わが忘れなば

備忘録の意味で。タイトルは小沢信男の小説から。

ニック・ボストロムの「昔のメール」事件

今年一月の半ば、オックスフォード大学の哲学者ニック・ボストロムが、過去に書いた差別的なメールについて突然謝罪を発表するという騒動があった。ボストロムは、人間原理や人類の存亡リスクなどに関する研究で有名な人物で、このブログでも何度か取り上げたことがあったので、この騒動には注目していた。騒動から一ヶ月程度経った時点で、とりあえず報道や記事も一通り出て、その後もすぐには大きな動きも出そうもないので、今更ながら目に止まったことをメモとしてまとめてみたい。

ボストロムは、著書の一つ『スーパーインテリジェンス』は日本語にも翻訳されている。また、日本語の著作では三浦俊彦『多宇宙と輪廻転生』や稲葉振一郎『宇宙倫理学入門』ではボストロムの言説が紙幅をさいて論じられていた。

今回のボストロムの差別メール謝罪騒動に関しては、以下の記事が経緯からボストロムが代表的な論客の一人と目されている「効果的利他主義 Effective Alturism(EA)」や「ロングターミズム」の含意への批判も含めて一番読み応えがあった。

“Nick Bostrom, Longtermism, and the Eternal Return of Eugenics”

www.truthdig.com

ニック・ボストロムが、ロンドン大学(LSE) の院生時代('96)に今でいう transhumanism の人が集まるメーリングリストに「攻撃的な議論の仕方の効用」のようなお題について出したメールについて差別的なものであったと謝罪する文章を発表したのが、1月12日。それをボストロムの盟友 Anders Sandberg が、 twitter に流し(ボストロムはアクティブな twitter アカウントを持っていない)、一般の人やネットメディアに知られたというのが経緯だ。

メールの内容が、おそらく多くの人の予想を上回るくらい悪質であったこと(人種によって知能が劣るという内容を科学的な事実であるかのように述べ、その「事実」が次のように受け取られるとして「Nワード」を含む表現をしている)に加え、謝罪の内容が明示的に差別的な内容を否定するものでなかったことなどや自サイトに挑発的な文言を出したりしたことなど誠意を疑われることもあって、非難を集めた。

元のメールへのリンク https://extropians.weidai.com/extropians.96/0441.html とボストロムの謝罪文へのリンク https://nickbostrom.com/oldemail.pdf を載せておく。

ボストロムの唐突の謝罪は、誰かが過去のメールを引っ張り出そうとしていると風の便りで聞いたので... ということのようだけど、その誰かというのが、この “Nick Bostrom, Longtermism, and the Eternal Return of Eugenics” という記事の著者その人だそうだ。

著者のエミール・トレス氏は、ドイツ出身の哲学者で 2019 年くらいまではロングターミズムに共感するところもあったようだけど、現在は salon などにロングターミズムを批判する記事を書いて批判側に立っている。今回は過去のメールを発見(多分そもそも公開されていた)し、この内容がボストロムのもので間違いないかボストロム周辺の人々に確認していたら、本人にも伝わって先手を打って謝罪文の公開になったようだ。

記事では、メールの内容と謝罪についてだけでなく、ロングターミズムや効果的利他主義の優生主義や障害者差別につながりうる含意を批判している。

EA の代表論者 William MacAskill の新著に新無神論のサム・ハリスが推薦文を寄せているそうだけど、サム・ハリスは、まさに Bell Curve (1994) の著者 Charles Murray を podcast で賞賛したそうで、EA と優生主義の結びつきを批判している。

その他に、障害学の研究から今回の事態およびロングターミニズムについて批判を行なった記事などもあった。