わが忘れなば

備忘録の意味で。タイトルは小沢信男の小説から。

アイン・ランドとナボコフ-奇妙なカップル

 先日、前々回のエントリーとの関係でナボコフサルトルについて調べていたら、二人の論争について書いている論文を見つけ、同じ人が、アイン・ランドウラジミール・ナボコフを比較研究した論文を見つけた。D. BARTON JOHNSON という人の「奇妙な同衾者-アイン・ランドウラジミール・ナボコフ(Strange Bedfellows: Ayn Rand and Vladimir Nabokov)」(Journal of Ayn Rand Studies,2000)だ。ランドとナボコフ、ロシア出身で革命を機に亡命し、アメリカで成功した作家という以外は、何の関係もないと思っていたが、意外な共通点の多さにびっくりした。(うらはらに対照的な点も多かった。)

 ナボコフは、このブログでも、今まで2回取り上げたことのある20世紀文学を代表する大作家のひとりだから説明は不要だろう。ランドの方は、ナボコフに比べると日本での知名度は遙かに落ちると思う。ナボコフとほぼ同時期に活動していたのに、著作の日本語訳が初めて出たのはやっと2004年だ。(『水源』(藤森かよこ訳、ビジネス社)(原著、1943))とはいえ、その後、順調に翻訳が進み、代表作『肩をすくめるアトラス』(2004、脇坂あゆみ訳、ビジネス社(原著、1957))、『われら生きるもの』(脇坂あゆみ訳、ビジネス社、2012(原著、1957))、「アンセム」(藤森かよこ訳、原著、1938)と殆どの小説作品が日本語で読める状況になっている。英語版の wikipedia のフィクションに関する selected works でも残っている作品は戯曲 "Night of January 16th"くらいだ。

 僕自身が、アイン・ランドの名前に初めて接したのは、初の日本語訳である小説『水源』が出版されたころだと思う。新聞やネット上でいくつか書評を読んで興味を持ったが、その後に翻訳が出た代表作『肩をすくめるアトラス』とともにあまりにも長大な本でかつ「アメリカの保守派の思想的バックボーンという意味では面白いが、小説としては退屈」という評価が多かったので買って読んでみるまではいかなかった。(他の2作もまだ読んでいない。)その後「NHKスペシャル マネー資本主義」にグリーンスパンとの関係で名前が出てきたりしていた。

 最近になって、Anne Conover Heller の"Ayn Rand and the world she made(2010,Ancor)"(『アイン・ランドと彼女の作った世界』)と、ほぼ同時期に出た Jennifer Burns"Goddess of the Market: Ayn Rand and the American Right"(2009,Oxford University Press)の紹介を含んだ町山智浩の記事「『ティーパーティの女神』アイン・ランドが金融崩壊を招いた」(『99%対1% アメリカ格差ウォーズ』(講談社,2012))を読んで、アイン・ランドのことを思い出した。

99%対1% アメリカ格差ウォーズ

99%対1% アメリカ格差ウォーズ

 町山著やインターネットなどで見た感想や書評で、アメリカ保守層に非常に広範な影響力を持つと伝え聞くアイン・ランドの、ロシア時代の生活まで考慮した初の本格的な伝記であるという本書に興味を持った。この著書以前には、Barbara Branden の "The Passion of Ayn Rand(1986)"という回想録がアイン・ランドの伝記的な事実を詳しく扱った唯一の著作であったらしいが、インターネット上で見つけた下記の書評によると、必ずしも公平な記述でないという非難がランドの近傍に会った人から出ているらしい。

http://www.institutional-economics.com/images/uploads/randreview.pdf

この紹介によって、ランドへの興味が再燃したのだが、全くランドの書いたものを何一つ読んでない状態で伝記を読んでも面白くないかもな、と思って短いエッセイ集を一冊買ってみた。アイン・ランドの遺著『哲学:それを必要とする者』だ。ランドの1960-1970年代のエッセイや講演を集めた本らしい。序文で、側近らしい編者が、「ランドは、哲学のセールスマンだ」とか「彼女は、何百万人もの人生を変えてきた。おそらくあなたの人生も変えるだろう」とか書いている。(これは、なかなかこわい言い方だ。ランドの人気がカルト的と言われてしまうとしたら、このような物言いにも原因があるだろう。)又、本を開いてすぐのページにあるコメント欄にアラン・グリースパンが同じような趣旨の次の言葉を寄せている。

アイン・ランドの書いたものは、何百万もの人生を変更し形作ってきた。このエッセイ集は、彼女の最良のものの見本だ。―Dr.アラン・グリーンスパン

Philosophy: Who Needs It

Philosophy: Who Needs It

 今回のエントリーでは、D. BARTON JOHNSON の記事の紹介と、『哲学:それを必要とする者』(の表題作、まだそれしかちゃんと読めてません。。。。。。)の感想を書いてみたい。

 まずは、エッセイ集の感想から。

 冒頭の表題作は、アメリカの陸軍士官学校(通称、ウエスト・ポイント)での講演(1974)で、陸士の学生に、「哲学」の必要性を解くという内容だ。ランドの主張は、「哲学は万人に不可欠です。そこに選択の余地はありません。どのような哲学を選びとるかだけです。」というものだ。最初に全体的な感想を言うと、ランド、話は確かにめっちゃ上手いと感じた。SF 小話から初めて、日常的な台詞を過去の哲学者の主張と結びつけたり、哲学は探偵小説のようなものです、と言ったりして、最後は特大ヨイショで締める。学生たちが、話に引き込まれ、拍手喝采する姿が目に浮かぶようだ。いまなら、白熱教室とか主催できそう。あるいは、NHK教育の TED とかで喝采されそう、と思った。そういう、巧さ、説得力のようなものを感じたと同時に、この文章だけでも深く反発するところを感じた。それは、ランドの強烈なアメリカ賛美に関するものだ。

 では、詳しい内容を見てみよう。まず、冒頭部分はこんな感じだ。

 わたしは、作家ですから、小咄(short short story)から始めさせてもらいましょう。あなたは、宇宙飛行士です、あなたののる宇宙船は、制御不能に陥り、見知らぬ惑星に不時着しました。あなたが意識を取り戻し、深刻なけがを受けていないと確認した後に、浮かんでくる最初の三つの疑問はこうでしょう。私はどこにいるのか? (Where am I?)どうやってそれを知ることができるのか? (How can I discover it?)私は何をしたらいいのか? (Where am I?)。

 ランドによると、この三つの問いは、哲学の基本的な分類に対応している。即ち、「形而上学」(where am I)、「認識論」(how to know it)、「倫理」(what should I do)だ。この他に、応用的な哲学として、「政治哲学」、「美学」を挙げている。

 ランドが日常的なせりふを取り上げて、以下に哲学が(あるいは抽象的な思考が)日常生活をも支配しているかを、説得している箇所を引こう。

 あなたたちは、-大部分の人たちがするように‐哲学なんかに影響を受けたことはないよ、と主張するかもしれません。この主張が正しいかどうかチェックしてみましょう。あなたは、今までに、こんなことを思ったり、言ったりしたことはありませんか? 「そんなに信じ込むな―確かなことなんて何もないんだから。(Don't be so sure-nobody can be certain of anything)」これは、デヴィット・ヒューム(やそれ以外の多くの哲学者)の言葉です、あなたが彼の名前を聞いたことがなかったとしても、あなたはこの考えを彼に負っているのです。あるいは、「理論的には正しいかもしれないけど、役に立たないよ。(This may be good in theory, but it doesn't work in practice.)」これは、プラトンです。「馬鹿馬鹿しいことだった、でもそれが人間なんだ。完璧な人間なんていないよ。(That was a rotten thing to do, but it's only human, nobody is perfect in this world.)」これは、アウグスティヌスです。あるいは、「それは、君には真実だろうけど、僕にとっては、真実でないよ。(It may be true for you, but it's not true for me.)」これは、ウィリアム・ジェィムズです。「僕は、役に立たないよ! 誰も彼のしている事を助けられないよ。(I couldn't help it! Nobody can help anything he does.)」これは、ヘーゲルです。あるいは、「証明は出来ない。でも真実だと感じるんだ。(I can't prove it, but I feel that it's true.)」これは、カントです。あるいは、「確かに論理的だ。だが、論理と現実は何の関係もない。(It's logical, but logic has nothing to do with reality.)」これは、カントです。あるいは、「邪悪なことだ。なぜなら、利己的だからだ。(It's evil, because it's selfish.)」これは、カントです。現代の活動家がこんなことを言っているのを聞いた事はありませんか? 「まず行動しろ。考えるのは後だ。(Act first, think afterword.)」これは、ジョン・デゥーイです。
 こういう人もいるでしょうね。「確かに、僕はそういうことをいろんな場面で行ったことがある。でも、そういうことをいつでも信じている必要はないんだ。昨日、それは真実だったかもしれにけど、今日はそうじゃない。(Sure, I've said those things at different times, but I don't belive )」これは、ヘーゲルからきているのです。こうも言うでしょうか。「一貫性なんて頭の悪い子鬼だよ。(Consistency is the hobgoblin of little mind.)」これは、非常に頭の悪い(a very little mind)エマソンのものです。こうも言うでしょうか。「でも、人は時機に応じて、妥協したり、他の哲学者の考えを借りたりできないものか? (But can't one compromise, and borrow different ideas from different philosophies according to the expediency of the moment?)」これは、リチャード・ニクソンであり、彼は、これをウィリアム・ジェイムズに負っています。

 最後に、リチャード・ニクソンが出てきたのが、なんか落ちって感じ。しかし、このレトリックは非常にうまい・面白い言い方だろう。挙げられてる哲学者は、プラグマティズムの人が多いかなって印象。何回も言及されているヘーゲルとカントは、ランドの主要な攻撃対象となっている。

 ランドは、この講演では、自分の哲学(「客観主義(objectivism)」という)の主張については抑え気味だが、一部積極的に述べているところがあり、それは、強烈なアメリカの個人主義賛美になっている。それがゆきすぎて、アメリカを護る軍隊賛美にまでつながっているのは恐ろしいと感じた。

 さて、こんなランドとナボコフの共通点と相違点を研究した論文が、D. BARTON JOHNSON の「奇妙な同衾者-アイン・ランドウラジミール・ナボコフ」だ。ちなみに、D. BARTON JOHNSON は、亡命ロシア人作家の研究者らしく、"Nabokov Studies"という雑誌の創刊者でもあるらしい。(この雑誌の創刊号に「ナボコフサルトル論争」という論文を寄せていた。)

 アイン・ランドウラジミール・ナボコフ、かなり共通した文化的背景を基ながらある意味では対照的な存在でもある二人を、伝記的・文学史的に追っている内容だ。まずは、冒頭部分の引用を。

 アイン・ランド(旧姓アリサ・ローゼンボウム)とウラジミール・ナボコフ(筆名ウラジミール・シリーン)は、帝政ロシアのセント・ペテルスブルグにそれぞれ、1905 年と1899年に生まれ、1950年代後半にアメリカでベストセラー作家になった。名作『肩をすくめたアトラス』(1957)と『ロリータ』(1958)は、ほとんど同時期のベストセラーだった。同国人、同時代人、そして同じく作家、ロシア革命によって亡命を余儀なくされたこと、ランドとナボコフは非常に多くの共通点を持っているが、共通の文化的遺産の産んだ全く異なった側面を見せてくれる。イデオローグ、ランドと芸術家ナボコフは、ニューヨークタイムズ誌のベストセラーリストで奇妙な出会いをした。実人生の方では、このイデオローグと芸術家はおそらく出会ったことはなかっただろうが、アリサ・ローゼンボウムとナボコフの三歳年下の妹オルガ・ナボコフは級友でもあり、親友でもあった。1917 年には、アリサは11か12歳、ウラジミールは18歳だった。でも、彼等は、10年代にナボコフ家で、50年代にマンハッタンでお互いをちらりと見たことぐらいはあったかもしれない。

 ランドとナボコフの妹が親友だったというのは、ちょっとびっくり。まずは、ランドとナボコフ、それぞれのロシア時代からアメリカで作家として成功するまでの伝記をまとめてみよう。(伝記的事実は、基本的にはランドについてはBarbara Brandenを、ナボコフについてはBrian Boid を参考にしているとのこと。)

 アイン・ランドことアリサ・ローゼンボウムは、ユダヤ系ロシア人のブルジョワの家に生まれた。ペテログラード大学で歴史学を専攻し、卒業後の1926年アメリカへ渡った。このころはまだ英語は不得手だったらしい。まずは、映画業界でさまざまな職業に就いた。最初の職業は、Cecil B.DeMille の『キングオブキングス』のエキストラであったという。英語での執筆も初め、最初の成功作は戯曲"Night of Jaurnary 16th"(1935)。この作品は、ある殺人事件を巡る裁判が舞台で観客のうち12人が陪審員役を演じ、その評決によって異なるエンディングを演じるという趣向の作品だったという。ブロードウェイでロングランになった、と。1936年に『われら生きるもの』を発表。ランドの長編小説で唯一、ロシアを舞台にした作品であるそうな。
 1938年に、ディストピア小説『アンセム』を発表した。『アンセム』は、何かの自然災害後に誕生した未来の全体主義的社会が舞台。その社会では個人に名前がなく「平等 7-2521」の様に番号で呼ばれる。主人公、「平等 7-2521」が、古い書物を読んで"I"(わたし)という言葉を発見するという物語だという。このなかなか面白そうな小説は、ザミーチャンの『われら』の影響下で生まれたと考えられている。1921年に書かれた『われら』は、ランドのいたころのペテログラード大学で回し読みされていたそうだ。また、草稿段階では、『エゴ("Ego")』というタイトルであったそうな。ちなみに、ナボコフも『われら』を読んで賞賛しており、1935-36年発表の『断頭台への招待』も『われら』の影響があると指摘されている。(Brian Boidによる。)

 この小説は、以下のサイトで日本語訳が公開されている。

http://www.aynrand2001japan.com/anthem.html

 1943年。出世作『水源』を発表。出版社の"Indianapolis firm of Bobbs-Merril"は、偶然にも、1938年にナボコフの『マルゴ』を出版したところだった。『水源』は、批評家には不評で会ったが、大いに売れ、1945年1月までニューヨークタイムズのベストセラーリストに載り続けた。1949年に映画化された。(D. BARTON JOHNSONは、ハンバート・ハンバートとローが旅行中にこの映画を見たかもしれないと書いている。)1957年に1,200ページ超の大作『肩をすくめるアトラス』を出版した。

 あと、この『水源』の映画化『魔天楼』については、町山智浩の以下の記事が詳しくかつ面白い。

http://www.shueisha-int.co.jp/machiyama/?p=146

 ナボコフは、裕福な貴族(ただし爵位は持っていない)の長男として生まれた。弟妹は、4人いた。1919年にロシアを離れ、ヨーロッパに亡命。1922年にケンブリッジ大学を卒業した。当時、亡命ロシア人が多く住んでいたベルリンの映画業界でエキストラの仕事から始め、舞台や映画の脚本を書き始めた。映画の影響を受けた小説としては、『カメラ・オブスキューア』がある。アルフレッド・アペル Jr が場面転換をカメラの切り返しを意識して書いたように、「映画のような小説」を施行したものだと指摘しているそうだ。1940年、アメリカに渡った。1948年に書かれた小説『ベンドシニスター』は、ソ連を思わせる架空の独裁国家で苦悩する知識人クルグを主人公にしたものだが、出版社探しに苦労したそうだ。1958年、最初パリのオリンピアプレスで出版した『ロリータ』をアメリカで出版した。ベストセラーになり、キューブリックによって映画化された。

 このような二人の人生行路の共通点をD. BARTON JOHNSONは、次のようにまとめている。

  1. 幼少時代、サンクトペテルブルグで裕福で幸せな生活を送った。
  2. ロシア革命を機に亡命した。
  3. WWII で親族を失っている。(ランドは両親を、ナボコフは弟のセルゲイを。)
  4. 英語で、執筆を行い英語作家として有名になった。
  5. 作品の映画化とプレイボーイのインタビューで名声を拡大した。
  6. 生前は、故郷に帰ることはなかったが、現在は作品が故郷に帰還している。(ロシアで翻訳が出ている。)

 さて、伝記上多くのの共通点を持つ二人だが、文学的な評価や主張は、正反対といっていいくらい、ぜんぜん違う。ランドは、「客観主義」という自分の哲学を表現するために小説を書いていたが、主張はともかく、小説としては退屈という評価が多い。ナボコフは、「政治小説ほど、僕を退屈させるものはない。」とインタビューで言っているし、小説の内容でなくスタイルを重視する作家だ。

 ナボコフの言葉は、一般論として言ったものだが、ランドについて聞かれても同じようなことを言ったかもしれない。ランドは、ナボコフについてもっとはっきりした意見を書いている。1964年の Alvin Toffler によるインタビューだ。(因みに、ナボコフも Alvin Toffler のインタビューを受けている。)D. BARTON JOHNSON の論文から孫引きする。

わたしは、彼の小説は1冊と半分しか読んでいません。その半分というのは。『ロリータ』です。これを読み終えることはできませんでした。彼は、優れた文体を持っていて、美しい文章を書きますが、彼の扱う主題や人生観・人間観は余りにも邪悪で、芸術として正当化できるものではありません。

 それ以外にも作家に対する評価でも、多くの対照的な点がある。例えば、ロシアの二大文豪、ドストエフスキートルストイにしても二人の評価は、対照的だ。ランドは、ドストエフスキーを賞賛しているが、ナボコフドストエフスキーに点が辛いのは有名だ。一方、ランドは、「トルストイを読んだことは、今までで行った文学的義務の中で一番退屈なものだった。」(『アイン・ランド書簡集』,1955,D. BARTON JOHNSONの論文から孫引き)と書いている(激しく共感!)が、ナボコフはロシアの散文作家の中で唯一「A+」という評価をしている。

 また、19世紀ヨーロッパ文学についても、ランドのお気に入りはユーゴーナボコフフローベールで、これは二人のスタイルをはっきり反映しているといえよう。現代文学についても、ナボコフが『ユリシーズ』や『変身』を高く評価するのに対して、ランドはWWI以降の小説にはあまり関心がなかったらしい。(ミッキー・スピレインが好きとだとか。)

 なぜ、このような二人が生まれたのか? D. BARTON JOHNSONによれば、これは必ずしも突然変異的なものでなく、20世紀のロシア文学史の伝統にその原因を見つけることができそうだ。
 20世紀初頭のロシア文学には、二つの潮流があった。社会主義リアリズムと象徴主義だ。社会主義リアリズムは、チェルヌイシェフスキーの『何をなすべきか』(1863)を祖母に、ゴーリキの『母』を母にして生まれたものだ。D. BARTON JOHNSONは、社会主義リアリズムとランドの小説観に共通していると指摘する。ランド自身の言葉を借りればそれはこういうことだ。

(芸術の)根源的な価値は(読者に)あるべき世界の住人としての生を体験させることだ。
(『ロマンティックマニフェスト:文学の中の哲学』、D. BARTON JOHNSONの論文から孫引き。)

 社会主義リアリズムとランドでは、その思想は真逆だが、何らかの理念から導き出されたあるべき世界を描くことを理想とする点では共通している。このことをD. BARTON JOHNSONは次のよう皮肉っぽくまとめている。

 ランドのハワード・ロークもジョン・ガルトもチェルヌイシェフスキーの主人公たちも(作者同様に)『何をなすべきか』に悩んだりしない。

 一方で、ナボコフが影響を受けたのは、ロシア象徴主義だ。ナボコフとロシア象徴主義の関係については、沼野充義ナボコフはどこまでロシアの作家か? 」(「ユリイカ‐特集ナボコフ 亡命の20世紀」)にも詳しく書いてあったのでここも参考にした。具体的には、詩人アレクサンドル・ブローク(1880-1921)や作家イワン・ブーニン(1870-1953)、アンドレイ・ベールイ(1880-1931)といった面々だ。

実は、ロシア象徴主義の作家たちについて僕は全然知らなかったのだが、日本語版wikipediaにも立項されていたくらいなので、結構有名なのかもしれない。。。。。。生年、没年はそこを見た。

 それぞれ何作か翻訳も刊行されている。

アレクサンドル・ブローク
『薔薇と十字架』 

薔薇と十字架 (平凡社ライブラリー)

薔薇と十字架 (平凡社ライブラリー)

イワン・ブーニン
ロシア出身の作家で、初めてノーベル文学賞をとった作家らしいので翻訳もたくさんあるみたい。
『暗い並木道(英語版) イワン・ブーニン短編集』

暗い並木道―イワン・ブーニン短編集

暗い並木道―イワン・ブーニン短編集

群像社からはたくさん出てるみたいだ。

たゆたう春、夜 (ブーニン作品集)

たゆたう春、夜 (ブーニン作品集)

呪われた日々、チェーホフのこと (ブーニン作品集)

呪われた日々、チェーホフのこと (ブーニン作品集)

アンドレイ・ベールイ

サイモン・カリンスキーは、ベールイの『ペテルスブルク』について「これなくしてはナボコフの文学的起源を想像することは難しい」と書いている。

ペテルブルグ〈上〉 (講談社文芸文庫)

ペテルブルグ〈上〉 (講談社文芸文庫)

ペテルブルグ (下) (講談社文芸文庫)

ペテルブルグ (下) (講談社文芸文庫)

 特に、ロシア象徴主義の指導的な詩人だあったアレクサンドル・ブロークの影響は大きかったらしく、ナボコフは自伝で三回も言及しているという。僕は、『ナボコフ自伝』は持っていないので、引用できないが、『ナボコフ=ウィルソン往復書簡集』(サイモン・カーリンスキー編 中村紘一 若島正訳、作品社、2004、原著 1979)にも彼らへの熱烈なる言葉がいっぱい見られた。

ナボコフ=ウィルソン往復書簡集 1940‐1971

ナボコフ=ウィルソン往復書簡集 1940‐1971

アレクサンドル・ブローク

ブロークは読者の身体に入り込んでくる詩人で、そうするとすべてがブローク的ではなく平凡に見えてしまうから。たいていのロシア人と同様に、私もそういう段階を25年ほど前に経験したことがる。

この言葉の前半は、ナボコフとナボコビアンの関係についてもあてはまりそうだ。

プーシキンが海なら、チュチェフは井戸だ。口当たりはいいが本物だ。ブロークは、ランボーの「酔いどれ船」に出てくる子供がどぶに浮かべる羽根のついた小舟だ。

アンドレイ・ベールイ

おそらくいかなる言語であれ詩について書かれたものとしては最高傑作であるアンドレイ・ベールイの論考『ポエチカ』

(引用者注:サイモン・カーリンスキーによると実際にはそういう題でなく『象徴主義』(1910)の一連のエッセイのことを言っているらしい。)

また、

1905-1917年にかけてロシア文学が「衰退」したというのはソヴィェトのでっちあげだ。ブローク、ベールイ、ブーニンたちはそのころに彼らの最高傑作を書いた。(中略)私はその時代の産物で、当時の雰囲気を吸って育った。

とも書いている。

 つまり、まとめるとランドは社会主義リアリズムのナボコフはロシア象徴主義の系譜をそれぞれ引いているので、同じような社会・時代的な背景を背負っていてもこんなにも違う作家になったということだ。

 といっても、勿論、これは単純化した言い方で、ランドも実は象徴主義の詩人アレクサンドル・ブロークがお気に入りだったということだ。面白いことに、ランドのブローク評は、ナボコフ評によく似ていて素晴らしい詩人だが、人生観に賛成できない、というものだったらしい。これらの発言からするに、ランドは必ずしも前衛文学オンチというわけではなく、それなりに鑑賞眼を持っていたが、思想的にのめりこまなかったということかもしれない。

 また、ナボコフにしても、 チェルヌイシェフスキーの伝記を書いたりしている。(『賜物』中の主人公の創作として。)

 というわけで、意外に共通点が多いことや、今まで知らなかったロシア象徴主義の作家に興味を持てたので面白かった。

 この論文には、他にもナボコフやランドのサブカルチャーに与えた影響や彼らの作品から派生して出来たスピンオフ作品な紹介などをしていて、いろいろと面白い興味の広がるものだった。

 例えば、カナダのロックバンドRushの「2112」は、ランドのアンセムの影響を受けた作品だそうだ。

 また、サイモン・アンド・ガーファンクルの歌詞にもアイン・ランドの名前が出てくるとか。

 スピンオフ作品としては、ナボコフのものとしては、Pia Pera の"Lo's diary"(ドロレス・ヘイズは実は生きていて、ロリータの視点からハンバート・ハンバートとの生活をつづったという趣向の作品。)が挙げられていた。若島正の『ロリータ、ロリータ、ロリータ』所収のコラムに詳しい解説があった。

ロリータ、ロリータ、ロリータ

ロリータ、ロリータ、ロリータ

 僕が見つけた最近のものでは、Paul Russell という人の"The Unreal Life of Sergey Nabokov"というのが面白そうだ。これは、ナチスの収容所で亡くなったナボコフの弟セルゲイを語り手とした作品だそうで、題名は勿論、『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』から来ているのだろう。

The Unreal Life of Sergey Nabokov

The Unreal Life of Sergey Nabokov

 ランドのスピンオフ小説は、Mary Gaitskill の "Two Girls, Fated and Thin"(1991)とGene Bell-Villada の "The Pianist Who Liked Ayn Rand"(1998)が挙げられていた。

 あと、Stephen Goldstein という人の"Atlas Drugged”という風刺作品が最近出たらしい。スティーブン・コルベアがビル・オライリーにしたことをアイン・ランドにしたそうだから、結構強烈な風刺作品なのだろう。

Atlas Drugged: Ayn Rand Be Damned!

Atlas Drugged: Ayn Rand Be Damned!

 今度、ランドの伝記や作品、またナボコフに影響を与えたロシア象徴主義の作家たちの作品を読んだらまた感想を書いてみたい。

ナボコフによるサルトル『嘔吐』(英訳)書評の感想-(V. ナボコフ, "Strong Opinions" から "SARTRE'S FIRST TRY")

 前の記事で、「ナボコフは、フロイトドストエフスキーは結構読んでそうだけど、サルトルは何読んで嫌いになったのかな? と思った。」と書いたが、"Strong Opinions"の後半のエッセイ編の二つ目の記事にナボコフの英訳版『嘔吐』書評が載っていた。「サルトルの初めての試み」("SARTRE'S FIRST TRY",1949)というタイトルだ。"Strong Opinions"自体、日本語訳がないので、たぶんこの書評は、日本未紹介だろう。中身は、誤訳指摘+内容の要約+作品評価といったもので、こんな感じ。

(ネット上では、ここ Sartre's First Try で原文を読めるようだ。ただし、"Strong Opinions"バージョンではなく、誤訳指摘4 を削除した初出のもの 2013/12/10追記)

Strong Opinions (Penguin Classics)

Strong Opinions (Penguin Classics)

サルトルの初めての試み

『嘔吐』ジャン=ポール・サルトル著 ロイド・アリグザンダー訳 238ページ ニューヨーク ニュー・ディレクションズ 1949

 サルトルの名前は、僕の理解では、カフェ哲学のファッションブランドとでもいったものを連想させる。さらにいわゆる「実存主義者」どもの相当部分は、「サルトル受け売り主義者」なので、このサルトルの最初の小説『嘔吐』のイングランド製の翻訳は、そこそこ成功するだろう。

 (お笑いならともかく、)何回も何回も間違って歯を抜き続ける歯医者などと言うもは、想像しがたい。でも、編集者や翻訳者たちは、この種のことをやってのける。スペースの都合でアリグザンダー氏の犯した不手際のうち以下のものだけを紹介しよう。

1. "s'est offert, avec ses economies, un jeune hommme"(お金で若い男を買った("has bought herself a young husband with her saving"))女性は、翻訳者氏によると「自分自身とお金を若い男に差し出した」("offered herself and her savings")そうだ。

2. "I'le l'air souffreteux et mauvais"(彼はみすぼらしくて意地が悪そうだ)という文中の形容詞に、アリグザンダー氏は困り果ててしまって、誰かにその部分を埋めてもらおうと空けて置いたが、誰も埋めてくれなかったので英語版では抜けができた。「彼は  だ。」

3. "ce pauvre Ghehenno"(フランスの作家)についての言及が捻じ曲げられて「キリスト......このゲヘナの貧しき男」になった。

4. 主人公の悪夢に出てくる foret de verges (男根の森)が、樺か何かに誤解されている。

 文学的な観点からすれば、そもそも『嘔吐』は訳す価値があったのかどうか疑問だ。ぱっと見では、張りつめているようで、ゆるゆるにたるんでいるこの種の小説を流行らせたのは、バルビュスやセリーヌといった二流作家どもだ。その背後にはドストエフスキーのうちの最悪の作品がぼんやりみえる。もっとさかのぼれば、通俗小説好きのロシア人が大好きな老ウージェーヌ・シューがいる。この本は、日記の体裁(「土曜日朝」とか「午前11時」とか-陰気な代物)をとっているが、書いているのは、ロカンタンとかいう人物で、極めてうそ臭い旅行を終えて、ノルマンディーのある町に住み歴史に関する研究を完成させようとしている。

 ロカンタンは、カフェと公共図書館を行ったりきたりしている。おしゃべりな同性愛者と遭遇したり、瞑想したり、日記を書いたりしている。最後に、前妻と長く退屈な話を交わすが、彼女は、今では日焼けしたコスモポリタンに囲われている。カフェの蓄音機から流れ出るアメリカの流行歌が異様に重視されている。「いつの日にか君は僕を思い出すだろう。」ロカンタンは、この歌のようにきびきび生き生きとなりたいと思っている。この歌のお陰で「ユダヤ人(作詞者)と黒人女(歌手)が実存の中で溺れ死ぬ」事から救われた。

 うそ臭い透視能力によって、彼は作曲家が髭剃り後鮮やかなブルックリン子で「真っ黒な眉毛」をして「指輪をはめて」いて、超高層ビルの21階で曲を作っている姿を幻視する。暑さがひどい。しかし、間もなく、トム(たぶん友達)が水筒を持って現れて彼らはしこたま酒(アリグサンダー氏の酔っ払いバージョンでは「グラスからこぼれそうなウィスキー」)を飲む。僕のつきとめたところでは、この歌は、実は、ソフィー・タッカーのもので作詞したのはカナダ人のシェルトン・ブルックスだ。

 この本全体の勘所は、ロカンタンが自分の「吐き気」の原因は、ばかげて混乱しているが、正に実在しているこの世界に圧迫されているからだと発見した時に訪れるひらめきにあるようだ。この小説にとって、不幸なことに、こういったことが単に心理的な次元で終わっている。ロカンタンの発見にしても、哀れなこの本のほかの部分だけでもなければ、もっと別のもの、唯我論的なものになったかもしれない。作家が自分の作った役立たずにくだらない哲学的な思いつきで苦しめようとするなら、この種の手品にはたっぷりの才能が必要なのだ。ロカンタン自身が、世界の存在を決心したことに、彼に、特別、文句をつけるものはいない。しかし、芸術作品として世界を成立させることに、サルトルは力及ばなかったのだ。

ちなみに、初出時は、四つ目の誤訳指摘を削られてしまったそうだ。

まずは、注釈と言い訳を。誤訳などのご指摘をくだされば幸いです。(ブログのコメント欄か、プロフィールに書いてあるメール・アドレス(fromambertozen[at]gmail.com)もしくは、twitter(kohaku_nanamori)に頂ければ、反応できます。)

 ロイド・アリグザンダーは、ニューベリー賞(ロバート・オブライエンの『フリスビー叔母さんとニムの家ねずむ』やル=グィンの『壊れた腕輪』などが取った賞)や全米図書賞児童文学部門を受賞した児童文学者。1927年のフィラデルフィア生まれだから、この翻訳を出した時はまだ20台はじめだったわけだ。最初に出版された小説は、"And Let Credit Go"(1955) 。初めて子供向けのファンタジーを書いたのは、"Time Cat"(1963)で、40台からファンタジー小説に専念するようになった。代表作は、5部作+別冊3冊の"The Chronicles of Prydain",1964-1968,1973(翻訳は、『プリデイン物語』、神宮輝夫訳、評論者)。ニューベリー賞は、5作目の"The High King"(『タラン・新しき王者』)が受賞している。その他に、"Westmark"3部作(1981-1984)や"Vesper Holly"6部作(1986-2005)がある。2007年に亡くなっている。(以上、英語版と日本語版の wikipedia のアリグザンダーに関する項目をもとにまとめた。)

 二文目のいわゆる「『実存主義者』どもの相当部分は、『サルトル受け売り主義者』なので、」の部分は、原文では

since for every so-called "existentialist" one finds quite a few "suctorialists"(if I may coin a polite term)

となっている。つまり、いわゆる「実存主義者」たちは実際には"suctorialists"(ナボコフの造語)とでも言うべきものだと皮肉を言っているのかなと解釈した。"suctorial"は、辞書を引くと「吸引(器官)の」とあるので、音でサルトルと掛けていると想像して上のように訳した。正直、余り(全然)自信はないので英語に詳しい人のご意見を伺いたいです。

どどいつ文庫さん(twitter id dobunko)から suctorialists=sucked realist では、ないかとご指摘をいただきました。本文の方は、取り急ぎ、打ち消し線だけ引いておきました。あとできちんと、訂正します。どどいつ文庫さん、ありがとうございます。)

 ナボコフの一つめの誤訳指摘に関してだが、僕の持っている白井浩司訳(1994年の改訳版、人文書院)では、次のようになっている。

たいそう美男の青年に、なけなしの貯金と共に身を任せた
(『嘔吐』白井浩二訳p21)

(追記:2012/12/08に、本屋で鈴木道彦訳の『嘔吐』(2010,人文書院)を見たら、ナボコフと同じ解釈の訳文になっていたことを確認した。

嘔吐 新訳

嘔吐 新訳

白井浩司訳は、どちらかというとアリグザンダー訳と同じ解釈をとっているので、もし、英訳(アリグザンダー訳)・日訳(白井浩司訳)ともに同じ誤訳を犯してしまったのだとすると、面白い現象だなあと思った。僕自身は、フランス語は全くできないので、自力で誤訳かどうか判断することはできないが、”鈴木道彦訳 『嘔吐』”で検索してみたら、鈴木道彦は、改訳版の白井浩司訳に誤訳が多いということを気にして新訳を出したという記述を見つけた。

http://liberation.blog.so-net.ne.jp/2011-04-09

)

 ちなみに、『嘔吐』の英語訳は、アリグザンダー訳(1949)が初めてのものだが、1956年に、イギリスのフランス文学者 Robert Baldick (1927–1972)による翻訳も出ているそうだ。現在刊行されている版のアリグザンダー訳『嘔吐』やBaldick訳の『嘔吐』でどのようになっているか、いつか確認してみたい。

アリグザンダー訳

Nausea (New Directions Paperbook)

Nausea (New Directions Paperbook)

Baldick訳

Nausea (Penguin Modern Classics)

Nausea (Penguin Modern Classics)

  一つ、よくわからなかったのは、アリグザンダー訳は、"The Diary of Antoine Roquentin" (John Lehmann, 1949)というタイトルで出版されたらしいことが wikipedia に書いてあること。ナボコフの書評では、タイトルも出版社も違う。イギリスで出た時は、"The Diary of Antoine Roquentin"のタイトルで、アメリカ版では、"nausea"だったということだろうか? ちなみに、John Lehmann は、イギリスの詩人で文人の John Lehmann (1907-1987) が1946年に設立した出版社だということだ。

 ナボコフが、「ぱっと見では、張りつめているようで、ゆるゆるにたるんでいるこの種の小説」の系譜としてあげているバルビュス、セリーヌ、ドストエフスキー(の中の最悪の作品)、ウージェーヌ・シューの中で最後の名前は今回初耳だった。ウージェーヌ・シュー(1804-1857)は、19世紀のフランスの作家で、代表作は、『パリの秘密』と言う作品らしい。『さまよえるユダヤ人』とともに日本語訳(抄訳らしい)もあるようだ。

さまよえるユダヤ人〈上巻〉 (角川文庫)

さまよえるユダヤ人〈上巻〉 (角川文庫)

小倉孝誠『「パリの秘密」の社会史―ウージェーヌ・シューと新聞小説の時代』(新曜社,2004)は、ウージェーヌ・シューの研究書。これは、読んでみたい! 内容紹介を Amazon から引用。

『パリの秘密』という小説をご存知ですか。19世紀フランスの社会派大衆小説の先駆者ウージェーヌ・シューの一世を風靡した新聞小説です。当時、その人気はバルザックユゴーを嫉妬させ、トルストイドストエフスキーにも大きな影響を与えたといいます。かつて邦訳(部分訳)もされましたが、いまでは本国はもとより日本でもまったく入手困難です。本書は、この名のみ高くほとんど読まれることのない小説の内容を興味深い挿絵とともに紹介し、その背景となるメディア状況などを絡ませながら、シューが生きた時代と思想を浮き彫りにします。

『パリの秘密』の社会史―ウージェーヌ・シューと新聞小説の時代

『パリの秘密』の社会史―ウージェーヌ・シューと新聞小説の時代

 カフェで流れているラグタイムについては、白井浩二訳では下のようになっている。

Some of these days
You'll miss me honey

いつか近いうちに 可愛いひとよ きみは
ぼくがいないので さびしがることだろう
(『嘔吐』白井浩司訳pp38-39)

この歌についてのナボコフの調査は正しいようだ。白井浩司訳からラ・プレイヤード版の注の訳を引用すると、

「歌詞とメロディは一九一0年に黒人の Shelton Brooks (一八八六年生)によって作られ、ほとんどすぐに白人の女歌手、芸名 Sophie Tucher(一八八五年ごろ~一九六六年)によって唱われ大評判となり、レコードに吹き込まれた。彼女はユダヤ系ロシア人で、一九四十五年に出版した自叙伝の標題は『いつか近いうちに』だった。サルトルが作詞家をユダヤ人としたのは、アメリカのジャズ界がユダヤ人によって支配されていると信じていたからであり、歌い手を黒人女と見誤ったのは、歌い手が顔を黒く塗って黒人女のふりをすることが流行であるのを知らなかったからである。サルトルが引用している歌詞は原詞と少し違うが、レコーディングされたものの一つである。」
(『嘔吐』白井浩二訳pp38-39)

ということだそうだ。ソフィー・タッカーの生年は、英語版の wikipedia によれば、1986年の1月13日になっている。これによると、「20世紀前半において、アメリカで最も人気の高かったエンターティナーの1人」だそうだ。"some of these days"は、youtubeにいくつか映像が掲載されているので、1911年のものを貼り付けておいた。

ソフィー・タッカーで検索して見つけた http://www.h4.dion.ne.jp/~urtcs/us_Sophie.html このサイトによると、

彼女はロシアで生まれましたが、母親はアメリカにいる同じユダヤ人の夫と合流するために移民となりました。彼女の生まれたときの名前はソフィア・カリシ( Sophia Kalish)ですが、一家はまもなく、苗字をアブザ(Abuza)にし、コネティカット(Connecticut)州に移り、そこでソフィーは家族でやっていたレストランで働きながら大きくなりました。
(中略)

彼女はルイス・タック(Louis Tuck)と1903年に結婚し、1人の息子、バート(Bert)をもうけましたが、すぐに離婚しています。バートと彼女の両親を残して、1906年に、彼女はニューヨーク(New York)へ行き、名前をタッカー(Tucker)に変え、自分の生活のために、アマチュアのショーで歌い始めました。

彼女は、ある1人に言わせると「大柄で見かけがよくない」ので、そうしないと受け入れられないと思った、ショーのマネジャ達から、顔を黒く塗るように求められました。彼女は1908年にバーレスク・ショーに入り、ある夜に、メークアップも旅行カバンもなしでいたことに気がついたとき、そのまま黒い顔でなく続け、聴衆にも受けて、それ以降、黒い顔はしなくなりました。
(中略)
タッカーのステージのイメージは、彼女の、「太った女の子」だけどユーモラスな思わせぶり、を強調したものでした。彼女は、「やせたいとは思わない(I Don't Want to Be Thin)」、「誰も太った女の子は愛せない、でも太った女の子は愛する(Nobody Loves a Fat Girl, But Oh How a Fat Girl Can Love)」のような曲を歌っていました。1911年に彼女の代表曲となる「この頃(Some of These Days)」を歌いました。

ということだ。この文章を読んで、ソフィー・タッカーに興味を持ってしまった。

ソフィー・タッカーの自伝"Some of These Days"

Some Of These Days The Autobiography Of Sophie Tucker

Some Of These Days The Autobiography Of Sophie Tucker

 シェルトン・ブルックスの没年は、1975年。カナダ出身のジャズの作詞家・作曲家で、代表作は、"Some of These days"の他に"At the Darktown Strutters' Ball","I Wonder Where My Easy Rider's Gone", "Every Day", "All Night Long", "Somewhere in France", "Swing That Thing", "That Man of Mine", "There'll Come A Time", and "Walkin' the Dog"があるそうだ。

 以上の注釈についても、間違いなどありましたら、お教え頂ければ幸いです。

 ナボコフの『嘔吐』評価は、なかなかに辛辣な内容だが、文章自体は、(皮肉のこもった)ユーモラスな表現によって、これだけ読んでも面白いものになっているのはさすが。特に「何回も何回も間違って歯を抜き続ける歯医者」という表現は笑ってしまった。そんな人物が出てくるコントが本当にありそう! 『プニン』のタイトルロールの大学教授が、抜歯して入れ歯を作ってもらうシーンを思い出した。(『プニン』は、farce っぽい側面もあるとおもうけど、この歯医者はそんなとんでもない人物ではなかったようで、プニンは入れ歯の出来に大満足していた。)このシーンでは、抜歯と新しい歯が、プニンにとってのロシアからの亡命と新天地アメリカを象徴していた。

 また、誤訳指摘を見ても、ナボコフ、『嘔吐』の原書を読み込んでるな、というのも分かった。(前回の記事で取り上げたインタビューにもあるように、ナボコフは5歳以来、ロシア語、英語、フランス語のトリリンガル。)

 ところで、本題のナボコフの『嘔吐』批判だが、その肝は、ロカンタンの苦悩と発見が、「単に心理的な次元で終わっている」("all this remains on purely mental level")と判断したことだろう。そして、そうなってしまったのは、「哀れなこの本のほかの部分」のせいといっている。つまり、「芸術作品として」ひとつの世界を成立させることができていないというのがサルトルへの批判の焦点だ。まあ、要は、小説としてへたくそだと言うことだろう。前回紹介のインタビューで「政治小説と社会的な目的をもった小説ほど僕を退屈させるものはない。」と言っているのも、そのような小説たちが、芸術作品としてひつつの世界を成立させるよりも、自分たちの意見の広報手段として小説形式を使っているのが我慢できないと言うことだろう。

 『嘔吐』がそのような小説かどうかはともかくとして、こういう種類の批判ならどんな小説でも受ける可能性はあるし、ナボコフが芸術としての小説にとりわけ厳しいだろうということも想像できる。(『ナボコフーウィルソン往復書簡集』では、ヘンリー・ジェイムズの描写がナボコフの厳しい小説観の餌食になっていた。)この場合、批評の妥当性は、どれだけ具体的かつ説得的に小説としての欠点を批判できるか、に担保されるだろう。

 しかし、誤訳指摘は詳細だが、サルトルの小説技術へも批判は、この書評においては、(ジェイムズへの批判と違って、)あまり丁寧ではない。(まあ、短い批評なので、そこまで要求できるはずもないが、)そこは、残念なところだ。

 近いうちに、『嘔吐』をきちんと読みなおして、ナボコフの批判が当たっているか自分の判断を下してみたい。

”考えることは天才的、書くものは並はずれた作家のもの、喋ると子供みたい”-V. ナボコフ, "Strong Opinions" の感想

 ウラジミール・ナボコフの"Strong Opinions"(1973)を読んだ。面白かったので、少し紹介してみたい。
 この"Strong Opinions"は、「ロシア生まれで、イングランドで教育を受けた、アメリカの作家("An American writer, born in Russia and educated in England")」ナボコフのインタビュー集、編集者宛ての手紙、短めのエッセイを収めたバラエティ・ブックだ。その中でも、『ロリータ』の成功によって、コーネル大学を辞して、1961年にスイスでホテル暮らしをはじめた後の1962年から1972年の10年間に行われた22本のインタビューが、この本の目玉で、この10年間は、ナボコフの執筆履歴に照らすと『エフゲニー・オネーギン』の注釈つき翻訳の仕事と『アーダ ある家族の年代記』という二つの大作と『透明な対象』の執筆までの時期を含んでいる。
 ナボコフは、日本でも相当有名かつ人気も高い作家だ。実際、ナボコフ作品は、(出版状況はともかく)翻訳状況はすごく良い。僕の読んだペーパーバックの"Strong Opinions"についてる簡単な書誌を見ても、『マーシェンカ』から『道化師をごらん!』までの 17 作の長編小説は全部翻訳されてるし、(中には、ロシア語版からの訳とフランス語版からの訳と英訳版からの訳があるのまである! )短編全集もでている。小説以外でも、『ナボコフーウィルソン往復書簡集』やキューブリック等への書簡も含む書簡選集、評論『ニコライ・ゴーゴリ』、講義録『ロシア文学講義』、『ヨーロッパ文学講義』、『ドン・キホーテ講義』も翻訳がある。この"Strong Opinions"を含む訳されてない本の中では、次のような作品たちが気になる。

  • "The Waltz Invention"
  • "Lolita: A Screenplay"
  • "The Man from USSR and Other Plays"
  • "Poems and Problems"

最初の三つは戯曲か脚本で、"Poems and Problems"は詩集+詰めチェス問題集だそうだ。特に、ロリータの映画用脚本"Lolita: A Screenplay"は、ぜひとも読んでみたい。

 僕も、大学生のころ日本のナボコフ研究者若島正の『乱視読者の冒険』、『乱視読者の帰還』、『乱視読者の新冒険』等の評論集を読んで、「ナボコフ、なんて魅力的なんだ」と思って、『キング、クイーンそしてジャック』、『ディフェンス』、『マルゴ』、『セバスチャンナイトの真実の生涯』、『ベンドシニスター』、『ロリータ』、『プニン』などの長編小説や短編集『ナボコフの1ダース』等を読んだり、『賜物』や『青白い炎』という大作に挑戦して挫折したりした。ちょうどそのころ何冊かナボコフの新訳や復刊があったりして読みやすい状況だったような気がする。たくらみの多いナボコフの小説の魅力を十分に味わえた自信は全然ないけれど、それでもナボコフは僕の中で特別な作家のひとりになった。(実は、一番なんども読んだのは小説ではなく『ナボコフーウィルソン往復書簡集』( 中村紘一・若島正訳、作品社 )だ。)
 
 この"Strong Opinions"のインタビューは、TV(BBC)や雑誌(プレイボーイやニューヨーカー)のインタビューに答えたもので、他の作家への賞賛や悪口、ナボコフの人生観や文学観に関するものなどゴシップ的にも文学的にも興味深いものだった。結構同じような質問が繰り返しでてきたり、ちょっと失礼なんじゃと思うような質問もあって面白かった。(ところで、インタビューといっても、先に質問を送ってもらって、ナボコフがそれに対する回答を原稿として用意するという形式が多かったようだ。ナボコフは、「考えることは天才的、書くものは並はずれた作家のもの、でも喋るとなると僕は、子供みたいなんだ」("I think like a genius, I write like a distinguished writer, and I speak like a child.")とこの本の序文で書いていて、話下手でかつそれを気にしていたようだ。)僕の印象では、次のような質問が多かった。

  1. フロイトフロイト主義への批判や悪口
  2. 世界の文学者へのナボコフへの評価
  3. ナボコフの人生観や文学観に関する質問
  4. ナボコフの自作への質問
  5. ナボコフの個人史に関する質問
  6. ナボコフの現在進行中の仕事に関する質問

1つめの質問は本当に多かった。ナボコフ自身が自作の英訳版の序文などでフロイトの悪口を義務のように繰り返しているせいもあるんだろうけど、1960-70年代のアメリカ・英国では、フロイトに対する関心が高かったのだろう。
 例えば、プレイボーイ(1964)のアルヴィン・トフラーによるインタビュー。

-精神分析を受けたことはありますか? 
V.N. 何を受けたかだって? 
-精神の分析です
V.N.なんでそんなもん受けるんだ! ああ~ん!(Good God!)。
調査のために。結構お詳しいので。
V.N. 本で読んだんだよ!

 他にもこんなやり取りが。(BBC の1968年のインタビュー。)

-フロイト博士がお嫌いですか?
V.N. 前にも言ったが、嫌いな博士は一人じゃない。四人いるんだ。Dr フロイト、Dr ジバゴ、Dr シュバイツァー、Dr カストロだ。

なんで、Dr シュバイツァーが嫌いなんだろう? 

 次に、ナボコフの世界文学への評価。悪く言われてるのは、ドストエフスキーサルトルといったところ、ビョートルも好きじゃないらしい。ジェイムズも微妙。評価が高いのは、プーシキントルストイゴーゴリ、メルビル、ベケット、ウエルズ、ロブ・グリエ、ジョイスといったところ。
 ナボコフは自分の少年時代の読書暦についてこんなことを言っている。

V.N. 14 か 15 までにトルストイの全作品をロシア語で、シェイクスピアの全作品を英語で、フローベールの全作品をフランス語で読んで再読した。

 『ロリータ』の注釈をつくった、ナボコフの教え子でもあるアルフレッド・アペルJrによるインタビュー。

V.N. ドストエフスキーでは、『二重人格』が一番ましかな、恥ずかしげもなく、露骨にゴーゴリの『鼻』のまねだけどな。

 また、こんな場面も。

-ピンチョンとかバースはどうでしょう?
V.N. 読んでないよ。

 ただし、ナボコフは、後の方のエッセイで、A+評価のアメリカ短編小説を6つ挙げていてその中にはバースの作品も入っている。翻訳の情報と併せて、まとめてみた。

  • ジョン・チーバー「郊外族の夫」(『現代アメリカ短編選集2』に「郊外住まい」のタイトルで収録)
  • ジョン・アップダイク「いちばん幸福だったとき」(『現代アメリカ短編選集3』)
  • J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」(『ナイン・ストーリーズ』)
  • ハーバード・ゴールド「マイアミビーチの死」
  • ジョン・バースビックリハウスの迷子」(『アメリカ短篇24 』)
  • デルモア・シュワルツ「夢の中で責任がはじまる」(『and Other Stories―とっておきのアメリカ小説12篇』)

 ハーバード・ゴールドの翻訳は見つからなかった。未訳かもしれない。翻訳があった作品も『ナイン・ストーリーズ』以外は残念ながら絶版みたいだ。(『ナボコフA+短編集』として集めて出版されないかな!?)
 同じインタビューでこんなやり取りもあった。

-ゼンブラの言語とウィットゲンシュタインの「私的言語」は、関連があるように思うのですが? 大学で哲学科との交流は? 
V.N. 全くない。彼の仕事については何も知らない。名前を知ったのも 50 年代にはいてからだよ。ケンブリッジではサッカーをしてロシア語で詩を書いていた。


又別のインタビューでは、

-ロブ・グリエが大好きだそうですが、クノーやビョートルはどうですか? 
V.N.「クノーの『文体練習』はワクワクする傑作だ。フランス分が中最高の短編小説集の一つだ。『ザジ』も好きだ。ビョートルは嫌いだ。

というやり取りも。
後ろの編集者への手紙で、ナボコフが、「どんな会議でも同席しません。 」とまで嫌っている作家・哲学者の名前 3 人上がっていて、それは、ラッセルとサルトルイリヤ・エレンブルグだ。(イリヤ・エレンブルグは知らなかった。ナボコフの翻訳もした小笠原豊樹も訳してみたいだ。でも絶版ばっかだ。)ナボコフは、フロイトドストエフスキーは結構読んでそうだけど、サルトルは何読んで嫌いになったのかな? と思った。ラッセルは何を読んだんだろう? 『郊外の悪魔』と『有名人の悪夢』くらいしか小説はないかな?

ナボコフの人生観や文学観に関する質問は、「神の存在を信じますか? 」とか「人生の意味は? 」とかちょっといきなり聞くのはどうかと思う質問がいきなり尋ねられてるのもあったけど、面白いのも多い。
 1962年の冒頭にインタビュー。(インタビューアーに関する情報は失われてしまったらしい。)

-お好きなものとお嫌いなものは? 

V.N. 僕の嫌いなものは簡単だ。愚かさ、外科手術、犯罪、残酷さ、ソフト・ミュージック。僕の楽しみは、人間に知られている最も強烈な楽しみだ。即ち、執筆と蝶の採集だ。

 別のインタビューではこれを踏まえてこんなやり取りが。

-人間のする最低の行為はなんでしょう?
V.N. 鼻持ちならない態度、騙すこと、拷問。
-では、最高は?
V.N. 親切であること、誇り高いこと、恐れを知らないこと。

あと、ナボコフは、音楽が苦手と書いていたが、三島由紀夫も同じようなことを『小説家の休暇』で書いていたのを思い出した。でも二人とも『音楽』ってタイトル(ナボコフは"music")で小説書いてるのがおかしい。

ナボコフの自作への質問としてはこんなのが印象的。

-後世に残す仕事をひつつ選ぶとすれば? 
V.N. 今書いている仕事か書きたいと思ってる仕事と言いたいところだが、『ロリータ』と『エフゲニー・オネーギン』についての仕事といっておくかな。

 ナボコフの注釈つき『エフゲニー・オネーギン』英訳は、4巻本で各巻500ページに及ぶ大作らしいので、とても読みきる自信はないが、挑戦くらいはしてみたい。

 ナボコフインタビューの雰囲気が出てると思うので、"Strong Opinions"の最初の短めのインタビューの一部を訳した。(誤訳なども多かろうと思いますので、ご指摘くだされば幸いです。)

V. ナボコフ, "Strong Opinions" から 1962,6,5 のインタビュー

-インタビュアーたちは、あなたを掴みどころのない人物だと考えています。どうしてですか?

V.N. 僕は自分が公的な主張を一切持たない人間であることを誇りに思っている。今までの人生で酔っぱらったことは一度もないし、男子生徒たちが使う四文字言葉子使ったことも一度もない。事務所や炭鉱で働いたこともない。クラブや集団に属したこともない。どんな宗派や学派にも一切影響を受けたことはない。政治小説と社会的な目的をもった小説ほど僕を退屈させるものはない。

-それでもあなたを感動させるものはありますよね。-お好きなものとお嫌いなものが。

V.N. 僕の嫌いなものは簡単だ。愚かさ、外科手術、犯罪、残酷さ、ソフト・ミュージック。僕の楽しみは、人間に知られている最も強烈な楽しみだ。即ち、執筆と蝶の採集だ。

-手書きで書いておられるのですよね。

V.N. うん。僕はタイプはできない。

-もしよろしければ、草稿を少しお見せ願えますか?

V.N. 悪いけど、お断り。書きかけの原稿を見せるなんて受け狙いの俗物か、心やさしい二流作家のやることだよ。そんなことするのは自分のタンを見せて回るようなものだ。

-新刊小説はお読みになりますか? なんでお笑いになるんです? 

V.N. 僕が笑ったのは、おせっかいな出版社が新作をいつも送りつけてくるからだよ。-「私ドモ同様、アナタモコノ作品ガオ気ニ召シマスデショウ」手紙を添えてね。-しかも全部同じような小説なんだ。猥褻なシーンがあって、気取った単語を使った奇妙なつもりの事件が起きる小説。全部同じ奴が書いたんじゃないかと思うよ。-そいつは、僕の影の影ですらない。

-フランスのいわゆる「アンチ・ロマン」についてご意見をお聞かせください。

V.N. 僕は、文筆に限らずグループやら学派やらなんてのには興味がない。僕が興味を持つのはひとりひとりの作家に対してだ。そんな「アンチ・ロマン」なんてのは実際には存在しやしないんだ。ロブ・グリエという偉大なフランス語作家がいるだけ。あとは三文文士どもが彼の作品のまがい物を作ってるだけだよ。

-「えー」とか「あー」が非常に多いですね。お歳のせいでしょうか? 

V.N. 違うよ。話が下手なのは昔からだ。僕の語彙は、精神の奥深くに潜んでいてそれを引き揚げて物理的な状態に定着させることができるのは紙の上だけなんだ。得意即妙の応答なんて僕には奇跡に見えるよ。これまで出版した本も一語一語何度も書き直したんだ。僕の場合、鉛筆の方が消しゴムより長持ちするんだ。

-でもあなたはだいぶ長く教壇にたっておられましたね? 

V.N. 1940 年、アメリカで大学人としてのキャリアをはじめる前に、運のいいことに、僕はロシア文学について100回分の講義-約2,000ページを苦労して書いたんだ。その後、ジェーン・オースティンからジェイムズ・ジョイスまでの偉大な作家たちについての100回文の講義を別に書いた。これらのおかげで、僕はウェルシーとコーネルでの20年間の大学生活を幸せに過ごしたよ。教壇で僕は、ちらちら目を上げたり下げたりしていたけど、目敏い学生たちも僕が読んだいるんであって、話してるんじゃないとは全く気付いてなかったよ。

-英語で執筆をはじめたのはいつからですか? 

V.N. ごく幼い時から僕は、バイリンガルだったし(ロシア語と英語)、五歳のときにはフランス語を付け加えた。少年時代には採集した蝶について、最も素晴らしい雑誌『昆虫学』で識ったいろいろな専門用語を使ってつけていたノートは全部英語で書いていた。1920年、その雑誌に僕の最初の論文(クリミア産の蝶に関するもの)が出版された。同じ年に僕は、ケンブリッジのトリニティ・マガジンに英語の詩を寄稿していた。そのとき僕はそこの学生だったんだ(1919-1922)その後、ベルリンとパリで僕はロシア語の本―詩集、短編集、8冊の長編小説を書いた。僕の作品は300万のロシア人亡命者のいくらかが読んだが、勿論、ソビエト・ロシアでは、完全に禁止され無視された。30年代の中ごろ、二冊のロシア語小説『絶望』と『カメラ・オブスクーラ』(アメリカでは、『闇の中の笑い』と改題された[英訳を基にした篠田一士のタイトルは『マルゴ』。])を英語に翻訳して出版した。僕が最初から英語で書いた小説は『セバスチャンナイトの真実の生涯』で1939年にパリで書いた。1940年にアメリカに移ってからは、「アトランティク」と「ニューヨーカ」に詩と短編小説を寄稿し、4冊の長編小説-『ベンドシニスター』(1947)、『ロリータ』(1955)、『プニン』(1957)、『青白い炎』(1962)を書いた。それから、自伝『記憶よ、語れ』(1951)と蝶の分類学に関する科学論文もいくつか発表している。

-『ロリータ』についてお話していただけますか? 

V.N. う~ん、お断り。いいたいことはアメリカ版と英国版に付けた後書きで全部言ってしまった。

-『ロリータ』の脚本を書く上で大変なことはありましたか? 

V.N. 思い切ってやって見ようと思うこと―この仕事を引き受けようと決心することが一番大変だった。1959年にハリスとキューブリックが僕をハリウッドに招待したんだ。だけど何回か話し合って、この仕事はやりたくないと決心した。一年経って、ルガノにいるときに、その決心をひるがえすようにうながす電報を彼らが送ってきた。その間に、僕の頭の中で脚本のようなものが形になろうとしていたので、彼らがまた連絡してきてくれて良かったよ。僕はもう一回、ハリウッドに言って、六ヶ月間その仕事をした。小説を映画脚本に直すのは、とっくの昔に完成した絵画のスケッチ集を作るようなものだ。新しいシーンやセリフをつけたして映画『ロリータ』が僕にとって許容範囲になるように努力した。僕が書かなければ、誰かが脚本を書くのは分かっていたし、そうなればせいぜい解釈の衝突以上ごった煮以下の代物になるのは分かっていた。まだ映画は見ていない。脚本執筆中に、7回か8回、キューブリックと話し合ったが、彼は芸術家だなという印象を受けた。僕が、ニューヨークで6月13日に『ロリータ』を見たいと思うのもこの印象ゆえだ。

-今は、どんなお仕事に取り組んでおられるのですか? 

V.N. プーシキンの『エフゲニー・オネーギン』の翻訳の攻勢を読んでいるところだ。これは、韻文で書かれた小説で、たっぷりの注釈を付けてボーリンゲン出版から立派な四巻本で出ることになっている。それぞれ500ページ以上あるんだ。

-お仕事を詳しくご説明頂けますか? 

V.N. コーネルでもどこでも文学を教えている間、僕は生徒たちに科学の情熱と詩の忍耐を求めた。芸術家兼科学者として、僕は一般よりも特殊な細部を、思想よりもイメージを、明々白々な象徴よりもあいまいな事実を、合成ジャムよりも新発見の野生の果実を優先する。

-あなたのお仕事は果実であると? 

V.N. そう。僕の美意識と嫌悪感は、10年にわたる『エフゲニー・オネーギン』についての仕事に現れている。5500行の英訳に当たって、僕は、韻か意味か(between rhyme and reason)という選択を迫られた。-僕は意味を選んだんだ。

-インタビューを受けるのはお好きですか? 

V.N. え~と、あるテーマ―彼自身―について話させるという贅沢は、軽蔑すべきでない感覚だ。でも、その結果に困惑させられることはある。最近では、パリのカンダイド紙では、僕は馬鹿げた設定で訳の分からないことをペラペラしゃべっている事になっている。でも、ときにはフェアープレイに会ったこともある。エスクカイワーでは、インタビューについて僕が見つけた間違いについての修正を全部印刷してくれた。ゴシップ・ライター達のいってるを追いかけるのはとても難しいし、奴らはすごくいいかげんだ。レナード・リオンに、なんでぼくが映画関係の事務処理を妻に任せているかをこんな風に説明したよ。「肉屋の主人の対応が出来れば、プロデューサー対応も出来る。」

 ゴシップ的なところにばっかり興味が言って、申し訳ないです。

ナボコフ高評価の作品たち。

ジョン・チーバー「郊外住まい」

現代アメリカ短編選集〈第2〉 (1970年)

現代アメリカ短編選集〈第2〉 (1970年)


ジョン・アップダイク「いちばん幸福だったとき」
現代アメリカ短編選集〈第3〉 (1970年)

現代アメリカ短編選集〈第3〉 (1970年)


J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日
ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)


ジョン・バースビックリハウスの迷子」
アメリカ短篇24 (現代の世界文学)

アメリカ短篇24 (現代の世界文学)


デルモア・シュワルツ「夢の中で責任がはじまる」