わが忘れなば

備忘録の意味で。タイトルは小沢信男の小説から。

『ゴーストランドの惨劇』

8/17 (土)に、新宿武蔵野館に、パスカル・ロジェ監督の『ゴーストランドの惨劇』を観てきました。

なかなかのイヤーな気持ちになるショッキング性のある作品でした。パスカル・ロジェ監督の『マーターズ』の残虐描写と『トールマン』のようなトリッキーな展開を思い出しました。

アメリカが舞台(カナダ+フランス製作ですが)で、フランス系の母親とその双子の娘が親戚の遺産の屋敷に移り住むところから話は始まります。
双子は、姉のヴェラが活発で反抗期気味、妹のベスが内向的でホラー作家のラブクラフトもどきの小説を作って家族に話すような性格です。
姉は、母親が妹ばかりに構っているのが気にくわない感じで、常に不機嫌です。道路ですれ違った移動キャンディー屋が手を振ってきたのにも中指を立てていました。
夜中についた屋敷は、ボロボロのアンテーク人形や謎のおもちゃが散乱する不気味なボロ屋敷でした。

ヴェラが軽い親子ゲンカ後(「ママのお気に入りは、あの子なんでしょ!! FXXK! FXXK!」)に、ドアを開けっ放しで荷物の整理をしていたら、さっきのキャンディー屋が乱入してきて一家を襲い出しました。
キャンディー屋は、つるっぱげの大男(言語不明瞭)とその母親(女装した父親?)で、いきなり双子の母親を殴りつけて倒し、ヴェラに乱暴しようとします。

ベスも隠れたところをキャンディー屋の女の方に襲われそうになりますが、復活した双子の母親が、怒り狂って、まず女を刺し殺し、その後に、ヴェラを襲った大男もハサミで滅多刺しにして殺します。

その惨劇から 16 年後実家を離れたベスは、なんとホラー作家として成功し、出版エージェントの夫をの間に息子ももうけました。
そして、最新作『ゴーストランドの惨劇』は、著者の子供時代のトラウマに取材したもので、ベストセラーとなって、TV のトークショーにも呼ばれます。

しかし、姉のヴェラは、事件のショックから立ち直れず実家に引きこもったままで、廃人同様です。
ある夜、興奮したヴェラから電話がかかってきて、「私を置いて逃げないで! 助けて!!」と症状が悪化した様子に心配したベスは、一人で実家に帰ります。

母親と再開し、ヴェラの様子を聞くと予想以上に悪いようでした。自分で地下室にとじこもり、自傷行為を繰り返して身体中ひどい傷だらけです。
しかも、「あの子は、なんどもあの夜に戻るのよ」と母親が言うように、まだ 16 年前のあの日に自分がいると思い込んでいるようです。

ヴェラのことが心配なベスですが、ヴェラについていると変なことが起こり始めます。
ヴェラは、誰もいないところで、襲われたように身悶えし出したり、突然現れたり消えたりします。しかも、手錠に繋がれて、変な化粧をしていたりします。

母親は、ヴェラの相手にもう疲れてしまったのか、いまいち投げやりです。

夜に、ついにヴェラがぶっ倒れてしまったので、母親が救急車を呼びに行きます。ベスがついて行こうとすると、母親は「あなたはここに残っていて、妹が欲しいって言っているから」と妙なことを言います。
ベラのところにもだったベスですが、ベラは見つからず、しかも、キャンディー屋の女の声が聞こえてきて、「姉は壊れたから次はお前の番だ」と言います。

ぶっ倒れたベスが、よく朝目を覚ますと、母親の姿はなく、屋敷も鍵がかかっていて中から開かず、閉じ込められてしまいました。
そのうえ、鏡を見ると、ベスは、とんでもなくボロボロの格好に着替えさせられていて、顔中あざだらけです。

「頭のおかしくなったヴェラが私を閉じ込めてこんなことを」と怒ったベスは、地下室へヴェラを探してに言って、倒れていたベラを怒鳴りつけます。
しかし、その時のなぜかベスのようすに嬉しそうなヴェラの返答が.... 最悪の恐ろしいものでした... 

ここまでで半分くらいですが、この後最後ギリギリまでは、本当に胸の悪くなるような地獄の展開でした。というか、中盤のショックによって、前半も地獄色に染め変えられるような感じでした。
映画が終わった時は、「疲れた...」と言っている人が多かったです。

『麻雀放浪記2020』

土曜日(4/6)に、『麻雀放浪記2020』を観てきました。
映画の始まる前に、「この映画には麻薬取締り法違反の疑いで逮捕されたピエール瀧容疑者が出演します。鑑賞前にご承知ください」みたいな文字が出てきました。

劇場は閑散としていました。僕を含めて、4-5 人だったと思います。公開二日目の土曜でこれか...

ストーリー的には、予想以上にはちゃめちゃでしたが、最後まで見たらまあ、面白かったかな、というレベルでした。
坊や哲(斎藤工)が、終戦後の焼け野原の東京で、雀荘オックスのママ(ベッキー)・ドサ健(的場浩司)・出目徳(小松政夫)との麻雀大勝負の最中に九蓮宝燈をあがったために 75 年ごの 2020 年にタイムスリップするという話です。

75 年ごの世界では、日本はまた戦争をして負けたために、荒廃しています。全国民が頭にチップを埋め込んでマイナンバー登録をして監視される警察国家になっています。
2020 開催予定のオリンピックも中止になったので、日本を再興するために、元オリンピック開催委員長の杜(ピエール瀧)が 麻雀五輪を開催し、日本製の最新 AI が人間に勝つことで日本の技術力をアピールしようと目論見ます。

マイナンバー登録がないため警察に捕まった哲は、麻雀アイドルのドテ子(ちゃらんぽらんたんのもも)に助けられて、チンチロリン部落で生活するようになり、ドテ子のマネージャーのクソ丸(竹中直人)によってふんどしアイドル昭和哲としてデビューさせられます。
ふんどし姿がうけて人気者になりますが、賭博法違反で捕まって、謝罪会見させられ、麻雀五輪に参加することになります。
(出演俳優と現実とのリンク具合に、三田佳子と『Wの悲劇』をおもいだしました)

哲は、麻雀五輪でもういちど九蓮宝燈をあがって過去にタイムスリップし、ドサ健たちとの戦いに決着をつけようと麻雀五輪に挑みます。
麻雀五輪の対戦者は、AI ユキがママに、ネット麻雀の覇者がドサ健に、老人が出目徳になぜかそっくりです。

AI が圧倒的な技術力で哲たちを圧倒するが、ドテ子がファン(岡崎体育)にもらった電磁砲で会場を停電させ、全自動卓を使えなくしたことによってテヅミの勝負になったことでイカサマし放題で形勢が逆転し...という内容です。

ドテ子のファン(さえないオタクのステレオタイプみたいな人物)が岡崎体育なのがおかしかったです。ちゃらんぽらんたんやピエール瀧と同じソニーミュージックの所属ですね

秋草俊一郎『アメリカのナボコフ―塗りかえられた自画像』

去年のうちによんだ。

アメリカ時代以後のナボコフの作家としての活動(死後の活動、つまり遺族による遺稿出版などの活動も含む)と受容について研究した本。

亡命ロシア人社会では有名だが英語圏では無名の作家という状態でナチスを逃れてアメリカに渡ったナボコフが、英語作家として再出発し、『ロリータ』によって成功を掴み、死後も残るどころか、いやましてゆく名声を確立するに至ったということの裏には、巧みなというかむしろ必死の戦略があったことを暴いたといったような内容。

なのでちょっと神話破壊的な趣がある。

ナボコフに関していえば、ぼく個人の読書歴の中では、若島正の海外文学紹介エッセイや評論を読んでナボコフという面白い作家がいて(名前は知っていたけども)、その作品がどんなに巧みなものであるかを知ったという記憶。若島正は、この本の著者に比べてナボコフへの距離が近いというかべったりというか、エッセイも、ナボコフ作品に仕掛けられた巧みなトリックを読み解いいていくというような内容が多かった。なので、ナボコフを深く理解しているけども、少し距離をとってクールに見るというこの本の距離感は新鮮だった。
(というか、そういうテクスト論的なものから最新公開資料を駆使した研究へというのが、ナボコフ研究の潮流そのものなのだそうだ。そもそも著者も、この本の前の本は、ナボコフの作品を精緻に読み解くという内容だったのだ。その本は、出た時に賞をとったりして結構話題になったので図書館で借りて読んだのを覚えている。しかし、その時は、読みきれなかった)

具体的な内容としては、亡命ロシア人社会との関係、出版社・編集者の売り出し戦略、『エウゲニー・オネーギン』の翻訳・注釈に紛れ込ませた自己伝説化の読解、写真やフィルムにおけるイメージ戦略、日本語作家への影響、遺稿の出版やそれにまつわる現在の評価の浮沈といったことが論じられていた。

この中では、亡命ロシア人社会との難しい関係をあつかった章が面白かった。

ロシア語作家であることをやめて、英語作家として再出発したことが、いわば亡命ロシア人社会を裏切ったようなことであった。皮肉を感じたのは、次のようなことに対してだ。ナボコフは、ロシア語の旧作を自分で英訳するようになった。このような自己翻訳は、ナボコフの世界文学性としてプラスに評価されるもののはずだった。しかし、そのうちのある作品は、別の亡命ロシア人文学者の既訳があるものを改めて訳し直したものだった。ナボコフ自身は、既訳は質が低いため改訳したのだと書いているが、本書の検討によると必ずしもそうとはいえない。つまり自己翻訳は、昔のコミュニティへの縁切りのため的な意味合いもあるものだった。

ところがこのように自己翻訳するということは、以後は他人がロシア語作品を英訳をするのがやりづらくなる状況を作ってしまうことでも、当然ある。名作は、時代に応じて新訳がなされることで翻訳としては新しい評価を獲得していくのに、ナボコフ作品はそういう機会が、対英語圏に対しては、なくなってしまった。

このようなことを論じているところは、ナボコフの作家としてのサバイバル戦略の陥穽を、数十年後からの視点で指摘しているようにも、ぼくには思えた。

スキャンダル的な面白みも感じたのは、ナボコフ本人ではなく、死後の遺族の遺稿出版や研究者の動向をあつかった最終章だった。

そういえば、日本では、安原顯村上春樹の原稿を古本屋に売っぱらってしまって、安原死後に村上春樹に告発されたなんてことがあったな、と思い出した。
現代の欧米の出版エージェントの話では、『戦争は女の顔をしていない』が、著書がノーベル賞をとったとたんに単行本を出していた群像社が契約を打ち切られて、文庫本が(大手の)岩波書店から再刊になったという少し前に話題になった話を思い出した。(この件については、まさに本書の著者が言及している。https://www.nippon.com/ja/people/e00092/
死後も手紙などどんどん「作品」が出て(、かつ話題になる)くる大作家といえば、日本では、三島由紀夫か(『十代書簡集』とか)。
三島の遺族って、ドミートリと違ってそんなには表に出てこないけど、手紙の出版などに関して何を考えているんだろうと思ったり。

こんなにも巧みに自己イメージを操作し、作品的成功と人生的成功を一致させえた作家というのは、日本の近現代文学ではあんまり思い浮かばなかったので、ナボコフとは関係ないけど日本での対応事例を色々と考えてしまった。

アメリカのナボコフ――塗りかえられた自画像

アメリカのナボコフ――塗りかえられた自画像

『黒き微睡みの囚人』

読み終わった。

政変によってドイツを追われたヒトラーがロンドンで私立探偵をするという歴史改変小説。
という内容の夢をアウシュビッツの収容所にいる(実在の、しかし本当の歴史では戦争のはじまる前に死んだ)ユダヤ人作家が見ているという歴史改変小説、という二重底の小説。

以下、結末に触れる内容を書きますので、エチケットとして字下げしておきます。

















ヒトラーユダヤ人作家の夢の中のヒトラー、作中ではウルフ)が、ユダヤ人のギャングに割礼されるシーンは、ショックを受けたが、その後の展開はさらにショッキング。
なんと、ヒトラーが、だんだんとユダヤ人になってしまうという内容だった... 

割礼を受け、調査のためにユダヤ人の身分証明書を偽造し、右翼の政権の成立によって、不法移民としてイギリスも追われることになり、ユダヤ人として難民を移送する船に乗ってパレスチナに渡ることになる。

ヒトラーユダヤ人に変身させてしまうとは、なんというブラックな発想かと。

最近買った本と今読んでいる本

風疹抗体検査の結果きた。抗体価 256 倍とのこと。

『黒き微睡みの囚人』は、2/3 程度で止まってしまった。

今は、『From Bacteria to Bach and Back』を 読んでいる(p.70 程度まで)

『掟破りの数学』

掟破りの数学 ―手強い問題の解き方教えます―

掟破りの数学 ―手強い問題の解き方教えます―


『いまこそ、希望を』

いまこそ、希望を (光文社古典新訳文庫)

いまこそ、希望を (光文社古典新訳文庫)


『もういっぽん!


『先輩がお呼びです(1)』。

『クソ編集にこんなことされました』

『LOST DRIVE』

Karplus, Delbruck, Feynman

この話は、カープラスは、↓ のリンク以外でも、していた。ハーバードの有名教授がインタビューを受けるシリーズでも話していた。

Martin Karplus - Biographical - NobelPrize.org

カープラスは、2013 年のノーベル化学賞受賞者。Delbruck と Feynman も言わずと知れたノーベル賞受賞の科学者。

After I had been in the Delbrück group for a couple of months, Delbrück proposed that I present a seminar on a possible area of research. I intended to discuss my ideas for a theory of vision (how the excitation of retinal by light could lead to a nerve impulse), which I had started to develop while doing undergraduate research with Hubbard and Wald. Among those who came to my talk was Richard Feynman; I had invited him to the seminar because I was taking his quantum mechanics course and knew he was interested in biology, as well as everything else. I began the seminar confidently by describing what was known about vision but was interrupted after a few minutes by Delbrück’s comment from the back of the room, “I do not understand this.” The implication of his remark, of course, was that I was not being clear, and this left me with no choice but to go over the material again. As this pattern repeated itself (Delbrück saying “I do not understand” and my trying to explain), after 30 minutes I had not even finished the 10-minute introduction and was getting nervous. When he intervened yet again, Feynman turned to him and whispered loud enough so that everyone could hear, “I can understand, Max; it is perfectly clear to me.” With that, Delbrück got red in the face and rushed out of the room, bringing the seminar to an abrupt end. Later that afternoon, Delbrück called me into his office to tell me that I had given the worst seminar he had ever heard. I was devastated by this and agreed that I could not continue to work with him. It was only years later that I learned from reading a book dedicated to him that what I had gone through was a standard rite of passage for his students – everyone gave the “worst seminar he had ever heard.”

Delbruck のグループに入って二、三ヶ月たった時期に、Delbruck は研究対象となりうる分野についてのセミナーを開くように言ってきた。私(M. Karplus)は視覚についての理論に関するアイデア(光によるレチナールの励起がどのように神経パルスを引き起こしうるか)を議論するつもりだった。そのアイデアは、Hubbard と Wald の下で卒業研究をしているうちに発展し始めたものだった。私の発表を聴きにきた人たちの中には Richard Feynman がいた。私が、量子化学の講義を取っていて彼が生物学に興味があったのを知っていたから招いていたのだ。と言っても彼はありとあらゆることに興味を持っているが。私は堂々とセミナーを始め、視覚についてすでにわかっていることの説明をしたのだが、数分で部屋の後ろにいた Delbruck のコメントによって遮られた。「言っていることが理解できないぞ」もちろん彼の注意の意味は私が十分に明晰に説明できていないということで、私にはもう一度説明をやり直す以外の選択はなかった。このパターン自体が繰り返され(Delbruck 「理解できないな」私、説明をやり直す)、30 分経っても 10分ぶんのイントロダクションすら終えることができず、焦り始めていた。もう一度 Delbruck の横槍が入った時に、Feyman が振り向いて、みんなに聞かせる程度の大きな声で「僕は理解できたよ、Max。完璧に明晰な説明だね、僕には」とささやいた。すると、Delbruck は真っ赤になって部屋を出ていったため、セミナーはあえなく終了となった。午後の遅く、Dulbruck に部屋に呼ばれ私のセミナーは史上最低だったと言われた。これで落胆した私は、一緒にはやっていけないということでお互いに意見が一致した。彼への献辞がの付いたある本を読んで、私の経験したことが Dulbruck の学生の標準的な通過儀礼であることを知ったのはほんの一、二年後のことだった。ー誰もが「史上最低」のセミナーだったのだ。

某郊外

朝、某用事で某郊外へ。駅前に広がっているバスターミナルと建設中のショッピングモールがいかにも郊外!って感じだった。
小学校の校庭の桜がもう咲いていた。

朝霞が近いので朝霞->駐屯所->赤衛隊事件->『マイバックページ』という連想をした。

日曜日に Daniel Dennett "From Bacteria to Bach and Back" を丸善で買ったので車中で少し読んだ。
買った後に、気づいたが、これ、翻訳が出ていたのね...