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わが忘れなば

備忘録の意味で。タイトルは小沢信男の小説から。

四日市の水質汚染について、原因企業を追求し、石橋政嗣の国会論戦に情報を提供した「公害 G メン」田尻宗昭を中心に-田尻宗昭『四日市・死の海と闘う』、『公害対策最前線』(岩波新書)、若宮啓文『忘れられない国会論戦― 再軍備から公害問題まで』(中公新書)感想

四日市 田尻宗昭 石橋政嗣

 若宮啓文『忘れられない国会論戦―再軍備から公害問題まで』(中公新書、1994)という本を読んで、海上保安庁の役人で、四日市の水質汚染の原因企業であった石原産業を摘発し、その後美濃部都政で公害対策を担当した田尻宗昭という人を知った。この人が『忘れられない国会論戦』に出てくるのは、石橋政嗣(当時、社会党書記長)に石原産業通産省の癒着について情報提供をしたからだ。田尻についてもっと詳しく知りたいと思って、田尻宗昭『四日市・死の海と闘う』(岩波新書、1972)、『公害対策最前線』(岩波書店)も読んでみた。読んでみると、「ひやー、こんなすごい・正義感を持った人がいたのか! 」と感じ入るような人物だった。なので、本エントリーでは、石原産業摘発の事跡を中心にこの人について3冊で読んだことをまとめてみたい。

 まず、田尻宗昭の経歴を簡単に。田尻宗昭は、1928年福岡生まれ。1940年に清水高等商船学校を卒業し、海員養成所の教官になった。その後、海上保安庁に入り、巡視船で李承晩ラインの監視をする仕事を務め、その後佐世保勤務、釜石で巡視船「ふじ」の船長を務めた。1968年7月に三重県四日市海上保安部の警備救難課長に就任した。3年後の1971年7月に和歌山県の田辺海上保安部の警備救難課長に転任するまで、公害企業の摘発を主導した。その後は、美濃部亮吉に招かれて東京都の公害局主幹を務め、日本化学工業による六角クロム鉱滓の大量投棄事件の陣頭指揮に立ったりした。東京大非常勤講師や神奈川大短大の教授を務めた。1990年、没。

四日市開発の歴史

 次に、四日市に海洋汚染などの公害をもたらした四日市コンビナートがどのような経緯で成立・拡大したか、その歴史を、『四日市・死の海と闘う』IV章「四日市開発の軌跡」をもとに簡単にまとめてみる。四日市港のコンビナートは大きく塩浜コンビナート(南側)、牛起コンビナート(中間)、第三コンビナート(北側、埋立地)の三地域に分けられ、この順で成立した。

 塩浜コンビナートの成立は、四日市進出の草分け的存在で、「四日市天皇」などと称せられた石原産業1936年に操業したことにさかのぼるらしいが、石原産業については後の章で詳しく説明する。

 戦後の本格的な開発は、シェル石油+三菱化成+昭和石油が共同出資した会社「昭和四日市石油」が政府の払い下げ土地(旧海軍燃料廠)で、1958年操業開始したことに始まった。その後、1956年に設立された三菱油化が、三菱グループとシェルや昭和石油の出資を受け、1959、60年に四日市工場の操業を開始し、政府出資の国策企業の登場などをまって、この二つの三菱啓騎乗を中心とする塩浜コンビナートは、1961年ごろまでにその全容を整えることになった。

 一方、塩浜コンビナートの開発からやや遅れて、国や自治体指導の企業誘致で、四日市北部の牛起コンビナートもでは1963年に大協和石油、大協和石油化学、中電四日市火力などの操業がはじまり、1967年に四日市開発事業団始まった埋め立て地に作られた第三コンビナートも1971年に大協和石油、新大協和石油化学を中心に東洋宗達、鉄エ社(興銀系)が操業を開始した。

 さて、このように次々と企業を誘致し年々拡大していった四日市コンビナートだが、1969年、1972年に行われた統計研究会公害研究委員会・都留調査団(都留重人、戒能通孝、宮本憲一ら)による四日市の実態調査ではやくもその矛盾・住民を苦しめる構図が指摘されていた。『四日市・死の海と闘う』から孫引きする形でかれらの主張をまとめてみる。

 まず、戒能通孝は、「公害防除の基本姿勢について」という報告で「四日市の公害対策は進んでいるといわれているが、本質的な進歩は見られないように思われる」と述べ、その内実を行政・企業・住民について次のようの述べている。

三重県・四日市市とも、公害関係担当者は、命令されたことを遂行するだけであって、公害を克服するために何をなすべきかを積極的に追求せず、記録作成にとどまっている。
(『四日市・死の海と闘う』、p.56)

企業はその研究成果を公開せず公害に由来する一切の責任を県庁に任せ、傍観者的態度をとっている。
(『四日市・死の海と闘う』、p.56)

四日市市民の公害に対する感情は、潜在的には極めて強い。然しながら市内に組織されている町内会有力者が大体において企業に手なづけられ、反対運動が公然化することに対して強力なブレーキになっている。
(『四日市・死の海と闘う』、p.56)

 宮本憲一は、「地域開発と公害」のなかで、税体系が企業に有利にできているために、四日市は次々と工場を誘致しつづけなければやっていけない悪循環に陥っていると指摘し、「四日市は工業都市ではない。工場用地都市にすぎぬ」と厳しい裁定を下している。

税金として大きいのは償却資産である。しかし、この試算は加速度償却されるために減価は急速であって・・・・・・設備を現状維持すると税収は激減する性格がある。したがってたえず設備拡張するか、新しい工場を誘致せねば税収の増大ははかれない。ここに、自治体が自発的にせ次拡張を抑制したり、工場の誘致を思いとどまることができない原因がある。(中略)これは全くの悪循環である。
(『四日市・死の海と闘う』、p.57)

公害による漁業者の苦しみ

 このような背景の上で、今回は四日市の公害を水質汚染・漁場破壊に絞ってその歴史をまとめよう。全盛期には四日市には四つの漁業組合があり、豊かな漁獲高を誇っていたそうだが、1955年ごろから工場の排水口近くでとれる魚がくさくなりはじめ、1960年に東京築地の中央卸市場に伊勢湾の魚はくさいので、取引を停止すると通達されてしまう。同年、四日市漁業者たちは伊勢湾汚水対策漁民同盟を結成し、30億円の損害補てんを求めたが、得られたのはわずか1億円の漁業振興費に過ぎなかった。1963年には、漁民たちが実力行使に出る動きもあったが、地元の有力者の働きかけで収束し、以後漁民の運動は振るわない時期が続いていた。

 『四日市・死の海と闘う』のことばによると「10年間」(1950年代半ばから1960年代半ばにかけて)で、漁場の35%が埋め立てなどで失われ、漁業従事者が31%減少し、水揚げ量が全盛期の1/4以下になったという。

 このような状況の中で、四日市港を中心とする漁場では売り物になる魚が取れなくなってしまった漁民たちは、他の漁場に密猟に行くなどの挙に出るしかなくなっていた。

 1968年7月に四日市に赴任した田尻宗昭が初期に任された仕事の一つが、この密猟の取り締まりだった。しかし田尻は、取り調べた漁民からつぎのような訴えをいくつも聞くことになった。

水産資源を守る法律を破って魚を殺したやつは向こうやないか。昔からまじめに平和にやっとるわしらから魚を取り上げるやつは罪にならんのか。それを取り締まらんで、追い詰められたわしらだけを捕らえるのはいったいどういうことなんや。あんたらは企業の手先になって取り締まりをやっておるのか。
(p.38、強調、引用者)

これらの言葉を聞いて、田尻は「深くショックを受けた」という。

 私は深くショックを受けた。おれたちがやっていることはなんなんだ、おれたちはなんか大きなものを見落としているんじゃないか。水産資源保護帽という法律はいったい、なにを守っているんだ。実際、自分の足下が、大地震でもあったときのように、ゆらゆらとゆらぐような感じがしました。弱い漁民たちがやっとの思いで魚をとってきて、わずかに家族を養っている。それを私たちは一生懸命追いかけてつかまえている。それだけで問題は終わりなのか、それだけで法律が守られたことになるのか――。
(pp.39-40)

公害企業の摘発―日本アエロジルと石原産業

 そういうなかで、タンカーの油流失事故の対応や関連企業を説得して回って「港湾災害対策協議会」を発足させる、違法廃棄の企業を摘発する(釣り人のふりをして、張り込みし現行犯逮捕など映画みたいなことをしている)などの活動のうちに、労働者などの通報をもとに田尻は公害企業の摘発も進めていった。

 『四日市・死の海と闘う』で大きく取り上げられているのは「日本アエロジル」と「石原産業」だ。

 本エントリでは、特に石原産業の起こした公害事件について『四日市・死の海と闘う』XI章、XIV章「石原産業事件(その1)」「同(その2)」、『公害摘発最前線』III章「誰が”硫酸の海”にしたか――石原産業事件――」をもとにまとめたい。

 摘発のきっかけは、1969年の10月ごろにかかってきた石原産業の労働者とおぼしき匿名の告発電話だった。日本アエロジルの捜査中の出来事であったが、電話は「(石原産業は)毎日二〇万トンというケタはずれた量の硫酸水を流している、しかも何年も前からだ」という内容であったらしい。

 先にも書いたが、石原産業は1936年にいちはやく四日市に進出した会社で、地元では絶大な権力を握っていて、行政との癒着も凄まじいものがあったようだ。田尻著の表現を借りれば、「四日市の支配者的位置にある」(『四日市・死の海と闘う』p.131)、「”四日市天皇”」(『公害摘発最前線』p.42)と称された企業だ。

 創業者でもあり、当時の社長だった(1970年に没するまでワンマン経営者だった)石原広一郎は、戦前からの実業家で、国家主義者でもあり、 A 級戦犯として巣鴨に収監されていたこともある人物だ。

 石原産業の捜査への警戒に対応して、「漁民に変装したり、釣り人に変装したりして排水口にちかづき、空かんでパッと水をすくうとか、それも夜中や夜明けに出かけてゆくなど、いろいろな工夫をこらし」(『四日市・死の海と闘う』、p.130)ながら内偵を進め、12月17日に工場の捜査を行った。

 大阪本社の捜査では、なかなか唖然とさせられるような対応にもあっている。

 私たちは、工場でも本社でも突然殴り込みをかけてきた”野蛮人”かなにかのように思われたらしい。職員に「あんた方はそんな紙切れ一枚(引用者注、捜査令状)もってきて、大企業を泥靴で踏みにじっている。いったいどういうつもりなんだ。こんあ乱暴な話はきいたこともない。今までのお役人はちゃんと応接室で上品に懇談していただいたものだ」とか「あんた方、これは企業秘密ですよ。うちはアメリカと提携しているんだから、アメリカから訴えられますよ」ともいわれました。まるで大企業は治外法権でもあるかのようです。
(『四日市・死の海と闘う』p.164強調、引用者)

 ちなみに、通産省石原産業との凄まじい癒着ぶりについては、次の章で詳しく書くが、『公害摘発最前線によると、「(石原産業の人物が)この直前の九月二七日、東京の通産省におもむいた時、公害の担当官が『田尻は何をやるかわからん男だから注意した方がよい』『田尻のところにあいさつに行っておけ』とアドバイスしていた」(p.30)ということも後の公判で明らかになったそうだ。

 排水口から出てくる水の PH を調べたり、「石原産業の真ん前の、昭和石油の桟橋だけで荷役をする船」が「非常に短期間で冷却水系統のパイプに穴があく」といった証拠を集め、法務官への懸命の訴えもあり、1970年10月、「このような大量の継続的な賛成工場排水は港則違反である」(四日市・死の海と闘う』p.170)という法務省見解を引き出すにいたった。

 次に引用するのは、四日市を訪れた法務省の担当者への田尻の訴えである。

「この湯気のたったミルク色の海を見てください。硫酸の海です。こんななかに船が停泊したらいったいどうなるでしょうか。船の心臓部であるエンジンの統制部分が溶けて、エンジンは故障してしまいます。たとえば二〇万トン級のタンカーはエンジン・ストップしても、四○○○メーターも走ってからでないと止まらないような惰力をもっています。それが岸壁や桟橋、あるいは他の船とぶつかりでもしたらたいへんなことになります。この硫酸は、そもそも原料であるイルメナイト(チタンを含む砂鉄)から鉄分を溶かして除去するために使われた物なんです。それを海に捨てたら、どうなるでしょうか、そこに浮かんでる船はやはり鉄なんです。港に及ぼす害から言ったら、バケツ一パイのゴミを放ったおばさんの行為と一日二〇万トンの硫酸水をたれ流す石原産業の行為とは、もう比較になりません。石原の行為は、四日市港に対する、また港則法に対するあからさまな挑戦です。これを放置したら、明日から私たちはゴミを放っているおばさんを取り締まるわけにはいきません。ここで法の公平を貫徹されるように心からお願いします。どうぞこの硫酸の海を忘れないでください」
(『四日市・死の海と闘う』pp.167-168)

石橋政嗣 vs 宮澤喜一の国会論戦―行政と企業の癒着

 石原産業が、「大量の硫酸水たれな流し」を始めたのは1968年のことだが、酸化チタン増設のために工場を新設したことに絡んでいる。

さて、石原産業は昭和十三年の設立以来、ずっと化学肥料を製造してきた企業なんですが、昭和二九年ごろから酸化チタンの需要が伸びてきたものですから、今度はその製造もはじめた。いまや国内の酸化チタンのシェアの六割を独占する、わが国最大のチタン・メーカーであるのはもちろん、海外のチタン業界でも名の売れた存在です。さきほど申しましたように、原料のイルメナイトから鉄分を溶解除去するために硫酸がつかわれるのですが、はじめのうち、そのときできるチタン工場の廃硫酸を硫安工場に回収して、これにアンモニアを加えて硫安をつくっていた。ところが昭和四三年の七月、第二工場を増設して、それまで月産四五○○トンだったチタン生産を月産六○○○トンにあげた。このためチタン工場と硫安工場のバランスがくずれ、第二工場から流れ出てくる廃硫酸の処置がつかなくなってしまったのです。
(『四日市・死の海と闘う』p.170)

 ちなみに、チタン増産は、1967年5月に、社長当時の社長石原広一郎が工場長や取締役等を集めて決めたそうだが、廃硫酸の対策をどうしたらいいかという質問に対して石原は、「『当分の間、廃酸の処理のことは考えないでよい』という指示をし、皆これに同調したという」(『公害摘発最前線』、p.32)ことだそうだ。

 このように、1968年に工場を増設しているのだが、実はこの工場は無届けでつくったものであり、しかもそのことをごまかすために通産省が日付さかのぼって書類を作成し、協力していたということを暴いたのが1971年1月19日の当時の社会党書記長、石橋政嗣による国会質問だった。(主な相手は、佐藤内閣の通産大臣、宮澤喜一)石橋と田尻の間にはは、佐世保時代の田尻が石橋に「上司の理不尽な専横ぶりに立腹して、地元選出の若手議員だった石橋に相談を持ちかけた」(『忘れられない国会論戦』、p.168)ことから始まる長い信頼関係があった。

資料は後ほど出していただきたいと思います。

それじゃ、通産大臣が積極的に責任を感ずるとおっしゃいましたし、しかしいまは違うのだということばも付言されました。その中で、幸い石原産業の例を引かれましたから、私も石原産業の問題をいまから取り上げます。

これほど四日市港がひどい死の海になった原因はなぜか。いままでずっと申し上げてきましたが、もう一つ大きな原因があるのです。それがまさにいまあなたがおっしゃったこの石原産業なんです。施設を設けたとおっしゃいます。ばく大な投資をしたとおっしゃいます。いつやったのですか。海上保安庁が港則法という法律を適用して検挙してからです。それまで工場側が幾ら進言しても、会社自体はてんとして恥じず、一日二十万トンの硫酸排出を一年以上続けてやったのです。その中で通産省がどのような共犯的役割りを果たしてきたか。私はいまからやりますよ。共犯ですよ。違法を奨励しています。確たる文書をもって私はやるのですから。まさに共犯だと私は感じました。改善したのは、通産省の勧告によるものでも何でもありません。海上保安庁の勇気によるものです。

この四日市港をこれほど悪化させた非常に大きな要因の一つに、石原産業が四十三年六月にチタン第二工場を増設したことがあるわけです。従来のチタン月産四千五百トンから六千トンに増産することになりました。そのときに、法に基づく手続もしなければ、処理施設も行なわず、これ以来増産に伴って余分の廃液が出る。この分がなまのまま港に排出されたのです。いいですか。一日二十万トン、けた違いです。先ほど申し上げた日本アエロジルは、一日五百トンです。こっちは一日二十万トンです。このような二十万トンという硫酸を港の中にそのまま流さなければならなかったのは、法で規定された処理施設をつくらなかったからです。通産省が指導するどころか、それを認めて、違法を承認していることに原因があるのですよ。

まず、この増設、これが無届けで行なわれたことは、通産大臣、認めるでしょうね。
(強調、引用者)
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それじゃ、私、通産省が確認する材料をいまから提供しておきます。確認することの必要な一番ポイントは、いま申し上げたように、増設をしたその段階で、法の示すところによって指導しなければならなかったんです。ここがポイントですから。廃液がそのまま出されないで済むかどうか、それだけの施設がちゃんと行なわれているかどうか。監督し、指導しなければならない立場にあったんです。ところが、実際には放任しております。それじゃその増設工事をやっていることを知らなかったかというと、知っているんです。通産当局ははっきり認めているんです。あとでこれをそのまま読みますけれども、工場見学もやったことだし、まあいいでしょうと言っているんです。見学をしたことを監督、指導とすりかえてしまっているんです。実際に操業を開始しましたのは七月です。これは当時の社長の石原廣一郎さんの「八十年の思い出」という中にもちゃんと書いてありますです。六月です。「四十三年六月二十日酸化チタン工場増設完了す(月産六千トン)」これは当時の社長の記録です。六月にちゃんと完成している。ところが、工場と通産当局との話し合いがいつから始められたかというと、七月に入って始められました。増設工場が完成して、そのあと翌月に通産当局と工場側とが話し合いをしております、つじつまを合わす話し合いを。いいですか。これはどうしてこの処理施設を設けるか、そういう話し合いじゃないのですよ。六十日以前に届けにゃならぬ、工場の増設をやろうとする場合には。その手続を全然しないまま、完成して、操業を始めちゃったから、どうしてつじつまを合わせるかという話し合いをしているのですよ。いいですか。このことは歴然としています。なぜならば、話し合いの結果、工事着工は四十三年八月十五日にしましょうという合意に達しているからです。六月にできたものを八月十五日に工事着工したことにしましょう、完成及び使用開始年月日は四十三年の九月十五日にしましょう、そうして通産当局が工場から増設の申請をする日付を六月十五日にしましょう、一カ月さかのぼって、話し合いのときから六月十五日に届けたことにしましょう、こういう話し合いが行なわれているんです。このとおりになっていますよ、調べたら。工場はもうできちゃった、仕事を始めた。その段階で話し合いをして、さかのぼって六月十五日に届けをしたことにしてくれ、そうして工事の完成は八月十五日にしてくれ、操業開始は九月十五日にしてくれ、そうしなければ法律に反するから、こういうことです。こういう事実を確認しなければ話を進められないですよ。進められると思いますか。事こまかに指導しているのです、脱法行為の指導を。どうして公害を防止しようかなんということはただの一言もこの話し合いの中で出てきませんよ。どうして法律とつじつまを合わせるかということしか出ていませんよ。
(強調、引用者)
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この質問は、大きな反響を呼び、二月八日には津地検が捜査本部を設けて工場長の取り調べを行った。ただし、”談合”に関しては不起訴になった。ただし、名古屋通産局は談合容疑者となった三人を文書で「注意」し、人事異動でけじめをつけた。

 こうして石原産業は昭和四六年二月十九日(引用者注、若宮著によると時効直前だったらしい)、ようやく港則法違反、水産資源保護法違反および工場排水規制法の無届け操業を持って起訴され、ここに全国ではじめての公害刑事裁判がはじまったのでした。

(『四日市・死の海と闘う』p.175)

若宮著によると、次のように石原産業側の敗訴で裁判は終わった。

 津地裁は起訴された石原産業の被告について、八年余に及ぶ裁判の末、「会社は採算性を追求するあまり、企業の社会的責任を忘れた」と厳しく戒め、有罪判決を出した。被告側は控訴を断念し、一審で有罪が確定する。
(『忘れられない国会論戦』p.166)

田尻宗昭の原点とその後

 田尻宗昭は、著書『四日市・死の海と闘う』のなかで、石原産業を追求する部分で一カ所だけ弱気を感じたことを書いており、そのときに自分の原点を李ラインのときも佐世保のときも漁民を救えなかったことが心の傷になっていることだと語っている。

しかし、私も摘発までの間、保安部の窓から毎日石原産業を眺めながら、心の中で何度も立止まっては、あれやこれや自分自身に問いかけたんです。全身に、ずっしりとオリのようなものがひろがって、いいようのない重苦しさが感じられてなりませんでしたこれからは長くて苦しい道が続くだろう。相手側には何百人という専門の技術者もいるだろうし、はたしてあの厖大な生産工程のすべてを、われわれの手で解明できるだろうか。このような大掛かりな公害事件には、複雑な社会的背景があるはずだ。関係の行政は、一体どういう関わり合いになっているのだろうか。
(中略)
滅入りがちな気持ちの奥で、しかしなにかが心を駆り立てている。それは一体何か――。あえて言えば、それは心の傷とでもいったらよいでしょうか。私は、李ラインや佐世保で命を縮めるような苦労をしながら、結局のところ勇気のなさと認識不足とから、その苦労を少しも実らせることができなかったのです。どちらの場合も、みすみす多くの漁民の犠牲をくいとめられなかった。いや、そればかりではありません。現に、四日市でも、またもや海の汚れをよそに漁民だけを取り締まってきた――。私はもう二度とこんなことをくりかえしたくない。恥ずかしさにさいなまれる重荷からなんとか脱け出したい、これからは、はっきりと人生に自分の足跡を刻みつけて行きたい――。
(『四日市・死の海と闘う』、pp.132-133)

 その後、「正義感あふれる公害Gメンとして地元の漁民らから圧倒的な支持を得た」田尻も、「海上保安庁からは『はずれ役人』の烙印を押された」ため、「事実上の左遷」によって和歌山県の種べ海上保安庁の課長に異動となった。しかし、美濃部亮吉の都政に招かれ、六角ロム事件の陣頭指揮などに当たった。東京大や神奈川大短大で教鞭をとったらしいが、そのときの受講者や著作に触れた人たちの感動がネット上でいくつか読めた。

1981年10月から1982年2月まで、田尻宗昭氏(当時57歳?)は、都の役人の現役の激務の中、講師として東大駒場で「環境行政論」という週一回(水曜日4限)の講義を行いました。
 講義開始当時は、第7本館が使用されていましたが、聴講生が多いために(時計台のある)第1本館に教室変更になりました。授業は毎回熱気に包まれ、多くの学生で常に教室は満席に近い状態でした。
 田尻氏が大学での教鞭を取ったのはこれが初めてであり、その後他の大学でも教壇に立ったと聞いています。
 田尻氏は「大学の講義には毎回全力投球だった」と最終講義で述懐されたように、終始聴衆を圧倒する迫力に満ちた田尻氏の熱弁に、学生たちは息を呑んで聴き入りました。
追想 田尻宗昭氏(公害Gメン)

それは、これから生きていく人生の中で、人や本で何か自分の心をドキッと打つものが出て来るよ・・・ということです。異性であれば恋愛?とか。ここでは私が出会った或る書物のことを書きます。
 それは、昭和47年発行の岩波新書四日市・死の海と闘う」です。作者は、当時の現役の海上保安官「田尻宗昭」という方です。その頃、日本全国では「公害問題」が叫ばれていました。熊本水俣病四日市ぜんそく・新潟イタイイタイ病・安中カドミウム等々。特定の企業が流した有害物質が、周辺住民の健康被害に関係していました。当時高度経済成長の中で、経済優先の陰に潜んでいた健康被害です。四日市ではI産業が、有害物質を海洋投棄していました。それを突き止めた田尻さんが、様々な横やりの中で摘発していくものです。
 しかし、現役保安官がいわば「告発書」を書いたのですから、職を賭す覚悟だったと思います。その後彼は美濃部都政に招かれて都の公害担当部局に移ります。
 私は「悪を許さない。死ぬ気で闘う。」彼の主張に感動し、公務員を目指そうと思いました。宇井純さんが始めた「公害原論」講座にも通いました。もし、この本に出会っていなければ県庁職員になっていなかったでしょう。37年間の県庁生活でこの気概を全うできたかは甚だ疑問ですが、おかしいことはおかしい・・この姿勢だけは貫いてきたつもりです。