Future of Humanity Institute の閉鎖とボストロムのオックスフォード大学辞職
ニック・ボストロムが2005年に設立して所長を務めていたオックスフォード大哲学科の Future of Humanity Institute が2024年4月16日づけで閉鎖になったようだ。ボストロム自身ももうオックスフォード大に属していないようだ。(現在は、Macrostrategy Research Initiativeという機関の首席研究員という地位にあるようだ)
僕は、最初にエミール・トレス氏のtweetで知った。
The Future of Humanity Institute has shut down. I'm told that the discovery of Bostrom's racist email, and his shockingly bad "apology" for that email (even referencing social justice advocates as "bloodthirsty mosquitoes" on his website), played a bit part in this development. pic.twitter.com/gDQW8yAvz1
— Dr. Émile P. Torres (@xriskology) 2024年4月17日
Update: Bostrom isn't listed as a faculty member at Oxford anymore.https://t.co/qeCwl0tWv5 https://t.co/8o2ylB5cuj
— Dr. Émile P. Torres (@xriskology) 2024年4月18日
その後、ガーディアン紙にも記事が出ている。
誰もが、去年の「メール事件」の影響なのかと思うところであろう。
ただ、ボストロム自身が、自サイトに載せた「謝罪文」の2023年8月付の追記を真に受ければ、メールの件で研究所が廃止になるということはなさそうだ。
FHIの旧メンバーが作成していると思しきFHIの業績やヒストリーをまとめたサイトでは、以下のような説明が書かれている。
FHI が属する哲学科から研究所への風当たりは前からきつく、'20年からは人事が凍結され、'23年の遅くにはFHIのスタッフの契約を更新しないことが決定し、'24/4/16に研究所が閉鎖になったそうだ。
ちょうど、ボストロムは、Anthropic Bias(2002)、Superintelligence(2014)に続く新著Deep Utopia(2024)を出したタイミングであったので、びっくりだ。
追記(5/2)
ガーディアン紙に本件に関する記事がまた出ていた。Andrew Anthonyというジャーナリストの執筆でトレスにもインタビューしている。スクープ的な新事実にあたる内容はないようだが、FHI発の思想である「効果的利他主義」や「長期主義」を強化版の優生学とみなすタイトルなどトレスの主張にも沿った手厳しいまとめだ。FHIへの逆風としては、ボストロムのメール事件だけでなく、効果的利他主義の擁護者で、ボストロムやFHIとも関係の深いマッカスキルとも親しい起業家のサム・バックマン=フリードの逮捕('22)もあげている。
多様性か業績か-科学における「キャンセルカルチャー論争」(3)
以前、ウクライナ出身でアメリカで活動している理論化学の研究者 A. クリロフの「科学を政治化する危機」と言うオピニオンに端を発する 2021 年から 2022 年にかけての論争について2回に及んで紹介した。
「科学と政治が不可分なら、我々はただそのことを受け入れなければいけないのか、それとも積極的に政治は科学に介入すべきなのか」-「キャンセルカルチャー」論争続編 - わが忘れなば
簡単にまとめると、最近の科学界や大学への"左派イデオロギー"の侵食が「キャンセルカルチャー」を招いていると憂うるクリロフのエッセイが非常な注目と共感(学術誌の記事に対して 10 万超の view!)を集めたことに対して、サイエンスライターの P. ボールや理論化学の研究者である J. ハーバート(と共著者たち)が反発し、科学を政治から切り離すことができるかのように語ることの危うさや「キャンセルカルチャー」なる語彙の胡乱さに対して警鐘を鳴らした、と言うものだ。
この間に、このイデオロギーと科学をめぐる論争に新たな展開があったのでしつこく紹介したい。
まずは、ハーバートが2023年2月に単独でこの論争というかそれを含む最近の潮流にに対して、総決算的な長編論文を発表した。*1「大学における表現の自由なのか、それとも右翼の恨み節なのか? "Academic free speech or right-wing grievance?"」と題された論文は、なんと参照文献が 700 超にも及ぶ一大巨編だ。
論調としては、既発の共著論文と同工の部分も多いのだが、目につくのはアカデミアにおける多様性への攻撃の背景には白人至上主義(人種差別)・女性差別・トランスフォビアの三つの要素があると批判している点と業績主義(meritcracy)の欺瞞をついているところであると考える。
この少し後 4月末日に、クリロフを責任著者とする著名な科学者・言論人 29 名が、「科学における業績の擁護 In Defence of Merit in Science」という論文を発表した*2。(以下、「業績論文」)この論文が発表された雑誌自体が、すでに話題含みで、Journal of Contraversial Ideas という他では出せない物議をかもしかねないアイデアを発表する場所を設けましょうというコンセプトでピーター・シンガーを含む哲学者が運営している雑誌(第3号)だ。
merit や meritocracy という語句は、「能力」、「能力主義」という訳語が選ばれることが多いように思うが、マイケル・サンデル『実力も運のうち』の本田由紀の解説によると、「功績」という訳語が適切だそうだ。ここでは、日本語の学術の世界では、「功績」に当てはまる言葉として「業績」という語がよく使われると思うので、「業績」にした。
この雑誌、過去の号にはデイヴィッド・ベネターなどの有名な人物も投稿していた。パッと目次を見た印象としては、ジェンダーに関するものが多く、他にも科学の道徳化を批判する論文など確かに物議をかもしそうな感じだ。ベネターは、ウクライナ侵攻で男性のみが出国を禁じられるのは、男性差別であるという op-ed を、他のメディアで掲載拒否されてここに出したようだ。雑誌のコンセプトページを見たら、雑誌の名前は、controverial だけど、ここの議論は unpolemical だと書かれていた。ここでいうポレミックって、「為にする議論」みたいなニュアンスかね? (JCI 誌の意義というかカラーについては、id:DavitRice さんの記事にも言及がある。*3)
そして今回の「業績論文」だが、著者グループの内訳がなかなかの壮観である。まず、D. Shechtman と A. Warshel は、ノーベル化学賞の受賞者。さらに、統計的因果推論で有名な J. パールの名前もある。ここら辺は、学問の世界におけるスーパービッグネームなわけだが、シカゴ大の D. アボットは、もう少し違う理由で有名なようだ。アボットは、地球惑星科学の研究者だが、その発言をめぐって抗議がおき MIT での招待レクチャーが中止になるという事件が起きたことがある。これは、ハーバードの前述の単著論文でもいわゆる「キャンセルカルチャー」とされる事件の例として挙がっていた。さらに「不満研究」事件という偽論文で学術誌の編集を騙せるか試すというイタズラを『「社会正義」はいつも正しい』の著者たちと企画した P. ボゴシアンも著者に入っている。J. A. Coyne は、進化生物学者で新無神論の論客。おそれを知らない活発な議論提起をブログや著作で行っている。スーパービッグネームと剣呑な書き手や論客の同舟した論文だ。その他の著者たちについても簡単なバックグラウンドの紹介が論文の supplemet に載っている。(上記のように分野の多様性は相当だが、なんとなく理論化学が多めなのは、クリロフの人脈で著者を募ったからかもしれないと思った)
ちなみに、Coyne の著作では、『進化のなぜを解明する』という邦訳がある。また、「キャンセルカルチャー」関連では、インタビュー記事が日本語訳*4されていて、それに関する春日匠さんの一連の批判的な投稿*5がある。
今回は、時系列は前後するが、まずは「業績論文」の内容を紹介したのちに、これへのメディアや言論人の反応をまとめた上で、ハーバートの論文を紹介してみたい。
「業績論文」の趣旨を一言で要約すれば、多様性を重視するイデオロギーがアカデミアを支配しているために、科学の健全性が脅かされている、これを打破するためには科学の中核的な価値評価基準として「業績」を採用しなければならないということだ。さらにいうと、アカデミアを支配しているイデオロギーとは、「ポストモダニズム(postmordenism)」と「批判理論(critical theory)」であり、科学の健全性とは、R. マートンの言うような科学者集団の持つエートス、いわゆる CUDOS に担保されているものなのに、彼らの言う「ポストモダニズム」と「批判理論」は、客観的な真実の存在を否定し、CUDOSを攻撃することで、科学を危うくしている。CUDOS については、過去の記事でも言及したが、共有性(科学的知識は公共善である)、普遍性(科学的な結果の精査には科学者本人の人種や性別などが影響してはいけない)、利害の超越(科学者は個人的な利益のために研究を行うのではなく真理の追求のために行う)、系統的懐疑主義(結果が受け入れられる前に検証されなくてはならない)のことを言う。
CUDOS への言及は、クリロフの2021年の論文(オピニオン記事)の時からあったのだが、その際は wikipedia を出典にして言及していたのをボールに突っ込まれていたが、今回の論文では、マートンの『社会理論と社会構造』に言及している。
そして、「ポストモダン」や「批判理論」による学術や科学教育への攻撃とは、例えば男性や白人などマジョリティとされる集団が就職で不利になったり、脱植民地主義と称して薬学部で非ヨーロッパ由来の標準的でない民間医学のようなものがカリキュラムに組み込まれたりすることを指している。また、Science や Nature などの主要な学術誌がこれらのイデオロギーに侵食された特集を次々に組んで、「科学は植民地主義だ」とか「科学は人種差別だ」とか「業績ベースの評価ではなく、アイデンティティベースの評価を導入せよ」とか間違った方向に科学を導いていると批判する。著者たちに言わせれば、植民地主義だとか人種差別だとかはほとんど解決した過去の事柄であり、今更ポリシーとして科学に介入しようという筋合いではない、と主張する。(その証拠に、29 人の著者たちの中には、人種的マイノリティや女性も含まれているが、それぞれ業績を上げたために、十分な地位を築いている!と主張している)
ともあれ科学および科学者の評価軸として「業績」、それも数値化可能な定量的な「業績」を持ってくることが必要である。もちろん、業績主義や業績の数値化には弊害もあることは承知している。(分野が違えば評価が変わるとか、さして優れていない論文を大量生産した科学者と優れた論文を一報だけ書いた科学者をどう比較するのか、とか...)しかしながら、欠陥はあるといえども、業績による評価が最もマシなものであるのも確かなのである。
ちなみに著者たちは自分たちの立場を「リベラル」と呼び、ジョナサン・ローチやトーマス・ソーウェルといった評論家・学者を参照している。
以上がおおよその「業績論文」の主張だ。
これに対する大方の反応なのだが、実は下記のようなこの論文を広報するためのサイトができていて(多分、書き振りからして著者たちが作ったのだと思うが、明示的なクレジットは出ていないような...?)出版直後からこの論文に対する反応が集められている。
例えば、リチャード・ドーキンスは下記のように強く賛意を評している。
Preeminent scientists are sounding the alarm that ideology is undermining merit in the sciences. I strongly support them. https://t.co/daJ63wWYkp
— Richard Dawkins (@RichardDawkins) 2023年4月28日
この他にも、サイトを見ると、業績論文への賛意が多く集まっていて簡単に参照できるので、以下ではこのサイトに載っていなかった反応を紹介したい。
まず、科学哲学者の L. K. Bright は、業績論文へのポコジアンの寄与について以下のように推測している。
In Defence of Merit in Science from the latest JCI (https://t.co/RxQA5XG5cB). It's a big collaborative piece and one of the authors is Peter Boghossian. I strongly suspect he's behind this bit pictured, since I think it reiterates his previous error (https://t.co/vPMer0iet9). pic.twitter.com/gltljaZbtm
— Liam Bright (@lastpositivist) 2023年4月28日
さらに、Science のエディター・ブログでは、この論文に関係して多様性を擁護する側からの意見が載っていた。曰く、科学は属人的でないから科学者のバックグラウンドと科学的な議論は関係しない(ので、多様性を目的とした雇用方針などを行わず、業績で評価すべし)的な意見に対して、実際の歴史を見れば、科学者のバックグラウンドがバイアスになってしまったことは多々あり、多様性を確保することでバイアスを補正することができる、と短く反論していた。(ちなみに著者で、Science の編集長(editor-in-chief)であるホールデン・ソープは、業績論文で名前を挙げて批判されていた)
https://www.science.org/content/blog-post/it-matters-who-does-science
この Science のブログに対しては、Coyne がブログで反論するという展開*6もあり、物議を醸すことを厭わない方針の JCI 誌の論文の中でも今までで一番盛り上がった論文がまさにこれなのではないか?
業績論文は、最初 PNAS つまり米国科学アカデミー紀要というメインストリームの一流雑誌に投稿して拒否されたものを JCI 誌にあらためて投稿し、査読を経て掲載されたのだそうだ。他誌では読めない論説が読めるという JCI 誌の存在意義が発揮されたわけだ... (ベネターの op-ed や業績論文の次の巻に載ったアラン・ソーカルの論文も他誌での拒絶をへて、JCI 誌に掲載されたものだ)
少し長くなってしまったので、ハーバートの2023年2月の論文「大学における表現の自由なのか、それとも右翼の恨み節なのか? "Academic free speech or right-wing grievance?"」の紹介は次の記事で行いたい。
先にも述べたが、ハーバートの指摘は、アカデミアにおける多様性への批判の背後には、白人至上主義・女性差別・トランスフォビアがあると言うこと、業績主義の欺瞞をついているところであると考える。
*1:Academic free speech or right-wing grievance? - Digital Discovery (RSC Publishing)
*2:In Defense of Merit in Science
*3:ピーター・シンガーによる「言論の自由」論 - 道徳的動物日記
*4:遺伝も性別もタブー… 進化生物学者が危惧する「左派からの科学への攻撃」 | ダーウィンもメンデルも“キャンセル”されてしまうのか | クーリエ・ジャポン
*5:https://twitter.com/skasuga/status/1670332282547363840
*6:Holden Thorp, editor of Science, goes after our merit paper – Why Evolution Is True
ニック・ボストロムの「昔のメール」事件
今年一月の半ば、オックスフォード大学の哲学者ニック・ボストロムが、過去に書いた差別的なメールについて突然謝罪を発表するという騒動があった。ボストロムは、人間原理や人類の存亡リスクなどに関する研究で有名な人物で、このブログでも何度か取り上げたことがあったので、この騒動には注目していた。騒動から一ヶ月程度経った時点で、とりあえず報道や記事も一通り出て、その後もすぐには大きな動きも出そうもないので、今更ながら目に止まったことをメモとしてまとめてみたい。
ボストロムは、著書の一つ『スーパーインテリジェンス』は日本語にも翻訳されている。また、日本語の著作では三浦俊彦『多宇宙と輪廻転生』や稲葉振一郎『宇宙倫理学入門』ではボストロムの言説が紙幅をさいて論じられていた。
今回のボストロムの差別メール謝罪騒動に関しては、以下の記事が経緯からボストロムが代表的な論客の一人と目されている「効果的利他主義 Effective Alturism(EA)」や「ロングターミズム」の含意への批判も含めて一番読み応えがあった。
“Nick Bostrom, Longtermism, and the Eternal Return of Eugenics”
ニック・ボストロムが、ロンドン大学(LSE) の院生時代('96)に今でいう transhumanism の人が集まるメーリングリストに「攻撃的な議論の仕方の効用」のようなお題について出したメールについて差別的なものであったと謝罪する文章を発表したのが、1月12日。それをボストロムの盟友 Anders Sandberg が、 twitter に流し(ボストロムはアクティブな twitter アカウントを持っていない)、一般の人やネットメディアに知られたというのが経緯だ。
メールの内容が、おそらく多くの人の予想を上回るくらい悪質であったこと(人種によって知能が劣るという内容を科学的な事実であるかのように述べ、その「事実」が次のように受け取られるとして「Nワード」を含む表現をしている)に加え、謝罪の内容が明示的に差別的な内容を否定するものでなかったことなどや自サイトに挑発的な文言を出したりしたことなど誠意を疑われることもあって、非難を集めた。
元のメールへのリンク https://extropians.weidai.com/extropians.96/0441.html とボストロムの謝罪文へのリンク https://nickbostrom.com/oldemail.pdf を載せておく。
ボストロムの唐突の謝罪は、誰かが過去のメールを引っ張り出そうとしていると風の便りで聞いたので... ということのようだけど、その誰かというのが、この “Nick Bostrom, Longtermism, and the Eternal Return of Eugenics” という記事の著者その人だそうだ。
著者のエミール・トレス氏は、ドイツ出身の哲学者で 2019 年くらいまではロングターミズムに共感するところもあったようだけど、現在は salon などにロングターミズムを批判する記事を書いて批判側に立っている。今回は過去のメールを発見(多分そもそも公開されていた)し、この内容がボストロムのもので間違いないかボストロム周辺の人々に確認していたら、本人にも伝わって先手を打って謝罪文の公開になったようだ。
記事では、メールの内容と謝罪についてだけでなく、ロングターミズムや効果的利他主義の優生主義や障害者差別につながりうる含意を批判している。
EA の代表論者 William MacAskill の新著に新無神論のサム・ハリスが推薦文を寄せているそうだけど、サム・ハリスは、まさに Bell Curve (1994) の著者 Charles Murray を podcast で賞賛したそうで、EA と優生主義の結びつきを批判している。
その他に、障害学の研究から今回の事態およびロングターミニズムについて批判を行なった記事などもあった。
反PC本の歴史
時ならぬ反PC本の翻訳ラッシュによって、反PC本というか、アンチ・ポストモダン本、アンチ・フェミニズム本の系譜が気になった。某所で見たリストに自分で何冊か付け加えてみた。(読んだ本のリストではないですよ、為念。本の preface や書評を読んでピックアップしています)
[この項、ちょっとづつ増強していきます]
- Alan Bloom, "The Closing of the American Mind: How Higher Education Has Failed Democracy and Impoverished the Souls of Today's Students" (1987)『アメリカン・マインドの終焉:文化と教育の危機』菅野盾樹訳(1988)
- Roger Kimball, "Tenured Radicals: How Politics Has Corrupted Our Higher Education"(1990)
- Dinesh D'Souza, "Illiberal Education: The Politics of Race and Sex on Campus" (1991)
- Gertrude Himmelfarb, "On Looking into the Abyss: Untimely Thoughts on Culture and Society" (1994)
- Paul Gross & Norman Levitt, "Higher Superstition: The Academic Left and Its Quarrels with Science" (1994)
- Alan Sokal & Jean Bricmont, "Fashionable Nonsense: Postmodern Intellectuals' Abuse of Science" (1997)『「知」の欺瞞:ポストモダン思想における科学の濫用』田崎晴明, 大野克嗣, 堀茂樹訳 (2000)
- Alan C. Kors & Harvey A. Silverglate, "The Shadow University: The Betrayal of Liberty on America's Campuses" (1998)
- Joanna Williams, "Academic Freedom in an Age of Conformity: Confronting the Fear of Knowledge" (2016)
- Greg Lukianoff & Jonathan Haidt, "The Coddling of the American Mind: How Good Intentions and Bad Ideas Are Setting Up a Generation for Failure" (2018) 『傷つきやすいアメリカの大学生たち:大学と若者をダメにする「善意」と「誤った信念」の正体』西川由紀子 訳 (2022)
- Helen Pluckrose & James Lindsay, "Cynical Theories: How Activist Scholarship Made Everything About Race, Gender, and Identity and Why This Harms Everybody" (2020) 『「社会正義」はいつも正しい:人種、ジェンダー、アイデンティティにまつわる捏造のすべて』 山形浩生, 森本正史訳 (2022)
反PC本/アンチ・フェミニズム本とまとめてしまうと、Sokal & Bricmont が当てはまらないかなあ。主にアメリカの知識人が、ヨーロッパ(主にフランス)の哲学・社会学の影響を批判した本と言っても良いかも(Bricmont はベルギー人)。あと、ある程度大学とか高等教育が話題になっていることも条件かも。世代論・若者批判的な側面も。だが、そうなると、Sokal & Bricmont などはやっぱり当てはまらない。けど、アンチポストモダン本としては、外したくない。
哲学や社会学が専門でない学者もしくは、アマチュア的な書き手も多い(Paul Gross は生物学者、Norman Levitt と James Lindsay は数学者、Alan Sokal と Jean Bricmont は物理学者)。またこの本が第一作、もしくは初めての話題になった本というケースも多い。
タイトルだけ見ても、Bloom(1987)->Lukianoff & Haidt(2018)はもじりだし、Gross & Levitt(1994)->Sokal & Bricmont(1997)などほのかに真似しているようにみえる。
保守派(ネオコン)〜右派が多いが、Sokal と Bricmont は左派(Bricmontには『人道的帝国主義:民主国家アメリカの偽善と反戦平和運動の実像』が)Gross は、創造説を批判した共著もある。
一応リストアップの根拠(一連の本としてみなされている例示)としては、Bloom, Kimball, D'Souza は、割と並べてあげられているのを複数見たので特にいいでしょう。"Higher Superstition" は、Kimball が書評を書いて Blomm(1988) や Kimball(1990) と並べていました。Himmelfarb は、Sokal が Pluckrose & James Lindsay (2020) のフランス語版の preface で Bloom, Kimball, D'Souza と並べていました。"Higher Superstition" は、Sokal が フランス語版の preface を書いて影響を受けたと述べています。Pluckrose & James Lindsay (2020) にも、Sokal は、フランス語版の preface を寄せています。[この部分は後で増強したいと思います]
もっと増やしたいので、候補を教えてください。
「科学と政治が不可分なら、我々はただそのことを受け入れなければいけないのか、それとも積極的に政治は科学に介入すべきなのか」-「キャンセルカルチャー」論争続編
前回の記事で 2021-22 にかけてアメリカ化学会の発行する学術誌で起きた「キャンセルカルチャー」をめぐる論争について、大雑把なものながら紹介をした。反応を見ると、「科学の政治化」を憂い、「キャンセルカルチャー」批判を行う側のアンナ・クリロフに共感した人も、「政治と無関係な科学」の不可能性を説き、「キャンセルカルチャー」という概念そのものに疑問を投げかけるフィリップ・ボールやハーバートらに共感を抱く人も両方いたようだ。
ぼく個人としては、ボールやハーバートらの主張にシンパシーを抱きつつも、各々の主張の紹介は公平なものであることを心掛けていたつもりなので、評価が分かれたことは多としたい。
ボール(たち)の主張にいまいち乗り切れないものを感じる場合、「科学はそもそも政治的である(そうでないものはありえない)」という科学観がどうしても魅力を欠いたものであるということがあると思う。クリロフとボールのどちらかに共感を覚える人の間に、「科学は価値中立的である(現にそうである、あるいはそうであることが可能である)」というナイーブな主張には賛成しないが、では、科学が政治と不可分であると主張してそれであなたは何が言いたいの? 科学に対して政治はどういう態度を取るべきだと主張しているの? という疑問を抱く人がいるのではないか。実際に、ぼくの記事を読んでコメントを書いてくださった烏蛇さんとの間でもそのようなやりとりをしたし、ボール自身も、クリロフをめぐる論争から派生して、著名な心理学者であるスチュワート・リッチーとの間でそのような議論をしていた。今回は、リッチーとボールのやりとりを紹介することで前回の補足としたい。
心理学者のスチュワート・リッチー(Stuart Ritchie)が、自分の substack で "科学は政治的である、そしてそれは悪いことだ Science is political and that's a bad thing"という記事を発表した。
スチュワート・リッチーは、"Science Fictions: How Fraud, Bias, Negligence, and Hype Undermine the Search for Truth"(2020)という話題作の著者。ぼくは、未読だが、この本の評判を見てリッチーの名前を知った。この本は、科学を歪ませる様々なバイアス--イデオロギー的なものであれ、統計的なものであれ--を扱った本だとのことだ。
リッチーは、最近「科学は政治と不可分である」という主張の言説が、ボールのものも含め複数登場したことを指摘し、そのような主張はもっともなものながら、ではそういう論者の含意は実のところ何なのかと問うている。まず、「科学は政治と不可分である」という言葉が実際に意味している内容として想定できるものを以下の8通りあげている。
- 科学者が何を研究の対象に選ぶかは、科学者の政治観に影響される。
- 科学者が研究データを解釈する仕方は、その人の政治観に沿うものとなる。
- 科学者も人間なので、完全に客観的であることはできない(どんな行動や選択も本人の政治観の影響をまのがれない)
- 科学者は、人間の主観が科学のいろいろな側面に影響を与えていることを忘れがち(例えばアルゴリズムのような一見客観的な代物でも作った人間の偏見が反映されている)
- そもそも(他のなにがしかの方法ではなく)科学を選択していること自体が、政治的・文化的な産物である。
- 多くの科学活動は、政治的なアジェンダを持つ政党によって運営される政府に資金提供を税金から受けている。仮に、非政府組織が資金提供している場合でも、それはそれで特定の政治的アジェンダを有しているかもしれない。
- 特定の政治的な見解を有する人は論争的なトピックに対してあらかじめ予想される見解を持っている(温暖化、ワクチン、核兵器、...)
- 政治家は、「科学」を自分の都合のいいようにつまみ食いしたり、古いもう成り立たない見解でも勝手に取り上げて、自説を支持するものであるかのように扱う。
リッチーは、これらの主張のいずれにも反対意見はないとしつつも、このような意見をあえて主張することのインプリケーションを「必然性からの論法」と「活動家の論法」の二つが考えられるとしてそれぞれを批判する。すなわち、必然性からの論法とは「科学は政治的なのは避けようのないことで、仕方ない」という主張で、リッチーは、科学は確かに完全に政治性と無縁になることはできないが、政治的なバイアスを小さくするように努力し続けることは可能であるし、そうすべきであるので、「科学の政治化」への批判に対して、「政治性のない科学は不可能である」とだけ言ってもダメだという。活動家の論法とは、「科学は政治的だが、それはむしろいいことで、政治的にどんどん科学に介入してよくしていこうや」ということで、当然のことながらこの意見も退けられている。
こういう言い方は元の記事にはないが、一言でまとめると、「科学の政治性を指摘するそういうあなたの政治性はなんなの?」という指摘だと言えるのではないか。
つまりこれまでの論争の流れを戯画的に書けば、
「科学に政治性を持ち込むな!」
「『科学に政治性を持ち込むな!』、というときのあなたの政治性はなんなの?」
「『<科学に政治性を持ち込むな!>、というときのあなたの政治性はなんなの?』というときのあなたの政治性はなんなの?」
ということだ(ちょっと違うけど)。論争でしばしば見る相手の背中をとるという必勝パターンをお互いに繰り出し合うという永遠に議論を続けることができる無限後退の雰囲気がチラリと見える(実際はこれで終わりだが)。
このリッチーの記事には、クリロフについては話題に出てこないが、彼女自身がコメントを寄せ、賛辞を呈している。つまり、クリロフから見ると、リッチーは自分よりであり、いわば論争の代理戦のような様相になっているわけだ。ただし、ボールに反論しつつも「政治抜きの科学」の不可能性を認めているリッチーの議論がクリロフに近い立場なのかボールに近い立場なのかは判断が難しいだろう。
事実、ボールは自身のブログ記事 "科学が政治的だというとき我々は何を意味しているのか? What do we mean when we say that science is political?" で再反論を行いつつも、リッチーの議論には大方の賛意を示している。ただし、ボールは、自分の主張は「仕方がない」という主張でも「科学に政治性が含まれるのは良いことだ」と言っているのでもないという。まずは、政治性が科学に入り込むときにどのように入り込むのかを吟味しなくてはいけない、一見政治性がないような態度で入ってくることもあるのだよ、と言っている。つまり、クリロフは口では政治と科学の距離を取るべし、と言っているけど、多様性に反発するエッセイの撤回に反対したり、歴史的な事実の評価が怪しかったり、右派の文献を根拠にしたりなど自身十分政治的だ、ということだ。また、COVID-19 の流行や地球温暖化など科学者が政策決定に関係しうるアドバイスを行う責任を負うべきシチュエーションというものがあることも説明し、その際にただただ「政治性抜き」の態度を取ることはできず、必ず何らかの政治的程度を決定しなくてはならなくなると言っている。ボールは「科学は政治的から逃れられないなら、もっと政治的になればいいの、それともなるべく政治から離れればいいの?」という問題設定はよくない、まずは政治がどうやって科学に介入しているのか(あるいは科学はどれだけ政治に力を及ぼすのか)をよく吟味し、その上でいかにして政治と科学が付き合っていくかを考えるべきだと主張している。
また、以下は、ぼくの付け足しになるが、イデオロギーの科学への侵犯ということで言えば「左翼」よりも一層危険なのは、例えばブッシュ政権などで行われていた共和党など保守派の科学への介入ではないのか、少なくともその点を無視して「左翼」にのみ焦点を向けている点にも危うさがあるのではないかとも言っておきたい。例えば、このブログで過去に記事を紹介したことのあるジャーナリストのクリス・ムーニーには 『共和党の科学への戦争 The Republican War on Science』(2005)という著作がある。以前に紹介したブログでは、まさに「リベラルと保守派が、どのようにイデオロギーによって事実を曲解するか」を調査した心理学研究について論じたものであり、それによると「リベラルも保守派も自分のイデオロギーによって事実を曲解するが、その程度は保守派の方が大きい」ということである。その理由は、保守派の方が、事実と信念との一体性を強く要求し曖昧さへの耐性が低いから、と説明されていた。(ただし、この記事では、「政治的立場のある一方は、もう一方の立場よりも、事実の判定にバイアスをかけるという考え」を批判する別の研究も紹介している)
(アメリカの)保守派は(アメリカの)リベラルより事実を曲解する度合いが強いという研究の紹介の紹介 - わが忘れなば
ムーニーの本は、2005 年刊行で、記事の方も 2012 年とやや旧聞に属するものでムーニーの最新見解や他の人の保守的なイデオロギーの科学への影響についての言説にキャッチアップできていないのは残念だが...
ところで、話題が「政治と科学」という方向に焦点化されたために、やや見失われてしまったが、現在のインターネットでは非難が過剰に発生してリンチのようになってしまう現象に問題があるということは、それ自体としては誰もが認めることであろう。ただし、この現象を「左翼による検閲」が原因とし、もともと現象そのものをさした Public Shaming という言葉があったのに、より意味も対象も狭くとった Cancel Culture という言葉が通用しているのは胡乱であると思う。
このような現象に対する処方箋を示すことは、ぼくにはできないが、Public Shaming (公開羞恥刑と訳される)を扱った『ルポ・ネットリンチで人生を壊された人々』の第5章は、しばしば引き合いに出されるル・ボン『群集心理』を徹底的に批判したもので参考になる知見があったので、これもいつか紹介したい。
とまれ、アンナ・クリロフ vs フィリップ・ボールから始まった議論を、スチュワート・リッチー vs ボールまで辿ってきて、クリロフとボールの間ではいまだに見えなかった議論の基盤というものがついに得られたのではないかと思う。合意の形成まで到達しなかったとしても、これは一つの収穫物ではないか。この件の論争はとりあえずこれで終わり(あるいは小休止)のようだが、クリロフやボールの預かり知らぬところで、この収穫物を活用することができないとも限らないと思う。
科学における「キャンセルカルチャー」論争
最近、英語圏において物理化学系の学術誌に発表されたあるエッセイを起点として、こんな専門誌を舞台に意外な、と思うほどの盛り上がりを見せた論争が起きた。それは、「キャンセルカルチャー」を巡るものなのだが、日本語圏ではこの論争についてほとんど紹介されていないようなので、今回の記事で簡単に紹介してみたい。
アンナ・クリロフ (Anna I. Krylov) が2021 年にアメリカ化学会が発行する物理化学の学術誌 The Journal of Physical Chemistry Letters に発表したエッセイ「科学を政治化することの危険 The Peril of Politicizing Science」*1は、左派的なイデオロギーが今日の科学界において検閲として働いていると指摘し、大きな評判を呼んだ。これに対して、同年フィリップ・ボール(Philip Ball)は、同誌において「科学はそもそも政治的であり、我々はそのことに向き合わなくてはならない Science Is Political, and We Must Deal with It」*2というエッセイで反論を行なった。さらに今年になって、ジョン・ハーバート(John M. Herbert)ら10人の科学者が「言葉が重要である:表現の自由、包摂性、学術での卓越をめぐる議論について Words Matter: On the Debate over Free Speech, Inclusivity, and Academic Excellence」*3というタイトルでボールに近い立場のエッセイを同誌に発表した。
アンナ・クリロフ(南カリフォルニア大学)やジョン・ハーバート(オハイオ州立大学)らは、理論化学分野の高名な研究者。しかしながら、専門分野外での特別な知名度はないと思う。対して、ボールは、著名なサイエンスライターであり、日本でも『かたち』、『流れ』、『枝分かれ』の「自然が作り出す美しいパターン」三部作(ハヤカワ文庫)や今回の論争にも関係すると言えるテーマを扱った『ヒトラーと物理学者たち』(岩波書店)などの翻訳書が刊行されている。
今回の論争は、クリロフの最初のエッセイが、非常に論争換気的でありかつ話題になったことにより、ボールが反論を寄せ、さらにハーバートらが続いたというものだ。実は、クリロフ vs ボールの直接の議論の応酬にはなっていないので、その意味では”論争”というよりもある話題を巡って同じ雑誌で起きた”リレー討論”のような形になっている。(また、この「論争」に関わる言論は、J. Phys. Chem. Lett. 誌上で行われたものだけではなく、別雑誌に発表された"外延"もあるのだが、そこでも発端のクリロフと意見を異にするもの同士の直接の討論はないようなので、今回はこの三報に集中して紹介したいと思う。)
詳細な紹介に先立って、クリロフとボール・ハーバートらの立場を一言で説明すると、クリロフが概ね"キャンセルカルチャー cancel culture"とか"政治抜きの科学 apolical science"という言葉を引用符抜きのむき出しの言葉で使うのに対して、ボール・ハーバートらは、これらの言葉を使うときには、しばしば"引用符"(↓)
をつけているといえば、分かりやすいのではないか。要するに、ボールやハーバートらは、クリロフが使うような非難する意味でのキャンセルカルチャーという言葉の使い方の有効性を認めていないし(ハーバート)、政治と無関係な科学などそもそも不可能である(ボール)と考えているのだ。
それでは、まずクリロフのエッセイ The Peril of Politicizing Science の内容から紹介しよう。クリロフは、現在科学が直面している危機について次のように語る。
クリロフによれば、20 世紀までの歴史が教えてくれることは、イデオロギーによって科学が侵食されることの害であると、古くはジョルダーノ・ブルーノの火刑からチューリングへの政治的弾圧、ソ連のルイセンコ事件やナチスドイツの「ユダヤ的科学」への攻撃などを例に引きつつそう説く。(クリロフは、ソ連時代のウクライナ・ドネツクの出身であり、若い頃に全体主義国家を身をもって経験している。その後イスラエルで学位を取得し、カリフォルニア大学バークレー校・南カリフォルニア大学とキャリアを進めてきた経歴を持つ)
そして20世紀の全体主義国家イデオロギーの圧政が終わった現在では、このような検閲を行うのは、左派的なイデオロギーだと指摘する。それは例えば、科学的な現象につけられた名前を政治的に正しいものに変更させたり(「正規分布 "normal" distribution」)、道徳的に問題のある過去の人物の名前のついた大学の建築物の名称を変更したり、差別的な言動・行動が指摘された科学者にちなんだ専門用語を改名させたりすることに現れているという。
クリロフは、このような検閲は、マートン原理(Marton's principle)に反しており、科学者コミュニティに取り返しのつかない損害をもたらすと警告する。
クリロフがマートン原理と読んで参照しているのは、いわゆる CUDOS 、つまりアメリカの社会学者ロバート・K・マートンが、科学者集団が内包するエートスとして、共有性(Communism、科学的知識は公共善である)、 普遍性(Universalism、科学的な結果の精査には科学者本人の人種や性別などが影響してはいけない)、利害の超越(Disinterstedness、科学者は個人的な利益のために研究を行うのではなく真理の追求のために行う), 系統的懐疑主義(Organized Skepticism、結果が受け入れられる前に検証されなくてはならない)の 4つの要素を挙げたものだ。(この訳語は、伊勢田哲治『科学と疑似科学の哲学』(名古屋大学出版会)からもってきた。)
このクリロフのエッセイは、大きな反響を呼び、8 万以上の閲覧数を集めて、何とこれは、J. Phys. Chem. Lett. 誌に載った記事としては歴代最高のものだそうだ。この記事の反響は New York Times などの一般紙に記事が載るほどまでにも及んだ。これらの波及効果が認められてか、クリロフは、南カリフォルニア大から「公衆に対する学術のコミュニケータ」としての役割を果たしたとして表彰されている。また、言論人の反響の一例としては、スティーブン・ピンカーの以下の tweet を挙げたい。
Powerful essay on The Peril of Politicizing Science by quantum chemist Anna Krylov. Among other things she exposes the primitive word magic of language-cancellers: that words have dreadful powers, independent of usage, convention, & context. https://t.co/9FsjoQ5QsS
— Steven Pinker (@sapinker) 2021年8月21日
ピンカーは、自身が公開書簡によって非難されるということがあったので(おそらくピンカーの件はいわゆるキャンセルカルチャーの代表例のひとつだろう)このような記事に反応を出すことは予想できるものだ。
クリロフのエッセイから時を置かず、これらの主張に対して、ボールは同誌に発表したエッセイScience Is Political, and We Must Deal with Itで次のように反論した。
曰く、政治抜きの科学とは科学者にとっては耳に心地の良い響きを持つ言葉だが、実際には不可能なものだ。歴史の教訓とは、むしろその不可能性であろう。少なくともベーコンの『新機関』の「知は力なり」という認識以降、知識の獲得手段である科学が権力と無関係であることはなかった。これは科学者の社会性(何を研究すべきという社会的要求)についてだけいうのではない。科学的知識そのものにも社会的構築性は及ぶ。歴史に学んだ科学に対する態度とは、科学と政治を切り離そうとすることではなくいかに適切な関係を結ぶか模索する態度のことである。
ボールのエッセイの発表に対して、クリロフは直接的な反応はしなかったようだが、J. Phys. Chem. Lett. 誌のエッセイと同趣旨のエッセイを複数発表しており、自分の指摘には答えず同じような発言を続けていると、クリロフに対してボールは困惑(不満?)を表明している。
I am getting so tired of this, endlessly repeated in various permutations. A few examples of why.
— Philip Ball (@philipcball) 2022年3月15日
Krylov and co. keep threatening that "Newton's laws" are about to be cancelled, but point to no scientists calling for that... (1/n)https://t.co/PY1FVLYtAH
その新しい共著エッセイの一つ(「科学者はキャンセルカルチャーに抵抗せよ Scentsts mst resst the cancel culture*4」)では、クリロフらの主張は基本的には変わらないようだが、例示として 2020 年のトーマス・フドリツキー(Tomas Hudlicky)(2022 年に逝去)がドイツの化学の学術誌 Angewande chemm に発表したエッセイが広範な批判を(主に twitter などを通じて)受けたことで編集部から取り下げられた件に言及していることがやや踏み込んだ点かと思う。フドリツキーは、高名な有機化学者で 「『有機合成の現在地』から30年。現在の問題を踏まえて ’Organic Synthesis – Where now?’ is thirty years old. A reflection on the currents state of affairs」というエッセイを発表した。ここでは、大学の多様性を目指す方針が批判され、主として中国の科学者によって詐欺的な論文が大量生産されていると憂い、学部生がハードワークをしなくなったと憤激しているそうだ。(フドリツキーの事件とクリロフのエッセイについては、日本語でも web 記事が出ている*5)
こういうわけで、ボールの指摘にも関わらず、クリロフとボールの間で直接意見を戦わすような場面は発生せず、一般へのインパクトという点でもクリロフのエッセイの方がボールより大きかったという印象だった。
ボールは、その後、別の雑誌にもほぼ同趣旨ほぼ同タイトルのエッセイを寄稿し*6、そちらではより率直な口調でクリロフの批判を行っている。そのエッセイでは、クリロフが大文字の Social Justice (「社会正義」)をあげつらう文脈で邦訳が最近刊行された Pluckrose & Lindsay "Cynical Theories (2020)"(『「社会正義」はいつも正しい』)を参照したことについて、こんな「右翼の扇動者の共著」を citation したこと自体がクリロフの政治性をあらわにしているとも語っている。
その状況の中で、最初のエッセイから約一年後にハーバートら 10 人の北米の有名大学の科学者たちが共著者となってWords Matter: On the Debate over Free Speech, Inclusivity, and Academic Excellenceが発表された。ここでは、いわゆるキャンセルカルチャーとして提起された事象についてケースごとに検討が行われている。
まず、フドリツキーのエッセイ撤回については、この事例は「cancel culture」ではなく「consequence culture」(自分の書いたものの結果に責任を負うべきであるという文化、くらいの意味)であると指摘する。科学雑誌の編集部や科学コミュニティには何が学術誌に載るにふさわしい意見かを判断する権利があるのであって、エッセイの撤回は、「表現の自由」を侵したわけではなく、フドリツキーの被った非難や不名誉は自らの言論の結果を引き受けたに過ぎないのであって決して「キャンセル」されたわけではないということだ。
この「consequence culture」という言葉は、いわゆる「キャンセルカルチャー」批判に対抗する形で、言われるようになったもののようで、英語版の wikipedia にも小項目が立っている。ところで、「consequence culture」は、なんと訳すべきだろう? 結果文化? 帰結文化? 結果責任文化? ここでは、「結果を引き受けるカルチャー」くらいにしておきたい。
それから大学の建物の名称変更についても、透明なプロセスを経て、かつては偉人とみなされていたレイシストの名前を大学の精神を象徴するものとしては認めないという決定が出ることは、キャンセルではなくrecalibrating(調整)とでもいうべきであるとしている。
対して、同様の事例で、科学的な現象の名前に問題発言のある個人の名前が使われているケース(化学兵器の開発に関わったハーバー、ナチ時代に「ユダヤ的科学」の排除を進めたスターク 、さらに、人種主義・優生主義的発言で知られるショックレーやワトソンなど)についていえば、著者たちも科学史の書き換えになりかねないこのようなケースでの名称変更には賛成できないという。(例えば個人に賞を与えるなどの称揚する行為と歴史的な経緯のある命名を同列には考えていないということのようだ)ただし、クリロフが、学術誌が人種やジェンダーに関する記述にガイドラインを設けることは検閲にあたり、最終的には「正規分布 normal distribution」などの用語も使用できなくなるなどと指摘するのは、「滑り坂論法」的な詭弁であるとして退けている。
また、そもそもこういった批判が、 twitter などでの大衆による大規模な批判という形をとることについては、次のように述べている。大衆による批判を「キャンセル」と呼ぶことは、現在では揶揄的なニュアンスを帯びてしまっているが、そもそも社会的に周辺に置かれている人々が偏見や差別に対して”叫び声をあげる call-out”ことは社会の必要な構成要素であって、黒人の大衆文化やクイアのアクティビズム、Me too ムーブメントなど今までもずっとあった。SNS での言論に誤情報が含まれがちであることは間違いないが、そうかと言って学術誌に載るような言論には無制限な自由を要求する一方で、SNS 上でおこるのフドリツキーのエッセイへの非難を「自警団」とか「暴徒」とかのレッテルを張るとしたら、それは偽善だ。
ハーバートらのエッセイは、クリロフのエッセイの反響には及ばないものの、かなり注目を集め、ボールと合わせ技で有力な対抗言論になったように思う。
純然たる科学の学術誌でなかなか熱っぽい論争が科学者やサイエンスライターの間で起き、社会的な関心を集めたことは、ちょっと意外だったりした。
ところで、僕は、ハーバートら のエッセイで知った「結果を引き受けるカルチャー consequence culture」という用語によって、大塚英志が高橋源一郎『文学なんかこわくない』の文庫解説に寄せていた「責任と義務」という小文を思い出した。大塚は、80 年代という時代の波に乗って、成り行きで物書きになれてしまった自分は、高橋の言論に接すると表現するものとしての「責任と義務」を思い出させられておののく、と述べていた。物を書いて発表することによって否応なく発生する他人に影響を及ぼすことへの責任とそれでも書かなければいけないという義務を。これは、物書きだけではなく、研究成果として多くの人々に影響を及ぼす可能性がある何事かを発表している科学者にもまた、どうしてもついてまわるものではあろう。
*1:J. Phys. Chem. Lett. 2021, 12, 22, 5371–5376, https://doi.org/10.1021/acs.jpclett.1c01475
*2:J. Phys. Chem. Lett. 2021, 12 (27), 6336-6340. https://doi.org/10.1021/acs.jpclett.1c02017
*3:J. Phys. Chem. Lett. 2022, 13 (30), 7100-7104. https://doi.org/10.1021/acs.jpclett.2c02242
*4:Nachrichten aus der Chemie, Februar 2022, S. 12-14,
台風後の荒川放水路
隅田川から北千住の帝京科学大の辺を回って、荒川放水路の土手を小菅の対岸のあたりまで見て来ました。
時間かアシ(自転車)があったら、岩淵水門辺まで行きたかったのですが、その後用事があったので、止めました。
隅田川です。いつもより水がなみなみになっている(のかな? )岸のこちら側が足立区(北千住)で、向こうが荒川区(南千住)です。
左に、帝京科学大学のグラウンドが見切れています。
この後の写真は、荒川放水路です。
僕が行ったのは、午後四時前後でしたが、家族連れやペット連れがいっぱい見物に来ていましたね。
水かさが 1.2 m ぶんほど増えていて、グラウンドはほぼ水没していましたね。
野球場のスコアボードが、ボードの半分程度まで水没していました。
水飲み場が、水没して蛇口だけ水面の上に出ています。
木の枝が引っかかって蛇口が廻ったのか、水が噴水のように出っぱなしになっていました。
遠目だとよくわかりませんが、水は汚かったです。
川辺にはゴミが溜まっているとこが度々存在しました。
橋桁から見ると、水量が多いのがよくわかります。
ストロングゼロを持ち寄って、橋桁の舗装されたところで、宴会をしている若者たちもいました。
芝生がアタマだけ見えていて、中洲みたいになっています。
橋の向こうに遠目に見える水門のような建物は...
東京拘置所です。
この日は、もうすっかり青空で、イワシ雲が出ている秋めいた日でした。