わが忘れなば

備忘録の意味で。タイトルは小沢信男の小説から。

高木貞治・岸信介・田村淳の「相手の名前を忘れたときに相手の気持ちを害さないで聞きだす方法」

こんな記事タイラー・コーエン 「相手の名前をド忘れした時の対処法」 — 経済学101を読んだんですが、

ごまかし方その1. 「ファーストネームでお呼びしたいんですが、そういうわけにもいかないようですので」:「(ファーストネームで)「デイヴィッド」とお呼びしたいといつも思っているのですが、やはりそれは(馴れ馴れしくて)ふさわしくないのではないかという思いも一方ではありまして・・・。」
(中略)
他にも、「フルネームは何でしたっけ? いや、論文を執筆する際に著者名はどうするのかと思いましてね。フルネームでいくのか、それともミドルネームは削るのかどうかと疑問に思いまして。」と尋ねてみたこともある。

これで思い出したのが、高木貞治岸信介・田村淳の使ってい(る/た)という「相手の名前を忘れたときに相手の気持ちを害さないで聞きだす方法」のエピソードです。
(はてなブックマーク - fromAmbertoZenのブックマーク / 2014年4月6日<-ここにも書きましたが、ここに書いたとき間違って岸信介のところを、田中角栄にしてしまいました。。。)

 これも雑談の折に高木先生から伺った話である。先生はつぎの意味のことを言われたことがある。
 「歳をとると、顔はよく憶えているが、どうしてもその人の名前を思い出せないことがときどき起こる。
 たとえば僕が矢野君の名前を忘れてしまったとしてみよう、そんなときには思い切って、
 『君名前はなんと言ったかね』
 ときくんだよ。そしたら矢野君は、
 『矢野です』
 と答えるだろう。そしたら、
 『矢野君はわかっているよ。名前はなんといったかね』
 とつけ加えるのだよ。すると矢野君は、
 『健太郎です』
 と答えるだろう。そしたら、
 『そうそう、矢野健太郎君だったね』
 と言えば、相手にそう失礼でなくてすむだろう」
 当時は、なるほどうまい手だなあと思って伺ったが、私もいまや、顔はよく知っているがその人の名前がどうしても頭に浮かんでこないことがしばしば起こるようになっている。
 そこで、高木先生のこの手をときどき思い出すのであるが、まだそれを実際に使ったことはない。貫禄の違いというものであろう。
(矢野健太郎『ゆかいな数学者たち』、新潮文庫、pp.24-25)

岸信介のは、野口悠紀雄のふた昔前のベストセラー『超勉強法』に書いてありましたが、今手元にないので、ネットで見つけたこちらの記事0169 『「超」勉強法』 : Namuraya Thinking Spaceから引用します。

私は、1964年に大蔵省に入った。当時の大蔵大臣は、就任2年目、弱冠46歳の田中角栄氏であった。20人の新入生が揃って大臣室に挨拶にゆく。田中大臣は、訓示のあと、20人の名前を一人ずつ呼んで握手した。ソラで呼んだのである。驚くべき記憶力であり、感嘆すべき人心収攬術であった。岸信介氏は、パーティなどで会う人に、よく「君の名前は?」と聞いたそうである。「野口です」と答えると、「それはわかっているよ、野口君。名字でなく名前を忘れてしまったのだよ」といったそうである。どちらもユニークだ。そして、どちらも常人には真似ができない。

田村淳も同じ方法を使っているとテレビで話してました(誰かに教わった方法として語ったか、自分で考えた方法として語ったかは覚えていませんが、高木貞治岸信介の名前は出てこなかったと記憶しています)。

世代と職種を超えた3人に共通するエピソードがあるのが面白かったです。

(しかし、こんな方法、ホントに使えるの? 単に話のネタなんじゃないかな? とも思いました。矢野健太郎も「貫禄の違い」で自分にはできないって、いってますし)

あと、さらに遡った別の人の同じようなエピソードとか他にありそうな気もします。

ゆかいな数学者たち (新潮文庫)

ゆかいな数学者たち (新潮文庫)