わが忘れなば

備忘録の意味で。タイトルは小沢信男の小説から。

秋草俊一郎『アメリカのナボコフ―塗りかえられた自画像』

去年のうちによんだ。

アメリカ時代以後のナボコフの作家としての活動(死後の活動、つまり遺族による遺稿出版などの活動も含む)と受容について研究した本。

亡命ロシア人社会では有名だが英語圏では無名の作家という状態でナチスを逃れてアメリカに渡ったナボコフが、英語作家として再出発し、『ロリータ』によって成功を掴み、死後も残るどころか、いやましてゆく名声を確立するに至ったということの裏には、巧みなというかむしろ必死の戦略があったことを暴いたといったような内容。

なのでちょっと神話破壊的な趣がある。

ナボコフに関していえば、ぼく個人の読書歴の中では、若島正の海外文学紹介エッセイや評論を読んでナボコフという面白い作家がいて(名前は知っていたけども)、その作品がどんなに巧みなものであるかを知ったという記憶。若島正は、この本の著者に比べてナボコフへの距離が近いというかべったりというか、エッセイも、ナボコフ作品に仕掛けられた巧みなトリックを読み解いいていくというような内容が多かった。なので、ナボコフを深く理解しているけども、少し距離をとってクールに見るというこの本の距離感は新鮮だった。
(というか、そういうテクスト論的なものから最新公開資料を駆使した研究へというのが、ナボコフ研究の潮流そのものなのだそうだ。そもそも著者も、この本の前の本は、ナボコフの作品を精緻に読み解くという内容だったのだ。その本は、出た時に賞をとったりして結構話題になったので図書館で借りて読んだのを覚えている。しかし、その時は、読みきれなかった)

具体的な内容としては、亡命ロシア人社会との関係、出版社・編集者の売り出し戦略、『エウゲニー・オネーギン』の翻訳・注釈に紛れ込ませた自己伝説化の読解、写真やフィルムにおけるイメージ戦略、日本語作家への影響、遺稿の出版やそれにまつわる現在の評価の浮沈といったことが論じられていた。

この中では、亡命ロシア人社会との難しい関係をあつかった章が面白かった。

ロシア語作家であることをやめて、英語作家として再出発したことが、いわば亡命ロシア人社会を裏切ったようなことであった。皮肉を感じたのは、次のようなことに対してだ。ナボコフは、ロシア語の旧作を自分で英訳するようになった。このような自己翻訳は、ナボコフの世界文学性としてプラスに評価されるもののはずだった。しかし、そのうちのある作品は、別の亡命ロシア人文学者の既訳があるものを改めて訳し直したものだった。ナボコフ自身は、既訳は質が低いため改訳したのだと書いているが、本書の検討によると必ずしもそうとはいえない。つまり自己翻訳は、昔のコミュニティへの縁切りのため的な意味合いもあるものだった。

ところがこのように自己翻訳するということは、以後は他人がロシア語作品を英訳をするのがやりづらくなる状況を作ってしまうことでも、当然ある。名作は、時代に応じて新訳がなされることで翻訳としては新しい評価を獲得していくのに、ナボコフ作品はそういう機会が、対英語圏に対しては、なくなってしまった。

このようなことを論じているところは、ナボコフの作家としてのサバイバル戦略の陥穽を、数十年後からの視点で指摘しているようにも、ぼくには思えた。

スキャンダル的な面白みも感じたのは、ナボコフ本人ではなく、死後の遺族の遺稿出版や研究者の動向をあつかった最終章だった。

そういえば、日本では、安原顯村上春樹の原稿を古本屋に売っぱらってしまって、安原死後に村上春樹に告発されたなんてことがあったな、と思い出した。
現代の欧米の出版エージェントの話では、『戦争は女の顔をしていない』が、著書がノーベル賞をとったとたんに単行本を出していた群像社が契約を打ち切られて、文庫本が(大手の)岩波書店から再刊になったという少し前に話題になった話を思い出した。(この件については、まさに本書の著者が言及している。https://www.nippon.com/ja/people/e00092/
死後も手紙などどんどん「作品」が出て(、かつ話題になる)くる大作家といえば、日本では、三島由紀夫か(『十代書簡集』とか)。
三島の遺族って、ドミートリと違ってそんなには表に出てこないけど、手紙の出版などに関して何を考えているんだろうと思ったり。

こんなにも巧みに自己イメージを操作し、作品的成功と人生的成功を一致させえた作家というのは、日本の近現代文学ではあんまり思い浮かばなかったので、ナボコフとは関係ないけど日本での対応事例を色々と考えてしまった。

アメリカのナボコフ――塗りかえられた自画像

アメリカのナボコフ――塗りかえられた自画像