わが忘れなば

備忘録の意味で。タイトルは小沢信男の小説から。

「科学と政治が不可分なら、我々はただそのことを受け入れなければいけないのか、それとも積極的に政治は科学に介入すべきなのか」-「キャンセルカルチャー」論争続編

前回の記事で 2021-22 にかけてアメリカ化学会の発行する学術誌で起きた「キャンセルカルチャー」をめぐる論争について、大雑把なものながら紹介をした。反応を見ると、「科学の政治化」を憂い、「キャンセルカルチャー」批判を行う側のアンナ・クリロフに共感した人も、「政治と無関係な科学」の不可能性を説き、「キャンセルカルチャー」という概念そのものに疑問を投げかけるフィリップ・ボールやハーバートらに共感を抱く人も両方いたようだ。

ぼく個人としては、ボールやハーバートらの主張にシンパシーを抱きつつも、各々の主張の紹介は公平なものであることを心掛けていたつもりなので、評価が分かれたことは多としたい。

ボール(たち)の主張にいまいち乗り切れないものを感じる場合、「科学はそもそも政治的である(そうでないものはありえない)」という科学観がどうしても魅力を欠いたものであるということがあると思う。クリロフとボールのどちらかに共感を覚える人の間に、「科学は価値中立的である(現にそうである、あるいはそうであることが可能である)」というナイーブな主張には賛成しないが、では、科学が政治と不可分であると主張してそれであなたは何が言いたいの? 科学に対して政治はどういう態度を取るべきだと主張しているの? という疑問を抱く人がいるのではないか。実際に、ぼくの記事を読んでコメントを書いてくださった烏蛇さんとの間でもそのようなやりとりをしたし、ボール自身も、クリロフをめぐる論争から派生して、著名な心理学者であるスチュワート・リッチーとの間でそのような議論をしていた。今回は、リッチーとボールのやりとりを紹介することで前回の補足としたい。

心理学者のスチュワート・リッチー(Stuart Ritchie)が、自分の substack で "科学は政治的である、そしてそれは悪いことだ Science is political and that's a bad thing"という記事を発表した。

stuartritchie.substack.com

スチュワート・リッチーは、"Science Fictions: How Fraud, Bias, Negligence, and Hype Undermine the Search for Truth"(2020)という話題作の著者。ぼくは、未読だが、この本の評判を見てリッチーの名前を知った。この本は、科学を歪ませる様々なバイアス--イデオロギー的なものであれ、統計的なものであれ--を扱った本だとのことだ。

リッチーは、最近「科学は政治と不可分である」という主張の言説が、ボールのものも含め複数登場したことを指摘し、そのような主張はもっともなものながら、ではそういう論者の含意は実のところ何なのかと問うている。まず、「科学は政治と不可分である」という言葉が実際に意味している内容として想定できるものを以下の8通りあげている。

  • 科学者が何を研究の対象に選ぶかは、科学者の政治観に影響される。
  • 科学者が研究データを解釈する仕方は、その人の政治観に沿うものとなる。
  • 科学者も人間なので、完全に客観的であることはできない(どんな行動や選択も本人の政治観の影響をまのがれない)
  • 科学者は、人間の主観が科学のいろいろな側面に影響を与えていることを忘れがち(例えばアルゴリズムのような一見客観的な代物でも作った人間の偏見が反映されている)
  • そもそも(他のなにがしかの方法ではなく)科学を選択していること自体が、政治的・文化的な産物である。
  • 多くの科学活動は、政治的なアジェンダを持つ政党によって運営される政府に資金提供を税金から受けている。仮に、非政府組織が資金提供している場合でも、それはそれで特定の政治的アジェンダを有しているかもしれない。
  • 特定の政治的な見解を有する人は論争的なトピックに対してあらかじめ予想される見解を持っている(温暖化、ワクチン、核兵器、...)
  • 政治家は、「科学」を自分の都合のいいようにつまみ食いしたり、古いもう成り立たない見解でも勝手に取り上げて、自説を支持するものであるかのように扱う。

リッチーは、これらの主張のいずれにも反対意見はないとしつつも、このような意見をあえて主張することのインプリケーションを「必然性からの論法」と「活動家の論法」の二つが考えられるとしてそれぞれを批判する。すなわち、必然性からの論法とは「科学は政治的なのは避けようのないことで、仕方ない」という主張で、リッチーは、科学は確かに完全に政治性と無縁になることはできないが、政治的なバイアスを小さくするように努力し続けることは可能であるし、そうすべきであるので、「科学の政治化」への批判に対して、「政治性のない科学は不可能である」とだけ言ってもダメだという。活動家の論法とは、「科学は政治的だが、それはむしろいいことで、政治的にどんどん科学に介入してよくしていこうや」ということで、当然のことながらこの意見も退けられている。

こういう言い方は元の記事にはないが、一言でまとめると、「科学の政治性を指摘するそういうあなたの政治性はなんなの?」という指摘だと言えるのではないか。

つまりこれまでの論争の流れを戯画的に書けば、
「科学に政治性を持ち込むな!」
「『科学に政治性を持ち込むな!』、というときのあなたの政治性はなんなの?」
「『<科学に政治性を持ち込むな!>、というときのあなたの政治性はなんなの?』というときのあなたの政治性はなんなの?」
ということだ(ちょっと違うけど)。論争でしばしば見る相手の背中をとるという必勝パターンをお互いに繰り出し合うという永遠に議論を続けることができる無限後退の雰囲気がチラリと見える(実際はこれで終わりだが)。

このリッチーの記事には、クリロフについては話題に出てこないが、彼女自身がコメントを寄せ、賛辞を呈している。つまり、クリロフから見ると、リッチーは自分よりであり、いわば論争の代理戦のような様相になっているわけだ。ただし、ボールに反論しつつも「政治抜きの科学」の不可能性を認めているリッチーの議論がクリロフに近い立場なのかボールに近い立場なのかは判断が難しいだろう。

事実、ボールは自身のブログ記事 "科学が政治的だというとき我々は何を意味しているのか? What do we mean when we say that science is political?" で再反論を行いつつも、リッチーの議論には大方の賛意を示している。ただし、ボールは、自分の主張は「仕方がない」という主張でも「科学に政治性が含まれるのは良いことだ」と言っているのでもないという。まずは、政治性が科学に入り込むときにどのように入り込むのかを吟味しなくてはいけない、一見政治性がないような態度で入ってくることもあるのだよ、と言っている。つまり、クリロフは口では政治と科学の距離を取るべし、と言っているけど、多様性に反発するエッセイの撤回に反対したり、歴史的な事実の評価が怪しかったり、右派の文献を根拠にしたりなど自身十分政治的だ、ということだ。また、COVID-19 の流行や地球温暖化など科学者が政策決定に関係しうるアドバイスを行う責任を負うべきシチュエーションというものがあることも説明し、その際にただただ「政治性抜き」の態度を取ることはできず、必ず何らかの政治的程度を決定しなくてはならなくなると言っている。ボールは「科学は政治的から逃れられないなら、もっと政治的になればいいの、それともなるべく政治から離れればいいの?」という問題設定はよくない、まずは政治がどうやって科学に介入しているのか(あるいは科学はどれだけ政治に力を及ぼすのか)をよく吟味し、その上でいかにして政治と科学が付き合っていくかを考えるべきだと主張している。

philipball.blogspot.com

また、以下は、ぼくの付け足しになるが、イデオロギーの科学への侵犯ということで言えば「左翼」よりも一層危険なのは、例えばブッシュ政権などで行われていた共和党など保守派の科学への介入ではないのか、少なくともその点を無視して「左翼」にのみ焦点を向けている点にも危うさがあるのではないかとも言っておきたい。例えば、このブログで過去に記事を紹介したことのあるジャーナリストのクリス・ムーニーには 『共和党の科学への戦争 The Republican War on Science』(2005)という著作がある。以前に紹介したブログでは、まさに「リベラルと保守派が、どのようにイデオロギーによって事実を曲解するか」を調査した心理学研究について論じたものであり、それによると「リベラルも保守派も自分のイデオロギーによって事実を曲解するが、その程度は保守派の方が大きい」ということである。その理由は、保守派の方が、事実と信念との一体性を強く要求し曖昧さへの耐性が低いから、と説明されていた。(ただし、この記事では、「政治的立場のある一方は、もう一方の立場よりも、事実の判定にバイアスをかけるという考え」を批判する別の研究も紹介している)

(アメリカの)保守派は(アメリカの)リベラルより事実を曲解する度合いが強いという研究の紹介の紹介 - わが忘れなば

ムーニーの本は、2005 年刊行で、記事の方も 2012 年とやや旧聞に属するものでムーニーの最新見解や他の人の保守的なイデオロギーの科学への影響についての言説にキャッチアップできていないのは残念だが...

ところで、話題が「政治と科学」という方向に焦点化されたために、やや見失われてしまったが、現在のインターネットでは非難が過剰に発生してリンチのようになってしまう現象に問題があるということは、それ自体としては誰もが認めることであろう。ただし、この現象を「左翼による検閲」が原因とし、もともと現象そのものをさした Public Shaming という言葉があったのに、より意味も対象も狭くとった Cancel Culture という言葉が通用しているのは胡乱であると思う。

このような現象に対する処方箋を示すことは、ぼくにはできないが、Public Shaming (公開羞恥刑と訳される)を扱った『ルポ・ネットリンチで人生を壊された人々』の第5章は、しばしば引き合いに出されるル・ボン『群集心理』を徹底的に批判したもので参考になる知見があったので、これもいつか紹介したい。

とまれ、アンナ・クリロフ vs フィリップ・ボールから始まった議論を、スチュワート・リッチー vs ボールまで辿ってきて、クリロフとボールの間ではいまだに見えなかった議論の基盤というものがついに得られたのではないかと思う。合意の形成まで到達しなかったとしても、これは一つの収穫物ではないか。この件の論争はとりあえずこれで終わり(あるいは小休止)のようだが、クリロフやボールの預かり知らぬところで、この収穫物を活用することができないとも限らないと思う。