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わが忘れなば

備忘録の意味で。タイトルは小沢信男の小説から。

”政治家”昭和天皇の政治的意思と能力―”立憲君主”の”戦争責任”

 前回の記事について、twitter上で Kodama Shigeaki( @takosantaro )さんに永井和『青年君主昭和天皇と元老西園寺』(京都大学学術出版会,2003)とApeman さんのブログ記事を、また id:Apeman さんからもコメント欄にて、Apeman さんのブログ記事における永井和教授のコメントを御紹介いただいた。

青年君主昭和天皇と元老西園寺

青年君主昭和天皇と元老西園寺

http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20071228/p1#c1199811091
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20071228/p1#c1199941575
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20071228/p1#c1199964127
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20071228/p1#c1200242102
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20100505/p1#c1273038435

 Kodama さん、Apeman さん、どうもありがとうございます。

 それと、はてなブログの調子がおかしいのか、ぼくが変な操作をしたのか、Apeman さんに頂いた二つ目のコメントがどうしても表示されないので、ここに転記させていただきます。

追記です。『青年君主昭和天皇と元老西園寺』について言及したエントリを書いたことがありましたので、手前味噌ですが URL 貼らせていただきます。
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20100505/p1

 前回の記事で、感想として挙げたぼくの疑問点は次のようなものだった。(やや文意不明確なところがあったので、修正して再掲)

  1. 牧野は、西園寺の変心(と牧野が感じたもの)を天皇や鈴木侍従長に正しく伝えなかったのか。
  2. 西園寺が天皇を叱ったというのは、『独白録』の記述などからの半藤の想像のようだがどの程度妥当性があるのか。
  3. 西園寺や天皇も一見陸軍の侵略性に反対しているが、犯人と処分を国際的に公にする気が最初からないのでは、自国の侵略性への批判とはとても言えないので、どれほど評価できるのか。
  4. 半藤は、陸軍軍人には厳しいが、天皇に対しては印象が良くなるような解釈をしていないか? (陸軍の横暴を天皇が止めようとして天晴れ、でも陸軍にビビった西園寺に止められ、その後は自分の意思表示が抑えられた、というイメージにもっていっていないか?)
  5. 自分の意思で自分の権力を制限できる立憲君主って何? 立憲君主って言えるの? (この件で天皇が議会の批判を受けたとか、法的に処分されたとかなら分かりますが)

 最後の疑問は、自分の意思で自分の権力を制限できるなら、それじゃ結局、絶対権力者なんじゃないか、という含み。勿論、絶対権力者でもただのお飾りでもなく、条件がそろったときに権力が発動するんだという意見もあるかもしれませんが、それならそのような権力が発動するメカニズムなり条件なりを知りたい。

 ご教示いただいた記事やコメントで理解の深まるところ(田中義一内閣倒閣工作の経緯)と知らなかった問題(”立憲君主観”と”戦争責任”の関係)があったので、出来る範囲でまとめてみたい。

 まず、Apeman さんのコメント欄でのご教授と永井和『青年君主昭和天皇と元老西園寺』の第四章をもとに前回記事の1929年5月6日から7月2日までの宮中グループ(昭和天皇、内大臣牧野伸顕、侍従長鈴木貫太郎)の田中義一倒閣に至る経緯について、牧野と西園寺の動きとその中での彼らの思惑を中心に補足したい。

 張作霖爆殺事件から牧野ら宮中グループが田中義一に不信を抱いて倒閣に動きだすまでの経緯については前回記事の該当部分を参照していただきたい。

 5月6日の西園寺・牧野会談で、西園寺が牧野に天皇が直接田中を問責することに許可を与えた件だが、これについて永井は次のように述べている。

牧野は西園寺も天皇の不信任表明に同意したものと解したのだが、そう解釈するのも無理はないように思える。しかし、西園寺は、天皇が田中に不信任を表明する前にその是非を元老である自分に再度下問するものと想定して、右の様に答えたのだが、牧野は必ずしもそうとは受け取らなかった。その後の展開からすると、元老への下問なしに、天皇が直接不信任を表明してもよいと受け取ったのである。

(p.313)

 さらに牧野が西園寺の変心(たぶん牧野の誤解)と受け取った6月25日の西園寺・牧野会談については次のように書いている。

 ところが牧野の予想に相違して、西園寺は天皇の問責発言に異をとなえた。すなわち「明治天皇御時代より未だ曾て其例なく、総理大臣の進退に直接関係すべしとて反対の意向を主張」したのであった。五月六日の会談で西園寺の同意を得たものとばかり思い込んでいた牧野は「余りの意外に呆然自失の思いをなし、驚愕を禁ずる能はず」と、あまりの意外さに色を失った。すでに昭和天皇にも奉答し、元老の賛成も確認済みと伝えていたのだから、今頃になって西園寺から反対されたのでは、呆然自失におちいるのも無理はない。牧野は自分の苦しい立場を説明して、西園寺に再考を求めたが、牧野を気の毒には思いつつも、西園寺はその考えを改めなかった。天皇の問責発言の可否およびそのタイミングについて、元老と内大臣の間に重要な意見の食い違いのあることが判明したのである。
 西園寺の反対の理由は、言うまでもなく、天皇が田中に直接不信任を表明して内閣総辞職となれば、不答責であるはずの天皇を政治的責任の場にあらわに登場させることになり、その危険を恐れたからであった。

(pp.321)

 西園寺は、「陛下の御行動により内閣を左右することなるは恐懼に堪へず」とおもって「心配で心配でその余は眠れなかった」そうだ。

 結局、6月27日に田中の上奏が行われるのだが、そのときの天皇の田中への対応について、永井は、天皇(や牧野・鈴木の宮中グループ)は西園寺の意を汲んで従来の予定より弱い、問責を避けた叱責をしたと解釈している。(この部分は、他の研究者たち、中園・粟屋・伊藤の見解とは異なる部分を含む永井独自のものだが、ぼくには納得できたので以下は永井の解釈に沿ってかく)

おそらく西園寺の意見を考慮した結果であろうが、内閣が奏請から上聞へと態度変更したのに合わせて、最初に予定したような露骨な問責発言(「責任を取るか」)は見合されることになったのである。そのかわりに、天皇は報告内容が前後矛盾していることを厳しく指摘し、さらにその処置の是非については判断を留保するとめいげんすることで、田中に対する不快感を表すことにしたのであった。
 私は、西園寺が牧野・一木に説得されたのではなくて、牧野ら宮中側近の方が西園寺の意見を容れて当初の方針を修正したのだと解釈する。

(p325-326)

 つまり、この時点では、まだ西園寺のコントロール通りに宮中グループは動いていた。西園寺の意図は、天皇の問責が元老の進言に沿ったものという形(=輔弼)を取ることで、昭和天皇の行動を彼の考える立憲君主としての範囲に収めておくことにあった。

 しかし、田中は天皇からはっきりした辞任を要求する言葉がなかったので、天皇の不興を買ったのはただ陸軍大臣白川の説明不足が原因だと考え、白川のところにねじ込んでいった。その夜、田中に怒鳴りこまれた白川は、侍従長の鈴木のもとへ行き、事情を尋ねた。鈴木は、白川に対し天皇の真意が田中に対する不信任であることを告げ、それを理解していない田中に対してその旨を告げるように依頼した。翌28日、鈴木は天皇に自分から田中に対して天皇の真意が不信任であることを伝える事の内諾を求め、天皇はこれを許した。鈴木は、既に白川に話していたのでこれは事後承諾のようなものだ。その後鈴木と牧野が相談し、田中に対して天皇の不信任を伝えることになった。

 結局、28日の白川の参内と陸軍の処理方針の報告後に、田中は鈴木から天皇の真意を伝えられた。既に、白川から伝えられていた田中は結局総辞職を決意した。

 永井の解釈によれば、宮中グループが西園寺のコントロールを離れ、「倒閣工作」を行ったと言えるのは、白川の鈴木訪問以後だそうだ。西園寺としては、田中内閣を倒閣に追い込むのは自分への下問を経た後でという形を取りたかったようだ。

 以上が、宮中グループによる「倒閣工作」の経緯である。西園寺は下問が来る事を待っていたので、この自分を排除した倒閣工作に強い不満を感じていたようだ。岡部内大臣秘書や小川平吉に不満を述べたことが、また田中にも「陰謀」だと語った事が間接的(原法相)に伝わっているそうだ。

 しかし、牧野に対しては面と向かって不満を述べた形跡は牧野の日記には残っていないし、鈴木が天皇に内諾を得たことも知らなかったようなので、半藤の想像のように「天皇を叱った」かどうかはあやしいなというのがぼくの感想だ。

 次に、天皇が立憲君主であったのかもっと強力な君主であったのかという疑問について考えたい。実は、前回の記事を書いた段階では、立憲君主というのを”お飾りの意味しかない国政には携わらない君主”程度に考えていた。イギリスなどでは、市民革命や人民の権利意識の覚醒の結果、徐々に権力を奪われていって成立したもの、日本では、そもそも何の実権もなかった”玉”を藩閥政府の正当化のために意識的に”お飾り”として担ぎ出したもの(小沢一郎風に言えば、”神輿”を担いだ)ぐらいの認識だった。(勿論、昭和天皇が、この件を含めちょいちょい政治に口を出していたとは認識していたので、まあ、立憲君主じゃないんだ、少なくとも実質においてはと思っていた。)
 
 しかし、永井和によると、”立憲君主”とうのはもうちょっとややこしい多義的な概念なのだそうだ。

さらに言いますと、じつは昭和天皇がもっとも「立憲君主としてふるまっていた」かのようにみえる「政党政治の時代」(田中内閣、浜口内閣)こそ、じつは昭和天皇が政治に口出しを頻繁にしていた時代にほかならなかったということが、昭和天皇死後に研究によって明らかとなりました。

 その結果、じつは「政党政治の時代」の昭和天皇は「立憲君主」ではなくて「絶対君主」あるいは「大権君主」であったという説と、「いやいや「政治や軍事について積極的に口出しせずに、責任ある臣下の処置に任せる」のが「立憲君主」だという解釈そのものが、もともとおかしいのであって、イギリスの場合でも国王は積極的に政治に口を出していた。だから、この時期の昭和天皇の場合も「立憲君主」とみて何等問題でなく、むしれお(ママ、引用者注)従来の「立憲君主」概念そのもを変更すべきである」という学説とにわかれて(厳密に言えば、このまとめは不正確なのですが、わかりやくするため、あえて極論のかたちにしてあります)、結論がまだ出ていない状態なのです。

 それから、西園寺の「立憲君主モデル」ですが、これについても最近の研究では評価が分かれています。それは、満洲事変期に西園寺が、昭和天皇や牧野内大臣の御前会議論を終始却下しつづけた事実(これも最近になって再注目されました)の解釈をめぐってです。
 vagabondさんと同じように、昭和天皇や牧野は、御前会議を開いて軍部を統制しようとしたのであり、御前会議の開催は「立憲君主」としてふさわしくないという理由でそれを拒否した西園寺は、宮中が軍部と正面から対立するのを嫌らうあまり、絶好の機会を逃してしまったする説もあります。
 いっぽう、西園寺はあくまでも「政治や軍事について積極的に口出しせずに、責任ある臣下の処置に任せる」という「立憲君主」の原則を守ろうとしたのであり、それ自体はまちがっていないいう解釈も当然なりたちます。

 このように、「立憲君主」概念自体が多義的であり、これ以上学問的な議論を継続させるには、概念の再構築によって共通の土俵をつくることが求められているというのが、学界の現状だと、私は認識しています。(強調引用者)

(リンク先の永井和のコメントから)
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20071228/p1#c1199941575

 なるほど、天皇の政治活動の研究の深化によって、立憲君主の定義自体があやしくなってしまっていたのか。(あと、そもそもの立憲君主=”神輿”的な理解は、研究の深化と関係なく間違っていたみたい。下記コメント参照)因みに、永井の言っている「昭和天皇や牧野は、御前会議を開いて軍部を統制しようとしたのであり、御前会議の開催は『立憲君主』としてふさわしくないという理由でそれを拒否した西園寺は、宮中が軍部と正面から対立するのを嫌らうあまり、絶好の機会を逃してしまったする説」の支持者には、半藤も含まれるだろう。

 さらに、このように天皇の政治参加が明らかになって来た事によって、学者の間で”立憲君主”の概念が揺らぎだしてしまったのは、天皇の”戦争責任”をどう考えるかという議論と関係があるようだ。

(前略)

 つまり、昭和天皇の免責論は、戦前の体制は立憲君主制であったという体制解釈を土台にしており、しかも立憲君主はその統治権を実質的には行使せず、政府に委任するものであり、憲法の規定に忠実に政府の決定を君主が承認したのであれば、その行為は合憲的であって、責任を問うことはできないとの議論によって支えられており、立憲君主制、政府の決定を名目的に裁可するだけの受動的な君主、天皇不親政がそのキーワードだったわけです。
 それが昭和天皇の死去とその後の研究の展開により、「政府の決定を名目的に裁可するだけの受動的な君主」「天皇不親政」というキーワードが怪しくなってきたので、「立憲君主制」に対するそれまでのローカルな解釈が揺らぎだしたという現状であるわけです。

 それでもなお、「立憲君主制」論を維持するならば、昭和天皇の免責論を放棄して、

1.「昭和天皇が相当強力な政治的リーダーシップを発揮していたのであれば、たとえ大臣責任制がとられていても、やはり立憲君主として少なくとも政治的責任はあったとするべきである」

とするか、なおも免責論を維持して、

2.「昭和天皇は相当強力な政治的リーダーシップを発揮していたが、しかしそれでも立憲君主の範囲にはいるのだから、大臣の責任は問えても、君主の責任は問えない」

とするか、どちらをとるかという問題が生じます。つまり、立憲君主の政治的責任とは何か、いかなる場合に立憲君主は政治的責任を問われるのかということが、こんどは問題になってくるわけです。
(リンク先の永井和のコメントから)
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20071228/p1#c1199964127

 このコメントがなされてから現在までの間に、学者の間で立憲君主の概念やその政治責任を問える(あるいは問えない)条件に関して共通見解が定まったのかどうかまでは、ぼくはわかっていないが、少なくとも、このコメントの見解に歴史研究が現在もとどまっているのであれば、「天皇は立憲君主だったのだから政治責任不問」とか「天皇の行為は立憲君主を踏み出しているのだから、政治責任はある」とか、簡単に”立憲君主”という言葉は使った議論はできないな、という”怖さ”を感じた。

 うっかり機嫌の悪い歴史学者にでもそんなことを言ったら、「ほう、立憲君主ですか。それはどういう意味で言ってるんですか、○○先生の説ではこうなっていますが、××先生の説ではこうです。どんなときに立憲君主に政治責任を問えるとお考えで? (学界でも定説がないのになんで素人にそんなこがいえるのか)」ということになってしまいそう。。。(永井先生のような親切な方ならよいですが)

 個人的には、「1.『昭和天皇が相当強力な政治的リーダーシップを発揮していたのであれば、たとえ大臣責任制がとられていても、やはり立憲君主として少なくとも政治的責任はあったとするべきである』」は、最もすっきりした解釈になると思うのだが。。。。。。

 また、2にしても、昭和天皇の政治関与がすべて大臣の輔弼を受けたもの(つまり自発的なものでなくて、大臣やら元老やらが言いだしたことに裁可を与えたもの)でないと免責論は成り立たないのではないだろうか? その点、現在の研究から分かっている天皇の行動(特に戦争指導)に関してすべてこの条件が当てはまると言えるのだろうか、確認しておきたい。(この田中の件などは、輔弼の形を踏み出している可能性があると言っていいのだろう。)

 それはともかくとして、天皇の政治関与がますます明らかになってのに、逆にそれがきっかけで、免責論を護るため(かのよう)に”立憲君主”観が揺らぎだすのは納得がいかないの感もある。とはいえ、専門の学者の間で議論している事に、言葉尻を捕らえるような形で口を挟んでしまうのは、さすがに素人ブログの矩をこえてしまうのでここまでにします。

 でも、ぼくが問題にしたい天皇の責任は、まずは法的責任・政治的責任ではなく、主に倫理的責任だ。”立憲君主”という概念がなかなか扱いづらく、天皇の法的あるいは政治的な責任の議論の土台にはならないにしても、大日本帝国の指導的”政治家”の一人であった昭和天皇の抱いていた政治的意思と有していた政治的権力(行使しなかったものも含め)を具体的に知ることができれば、(その精度に応じて)十分、天皇の戦争責任のうちの倫理的責任を論じることができるのではないか。

 実際、ぼくがあるていどはっきり天皇の戦争責任を意識するようになったのも、『昭和天皇独白録』の秦郁彦と伊東隆らの論争的座談会や『徹底検証 昭和天皇独白録』での山田朗の報告などを読んで、昭和天皇が戦争指導においても重要な一パートを担っていたのを知ったからだ。やはり、具体的に分かることを詰めていかないと、考えは進まない。

 天皇がただのお飾りで、その発言は、松沢病院の芦原将軍の発言並みに扱われていたのなら、確かに天皇の政治責任は問うことができないと思うが、実際は、天皇が政治的な権力をもっていて時には自分の意志でそれを発揮することができたことは、この田中倒閣の件からだけでも間違いなく言えることだ。”立憲君主”観のはばによっては、輔弼を踏まえた行動なら、政治的責任を免れるのかもしれないが、倫理的責任は別に議論するべきだろう。

 ちょうど、山田朗の天皇の戦争指導について論じた研究書を読もうと思っていたので、今回教えていただいた視点も踏まえて、読めば、天皇の戦争責任についてももっと補強された形で意見を持てるかもしれない。読み終えたらまた記事にまとめてみたい。

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政治とカネ―海部俊樹回顧録 (新潮新書)

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