わが忘れなば

備忘録の意味で。タイトルは小沢信男の小説から。

”財界の秘密結社”こと協同調査会の実働部隊を務めた坪内嘉雄の経歴―坪内祐三『総理大臣になりたい』(講談社、2013)感想

 7/11-12 で、坪内祐三『総理大臣になりたい』(講談社、2013)という(ちょっと妙なタイトルの)新刊を読みました。

総理大臣になりたい

総理大臣になりたい

 この本の前半部分では、財界の裏面で活躍(暗躍?)した著者の父・坪内嘉雄(1920-2012)のことが語られていましたが、それが結構興味深い内容でした。(坪内祐三は、『文学を探せ』の後半でもいくらか嘉雄のことを書いていましたが、ここまで委しく書いてはいませんでした。)出たばかりの新刊をあまりネタばらししてしまっては悪いので、興趣を削がない程度に簡単に紹介&感想を述べたいと思います。

 著者は、坪内嘉雄のことを次の様に紹介しています。

私の父は不思議な人でした。東大の法学部を出て、海軍の短期現役士官、通称「短現」として海軍経理学校に進んでいます。これは政治家で言えば中曽根康弘と同じコースです。昭和十九年になると中国に渡り、南京の警備隊や上海の第一海軍経理部隊にいたようです。
 父は一九二〇(大正九)年生まれですから、二十五歳で終戦を迎えています。戦争中は中尉で、戦争が終わったときに大尉になった、いわゆるポツダム大尉です。二十五歳で大尉というのはかなりのエリートで、学歴や経歴を使えば一流企業に入ることだってできたはずですが、どうも日本に戻ってからまともに勤めた痕跡はありません。生前、本人は「王子製紙にちょっと勤めたんだ」とか「渋沢さんの一族に可愛がられたんだ」とか言っていましたが、私が記憶しているのは日本メラミンという会社を経営していたことぐらいです。その会社も工場が爆発して倒産してしまいました。それから、戦後すぐの時期には日本青年会議所の創設の舞台裏で暗躍していたはずですが、それもどこかの会社に属してやったわけではありません。
(pp.15-16)

 坪内嘉雄の父・利八は、愛知一中をトップで、一高をほぼトップで、東京帝大法学部を銀時計組で出て、第一銀行に勤めた人物でした。利八は、学費を援助してくれた織田一(織田信長の家系)という農商務省の官僚の長女と結婚したそうです。また、織田一の次女と結婚したのが、利八と法学部で同窓だった石坂泰三(後に経団連会長)だそうです。

 坪内利八と織田一については次の記事に委しく書かれていました。

2010-02-26 - 神保町系オタオタ日記

 戦後、坪内嘉雄は、”財界四天王”と呼ばれた櫻田武(1904-1985)、小林中(1899-1981)、永野重雄(1900-1984)、水野成夫(1899-1972)という面々に可愛がられたそうで、彼らが幹事を務める共同調査会という組織の実働部隊として働きました。

 坪内嘉雄の財界とのかかわりで、もっとも気になるのは、この”財界の秘密結社”こと協同調査会の実働部隊である「補佐会議」のメンバーであったことです。協同調査会については、著者も引用している中川一徳『メディアの支配者』(講談社、2005)の上巻第四章「梟雄」の「財界の秘密結社」(pp.361-365)に委しく書かれています。『メディアの支配者』の記述から共同調査会の沿革と活動内容を簡単にまとめてみます。

メディアの支配者 上

メディアの支配者 上

 まずは、沿革から。

  • 櫻田武が音頭をとり、当時の戦後新興財閥のトップたちが共産党など左翼対策のために設立した。(名目的な代表は、植村甲午郎
  • 設立は1955年9月、1968年11月に解散するまで13年間活動を続けた。
  • 一部上場企業140社あまりのトップ(会長か社長)によって構成されていた。
  • 組織は、意思決定を司る「幹事会」と実働部隊である「補佐会議」から成っていた。
  • 幹事は、東京では櫻田武、植村甲午郎(1894-1978)、小林中、水野成夫佐藤喜一郎(1894-1974)、永野重雄今里広記(1908-1985)。大阪・名古屋では堀田庄三(1899-1990)、松下幸之助(1894-1989)、芦原義重(1901-2003)、松原与三松(1895−1975)、野淵三治。
  • 幹事会は、月一回東京と大阪のホテルで交互に開かれた。
  • 活動の実務を執った補佐会議のメンバーは、鹿内信隆(1911-1990)、小坂徳三郎(1916-1996)、井深大(1908-1997)、早川勝(1904−1979)、坪内嘉雄など数人で構成された。
  • 補佐会議は、鹿内が中心となって、坪内嘉雄が事務をとり、毎週火曜日に日活ビル(日比谷パークビル、2004年解体)四一五号室の事務所で開かれた。
  • 年会費は、資本金によって一口百万と七十万に分かれ、年間予算は二、三億円に上った。

 これを見ると、補佐会議のメンバーは、おおむね幹事会のメンバーより一回り程度若く、坪内嘉雄はその中でも若い方でした。そして、実際にしていた活動はこんなものだったようです。

  • 公安関係者等を利用して入手した企業内の共産党員リストを企業のトップに示し、「このままではあなたの会社は破壊される。協力して下さい」と呼びかけることで会員獲得。
  • 日教組の分裂工作
  • アメリカへの教員派遣
  • 三井・三池争議の鎮圧
  • 民社党の結党資金の提供(鹿内信隆西村栄一に五億円を手渡したと坪内嘉雄が証言)
  • マスコミ対策(ニッポン放送、フジテレビ、産経新聞を押さえ、財界寄りの報道機関にした)

 このうち三池争議鎮圧にあたって暗躍したことについては『総理大臣になりたい』でも触れられていました。

 また、民社党への資金提供については、『総理大臣になりたい』に、次のような記述がありました。

私の父は民社党を応援していたと言いましたが、それには理由があります。CIAは、岸信介らの自民党親米派や”左派穏健勢力”である社会党右派に資金提供をして、民社党を結成させたわけです。父が生きていたら、そのあたりのことを詳しく話が聞けたと思うのですが。
(p.71)

 産経を水野成夫が手に入れた経緯については、奥村宏『徹底検証 日本の五大新聞』や「産経新聞残酷物語」にも書かれており、それをもとに別ブログに記事を書いた事があります。

”風の生涯”水野成夫のフィクサーぶり - わが忘れなば

 その後、坪内嘉雄は、1963年ごろには、東京音協の専務理事を務めていたそうです。東京音響は、財界が共産党系の労音創価学会系の民音に対抗して作った団体だそうです。東京音協のメンバーは共同調査会・補佐会議のメンバーと重なっていて、鹿内信隆が理事長を務めていました。

 そもそも『メディアの支配者』での坪内嘉雄の証言によると、「当時の共産党は『歌って踊って恋をしよう』と”微笑み路線”で民主青年同盟(共産党の青年組織)や労音に若者を集め、企業内に勢力を拡大し、党員の組織化をおこなっていた。この流れを断とうというのが会の大きな目的だった」(『メディアの支配者』、p.363)ということだそうです。

 東京音協では、ミッチ・ミラー合唱団を招いたり、水原弘のカムバックに関わったりしたそうです。ナベプロの社長にならないかと誘われたこともあったそうです。

 1969年に、共同調査会・補佐会議で同じくメンバーであった小坂徳三郎の選挙を手伝ったりしています。演説下手の小坂に代わって、いろいろなところで演説をし、小坂のトップ当選に貢献したそうです。また、坪内祐三によって、小坂の立候補は、田中角栄などの勢力伸長で潮目が変わってきた政界に対して、財界が自分達の意を受けて動く政治家を担ぎ出すという意味があったと推測されてます。

 1970年の大阪万博に際しても、親戚の石坂泰三・日本万国博覧会協会会長を介して何らかの関わりをもったそうです。 
 東京音協の専務理事は、1970年ごろ(坪内祐三が小学六年生の頃)まで続けていました。

 その後、一時、浪人的な状態だったようですが、1973年に倒産の危機にあったダイヤモンド社の社長に就任しました。これは、メインバンクだった三菱銀行の田中渉が創業者一族の社長石山四郎を追い出して、坪内嘉雄を社長に据えたのだそうです。

 ダイヤモンド社では、「次々と社員をクビにした」そうですが、前田久吉を追い出して産経新聞の社長になった水野成夫が呵責ない首きりを行ったことを連想します。

 また、『メディアの支配者』によると、1992年の日枝久によるフジテレビのクーデターに際しては、日枝のために財界の根回しの労をとったそうです。

 日枝は夕方、経済出版社・ダイヤモンド社会長の坪内嘉雄を訪ねた。坪内には、以前から宏明のことを相談する間柄で、坪内は「そんなに不満なら、取締役会で解任すればいいじゃないか」と大胆にアドバイスしたこともあった。
 解任前夜となって、日枝はこれから先のことを相談に訪れたのである。会長室には、坪内が呼んだアサヒビール会長、樋口廣太郎も姿を見せていた。
 日枝が意を決したように口を開いた。
「実は明日の産経取締役会で議長を解任します」
 坪内は解任を勧めたこともあって、それほど意外という感じはしなかった。
「おお、そうか。やれやれ!」
 坪内はけしかけるように言い放ち、愉快そうに笑った。樋口はさすがに驚いたようだが、日枝を最も強力に盛り立ててきた財界人だったから、すぐに賛同した。日枝は、続けてフジテレビでも解任することを告げ、財界への根回しを坪内や樋口に依頼した。
(『メディアの支配者』、p.132)

 坪内嘉雄は、もともとは鹿内信隆の弟分的存在だったそうですが、世襲を目論む鹿内信隆に反感をもつようになっていたそうです。

 その後、2000年に脅迫容疑で書類送検され、不起訴になったり、自宅が競売に掛けられたりするのですが、これらのことについては、坪内祐三の『文学を探せ』にいくらか委しく書かれていました。(今手元に見つからないので、後で追記するかもしれません)

 2012 年に91歳で亡くなっています。

 なかなか華麗と言えば華麗な生涯、全体的な感想としては、坪内嘉雄は、悪意をもって呼べば財界ゴロ、普通に呼べばフィクサーですが、有力者に食い込んでいく力は、財界四天王の水野成夫を思い起こさせるところもあります。

 残念なのは、戦後の裏面史について相当いろいろ知っているだろうに、回想録のようなものを残してくれなかったことですね。研究者かジャーナリストが聞き書きのようなものを取ってくれてもよかったのに。。坪内祐三や中川一徳が、坪内嘉雄から聞いてまだ発表していない話があるのではないかと妄想してしまいます。

 また、共同調査会については、坪内嘉雄の証言の他は、「記録らしい記録は何も残されていない。」「会については(鹿内)信隆を含めて二、三の財界人がわずかに回想している程度」(『メディアの支配者』)だそうですが、以下のブログによると今里広記の伝記や回想録に共同調査会について記述があるようです。このブログのことは、 twitter 上で junksai5 さんに教えていただきました。どうも、ありがとうございます。

ぴゅあ☆ぴゅあ1949:今里広記 その魅力(7) - livedoor Blog(ブログ)

 今度は、今里広記の回想録も読んでみたいですね。

私の財界交友録―経済界半世紀の舞台裏 (1980年)

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