わが忘れなば

備忘録の意味で。タイトルは小沢信男の小説から。

石橋政嗣『非武装中立論』と松元雅和『平和主義とは何か』‐感想

 石橋政嗣非武装中立論』(社会新書、1980)を再読しました。twitter での感想。kohaku(@kohaku_nanamori)/「非武装中立論」の検索結果 - Twilog

 最近、松元雅和『平和主義とは何か』(中公新書、2013)を読み、ここでの「現実主義と対話(対決)しながら平和優先主義を説く」理路が、石橋の非武装中立論と似ているな、と感じたのが読み返したきっかけです。(松元著には、石橋への直接の言及はありません。)

非武装中立論 (1980年) (社会新書〈3〉)

非武装中立論 (1980年) (社会新書〈3〉)

 感想をメモ程度に簡単にまとめます。

平和優先主義と非武装中立論の類似点

 『平和主義とは何か』については前に簡単に感想を書いた事があります。twitter からですが、

松元雅和『平和主義とは何か』。読了。アンスコムとか石橋正嗣とか読んでたこともあって、とてもおもしろかった! 平和主義に向けられる典型的な疑問にこたえる形で、平和主義を絶対平和主義と平和優先主義に分けて説明を精緻化していく前半も正戦論・現実主義・人道介入主義と対決(対話)して後半も面白かった。

とかきました。kohaku(@kohaku_nanamori)/「平和主義とは何か」の検索結果 - Twilog

 このように、『平和主義とは何か』の前半は、いわゆる平和主義を、義務論を基礎にする絶対平和主義(トルストイが代表)と帰結主義を基礎にする平和優先主義(バートランド・ラッセルが代表)に区別し、平和優先主義を平和主義に寄せられる典型的な批判に対抗できる立場として擁護するという内容になっていました。

 後半において、正戦論、国際関係論における現実主義、人道介入主義という代表的な平和主義への批判者たちとの対話(それらの立場からの平和主義への批判に対する反論など)を行っています。

 このうち、現実主義(マキャベリ・モーゲンソー・ウォルツが主に参照されている)という立場からの平和主義/平和優先主義への批判とそれへの応答、また現実主義に対する平和優先主義からの反批判に、石橋の「非武装中立論」と共通するものがあると思うので、それを見ていきます。

平和優先主義からの現実主義への二段階の批判

 松元著のまとめによると、マキャベリを遠い祖先に持ち、第二次世界大戦後にモーゲンソー(古典的現実主義)、ウォルツ(構造的現実主義)などによって築き上げられた「国際関係論における現実主義」という立場は、次の四つの命題を基本的な見方としているそうです。(ただし、現実主義といっても「多種多様」なので、「戦後アメリカの比較的限定的された現実主義のタイプ」(松元『平和主義とは何か』p.140)が対象だそうです。)

1)世界は中央政府が存在しない無政府状態である
2)国際関係におけるアクター(行為主体)は国家である
3)無政府世界において、国家の最大の目的は生き残りとなる。したがって、国家安全保障は国際関係の最優先課題となる
4)パワーは、この目的を達成するための重要かつ、必要手段である
(松元『平和主義とは何か』(p.140)、番号は引用者がつけた。)

 
 このうちの最初の二つについては、平和優先主義においても認められています。

 平和優先主義からの現実主義への批判は、二段階に行われています。即ち、

a: 1)、2)という見解を共有したうえで、3)に対して疑問を提出する。
b: 1)、2)、3)まで認めたうえで4)に対して疑問の提出を提出する。

の二段階です。

 石橋の非武装中立論は、「国家の最優先事項は、安全保障である」という立場に立っているように見えるので、(少なくとも、その主張を仮に受入れたうえで論を進めているので)、松元著でいえば二段階目の現実主義への対話と対応します。

 まず、松元著でのb)「現実主義の基本的主張1)、2)、3)まで認めたうえでの4)に対する批判」をまとめてみます。この批判自身も二つの批判から成ります。即ち、

I: パワーによる安全保障の不完全性を指摘する
II: 非暴力的な手段による安全保障の可能性を提出する

です。

 まず、I)ですが、現実主義において、パワーによって安全保障が可能になるという理路は、国々の間に「勢力均衡」の状態を作り出すことによるそうです。つまり、戦争をすることがお互いに不利益になるような状態を作っておくということでしょう。

 しかし、パワーによって戦争に備えることによって、反って安全保障から遠ざかってしまうことが考えられます。各々の国は、他国の軍事力を脅威に感じるので、軍拡に歯止めがかからないのです。これを、「安全保障のジレンマ」というそうです。

 基本的には、この「安全保障のジレンマ」が表す軍事力による安全保障の難しさが、平和優先主義の「現実主義の見解4)」への批判です。(とはいえ、「安全保障のジレンマ」の指摘や研究は、平和主義独自のものでなく、現実主義の枠内で行われていることのようですが)

 松元著は、現実論の立場の一つである「構成主義」(ウェントなど)からの「安全保障のジレンマ」への解法を、平和優先主義にとって魅力的な手段として挙げています。(後述参照)

 次にII)ですが、松元著は、戦後の平和主義者たちが目指していた「世界政府」的な主張(リーヴス『平和の解剖』(1945)など)は、「国連第一主義も確立していない」現状では「拙速」だとして退けています。

 そして、さきほどの「構成主義」の考え方を援用して、国と国との関係を「敵同士」(ホッブス的文化)・「競争相手」(ロック的文化)から「味方」(カント的文化)に徐々に変えていくことを「中・長期的目標」として挙げています。

 さらに、短期的には、現在の国と国との関係が「敵同士」である状況下において、侵略が実際に生じた場合、「市民的防衛」が有効であると示唆しています。「市民的防衛」とは、具体的には、「パレードや監視のような非暴力的プロテスト、ボイコットやストライキのような非協力、非暴力的選挙や第二政府の樹立のような非暴力的介入」(p.166)です。

 これらの防衛は、「侵略国が被侵略国を新たな統治形式に組み込もうとしている場合」には有効な手段となる、と述べられています。ただし、「市民的防衛」が効果を発揮するためには、被侵略国の側が「ある程度の社会的な結束と規律」を保っていることと、侵略国の側にも「戦争規則の遵守の姿勢」があることが条件となる、と留保されています。

 石橋の『非武装中立論』も基本的に、I)軍事力に基づく安全保障の不完全性(危険性)のこと挙げと、II)平和的手段による安全保障の可能性の提出を柱としています。ただし、石橋は、もっと積極的に平和的手段による安全保障の優位性を論じています。
 
 石橋は、「安全保障は相対的なものでしかない」と言い、1970~1980年代の日本の置かれている状況においては、最善の安全保障は、「非武装中立」(を中・長期的目標に掲げる政策)であると語ります。

なぜ非武装中立なのか、批判に対する反論も含めて、私の考えを述べてみようと思うのです。その前提として、安全保障に絶対はない、あくまで相対的なものに過ぎない、われわれは、非武装中立の方が、武装同盟よりベターだと考えているのだということをもう一度申し上げておきたいと思います。
(石橋『非武装中立論』p.64)

 石橋は、松本著と比べて、1970~1980年代の日本の置かれた状況にフォーカスした立論をしています。

まず第一の理由として周囲を海に囲まれた日本は、自らが紛争の原因をつくらない限り、他国から侵略されるおそれはないという点を指摘したいと思います。
(pp.64-65)

第二は、原材料の大半、食糧の六○%、エネルギー資源の九○%余を外国に依存し、主として貿易によって、経済の発展と国民生活の安定向上を図る以外に生きる道のない日本は、いかなる理由があろうと戦争に訴えることは不可能だということです。
(p.65)

また、次のような「安全保障のジレンマ」につながりうるような指摘もしています。

軍事力は、いかにそれを自衛力と言おうと、抑止力といおうと、他国にとってはそのまま脅威と映ることを忘れてはならないのです。要するに、自国の軍事力は自衛力といい、抑止力と称し、他国の軍事力は脅威と名付けているにすぎないのです。こうした奇妙な論理から抜け出すためにも、われわれは軍事力を前提としない世界をつくり出すために、力をつくさなければならないのです。
(pp.76-77)

 非武装中立によってこそ、日本の安全を保障できるという主張については、スイスの例を、

 また、世間には、スイスのような中立国でさえも武装しているではないかといって反論する人もいます。軍隊があり、抵抗の姿勢を示しているからこそ、中立も保たれているのだというわけです。しかし果たしてそうでしょうか。スイスに侵略するものがないのは、この国の軍隊を恐れるからではないはずです。どこの国とも仲良くしようという熱意と誠意を基礎にした外交、これを一致して絶対に支持する国民、そして、これらを暖かく見守る国際世論と環境、それらが相まって、スイスの安全は保障されているのだと思います。
(p.68)

と引きながら、「攻めるとか、攻められるとかいうような、トゲトゲしい関係にならないように、あらゆる国、とくに近隣の国々との間に友好的な関係を確立して、その中で国の安全を図るのだ」(p.69)と述べています。これは、松元著の国と国との間に「味方」(カント的文化)の関係を結んでいくという「中・長期的目標」に対応していると思います。

 さらに、実際に侵略が起こった場合については、1945年の敗戦の例を引いて、「降伏した方がよいばあいがあるのではないか」(p.69)と述べています。そして、その場合の非軍事的な手段による抵抗については次のよう述べています。

もちろん、われわれとても、軍事力による抵抗をしないからといって、何をされても、全てを国連に委ねて無抵抗でいるといっているわけではありません。相手の出方に応じ、軍事力によらない、種々の抵抗を試みるであろうことは必然であります。それは、デモ、ハンストから、種々のボイコット、非協力、ゼネストに至る広範なものとなるでありましょう。
(p.70)

 また、『平和主義とは何か』との比較からは離れますが、興味深いので、石橋が説く非武装化への具体的なステップについてもまとめてみます。

 石橋によれば、現状の日本にとって、「非武装中立」は好むと好まざるとに関わらず目標もしくは理想です。非武装を実現するためには、具体的な課程を経て軍事力(自衛隊)を解消する必要があります。

 石橋の述べているステップは次のようなものです。

  1. 院内・院外において、安定的な勢力を持った政権を樹立すること
  2. 隊員を掌握すること
  3. 平和中立外交を進展させること(具体的には「日本の中立と不可侵を保証する米中ソ朝等関係諸国と、個別的ないし集団的平和保障体制を確立すること」)
  4. 国民世論の支持

(石橋『非武装中立論』pp.81-83 を基に。)

 これについては、「なるほど、これは説得的だ、これが実現できるなら非武装中立絵空事ではない」という思いと、「実際にこんなことが一段階でも実現するためにはどれくらいの月日がかかるのか」という思いを同時に抱きました。

 石橋自身も次のように述べています。

 ところで、縮小される自衛隊の規模や装備は、どのような段階を経るのか、最終目標としての非武装に達するのには、どの程度の期間を必要とするのかという問題ですが、それらはいずれもめいかくではありません。四つの条件を勘案しながら縮減に努めるという以上、何年後にはどの程度、何年後にはゼロというように、機械的に進める案をつくるということは、明らかに矛盾することであるばかりか、それこそ現実的ではないのではないでしょうか。
 重要なことは、どんなに困難であろうと、非武装を現実のものとする目標を見失うことなく、確実に前進を続ける努力だということです。
(石橋『非武装中立論』p.84)

 ところで、平和優先主義と非武装中立論の関係はどうなっているのでしょうか。石橋は、「非武装中立の方が、武装同盟よりもベター」と言っていますが、松本著にはそこまではっきりした文言はありません。これは、石橋著が1980年代の日本の取るべき政策という具体的なものを論じているのに対して、松本著が一般的な話をしているからということもあるのかもしれません。また、松元著には、次のような一節があります。

真の国家存亡の危機に直面した平和主義の一部が『深慮』の観点から武力行使を例外的に容認してもあながち不当とはいえないだろう
(p.165)

 つまり、平和優先主義は幾段階もの留保を取り去った先には軍事行動を行う立場も、自分たちの一部だと認めてはいます。やはり、非武装中立論とは完全には一致しないようです。平和優先主義の極端なバージョンが、非武装中立論だ、くらいはいえるでしょうか。

まとめ

 twitter では、「しかし、これ(『平和主義とは何か』)を読むと平和優先主義は、絶対平和主義より正戦論との距離の方が近いように、ぼくには見える。。。」と書きましたが、『非武装中立論』と『平和主義とは何か』から各立場の”非武装”に対する態度の強度を軸にまとめてみるとこんな感じでしょうか? あくまで僕の印象ですが。

絶対平和主義 >> 非武装中立論 > 平和優先主義 〜 正戦論 > 現実主義

 このように平和優先主義/非武装中立論は、現実主義に抗して(対話して)、その立場を主張できる魅力的な立場と感じました。
 
 ただ、あえて言えば、一抹の不安/不満を感じないでもありません。

 平和優先主義/非武装中立論は、(これらの著作にあらわれている範囲では、)ちょっと現実主義の土俵に乗りすぎじゃないでしょうか? 

 もっとも強力な平和主義の批判者になりうる存在と真正面から対峙する、という意義はよく分かりますが、もう一層深いところで、「安全保障に資する(可能性がある)」以外の”非武装”の価値を確認しておくことが必要なのではないか?、という気がしています。

 平和優先主義者が、『12人の怒れる男たち』のヘンリー・フォンダような立場に立たされて、一人で非暴力を主張しなくてはいけなくなったとき、簡単に説得されてしまわないで、非暴力を主張し続け、全員を翻意させることができるでしょうか? 

 実際の場面で、熱っぽい正戦論者に押し切られてしまったり、口八丁・手八丁(失礼! )の現実主義者に丸め込まれてしまわないか心配なのです・・特に平和優先主義者に関しては、正戦論者や現実主義者との間の壁がどれだけ厚いのか、気になります。

おまけ

 石橋の本には、「七六年のことですが、プリンストン大学の学生が、春の期末試験で「核爆弾設計の基本」という論文を書き、「評点A」をとって国防総省をびっくりさせる事件」(p.205)があった、とかいてあります。

 これは、その学生ジョン・アリストートル・フィリップスがその時の騒動を共著『ホームメイド原爆』にまとめています。ちなみに「評点A」を付けたのは、ダイソンだそうです。

 このサイトホームメイド原爆に委しい感想が載っていました。

 この人は、その後、「2007年の時点で、データベースはおよそ1億7500万人の米国有権者の詳細な情報を持っており、これを100人の従業員(..)で扱っている」ジョン・フィリップス (企業家) - Wikipedia
という会社の経営者なのだそうですよ。