , Phys. Rev., 124, No. 3 (1961).

 続けて掲載されたこの論文に対するディラックの応答です。

 Dicke は三つの宇宙論に関わる数値について議論している。(1)は、重力結合定数を決定する。(2)は宇宙のハッブル年齢を決定する。(3)は、宇宙の粒子数である。これらは次のような関係にある。(1)はおおまかに(2)の逆数である。(3)はおおまかに(2)の二乗である。私は、これらの関係は自然の基本的な何か[something fundamental in Nature]に対応しているのではないかと考えた。宇宙の進化に伴って、(2)は時間と共に変化するので、(1)や(3)も時間と共に変化するはずであろう。

 Dicke は、(1)と(3)の間の基本的な関係はマッハ原理に従うものであると考えている。しかし、(2)は独立であり、(1)と(3)はおそらく定数であると考えている。そして、彼は、惑星が[人間にとって]生存可能であるという条件を考慮すれば、(2)がおおまかに現在の値を取らなければならないことを示した。この仮定の下では、居住可能な惑星が存在するのは非常に限られた期間だ。私の仮定の下では、将来まで[居住可能な惑星は]存在し、生命は終わるとは限らない。

 これらの仮定からどちらかを選択するための決定的な説明はない。私としては終わりなき生命の可能性を許容する仮定の方を好む。いつの日にか誰か、直接的な観察によって疑問が決着することを望む人もいるだろう。そのためには、{10^{10}}分の{1}の精度で(1)を測定し、数年後にまた測定を繰り返し、値の変化を調べる必要があるだろう。

P.A.M. Dirac

St. John's College,
Cambridge.

「物理学者をつくるのに炭素が必要だということはよく知られている」のところで、笑いました。