わが忘れなば

備忘録の意味で。タイトルは小沢信男の小説から。

アラン・ウッド、碧海純一訳『バートランド・ラッセル―情熱の懐疑家』(1978、木鐸社)感想(2)

 『バートランド・ラッセル―情熱の懐疑家』の感想続き。

 ウッドが、ラッセルの発想法や研究・執筆態度について述べている章「天才のしごと」で興味深い指摘があった。ラッセルは、最初に書いた原稿ですでに完璧な文章になっていて、ほとんど全く推敲というものを必要としなかったらしい。

すぐれた著作というものは丹念な苦吟・推敲の結果であると考えていた私に、例外がありうるということをはじめて教えてくれたのはラッセルであった。というのは、かれの原稿や手紙は、いくらページを繰ってみても、不思議なほど、ほとんだ人間わざと思えないほどきちんと書きつづられ、一字の抹消や、訂正もないからである。ラッセルは、ひとたび想がまとまって書きはじめると、あたかもすでに書いてあるものを筆写するかのように筆がうごくのだ、とみずから説明している。かれによれば、同じ抹消するなら紙の上でやるよりも頭の中でやるほうが簡単だから、何事にもよらずまず頭の中で全部書いてみるのだという。話すときも、かれはひとつの文章をはじめるときにはかならずその結末をはっきり頭の中で考えているのである。かれのばあい、夢の中でさえも、あらゆる対話は構文上完璧である。
(ウッド著、pp.69-70)

 また、ラッセルは「聴覚的人間」で、目で見たイメージよりも耳で聞くイメージを使ってものを考えていたそうだ。

 ラッセルのばあい、重要と思われる点がひとつある。かれは目よりもむしろ耳で、つまり、視覚像よりもむしろ聴覚像を通じて、しごとをする。かれはひとに本を朗読してもらうのが好きである。ラッセル自身も、自分は、何か読めと言われたとき、ひとりの心の中で朗読してみないとよくわからず、自分の記憶は、紙の上の活字の格好よりは、むしろ、話しことばの発音にたよってはたらくのだ、と言っている。かれは、ベルグソンに対する批判の一つの点として、ベルグソンが「視覚人」であることを指摘し(もっとも、ベルグソンはこれを否定した)、また、視覚像だけにたよってものごとを考える人は抽象物について考えるのに困難を感ずるだろう、とも言っている。たとえば、論理学で用いる諸概念や、四次元の世界などは、視覚像ではあらわせない。
(ウッド著、pp.67-68)

 そのせいかどうかは分からないが、ラッセルは「詩と音楽については鋭敏な観賞力を示すかれも、美術についてはさほどではない」そうだ。

 これを読んで、ラッセルを宿敵視していたある作家が、全く対照的とも言うべき創作態度をインタビューで披露していたことを思い出した。「ロシアで生まれ、イギリスで教育を受けた、アメリカの作家」ウラジミール・ナボコフは、インタビューと書簡や雑誌記事を集めた本 "Strong Opinions"(1973) で次のようにラッセルについての敵愾心をむき出しにしている。

「ロンドンタイムズ」(1962 年、5 月 30 日)

エジンバラ国際フェスティバルのプログラムを見て、作家会議の招待者一覧にぼくの名前が記載されているのを発見しました。同じリストに載っている作家のなかには、ぼくが尊敬する人たちもいましたが、ぼくがどんなフェスティバルや会議にでも同席する意思のない作家の名前が載っていました―イリヤ・エレンブルグバートランド・ラッセル、J・P・サルトルです。言うまでもないことですが、その会議で議論されることになっている「作家の問題と小説の未来」とやらには、ぼくは全くの無関心です。
 ぼくとしては、このことをぼくの名前が載ったプログラムが出る前にもっとそっとフェスティバルの委員会にお伝えしておきたかったのですが。
("Strong Opinions"、p.212)

 この会議については、こんな本が出ていた。

Amazon.co.jp: The Novel Today: Edinburgh International Festival 1962: Programme and Notes, International Writer's Conference: Andrew Hook: 洋書

 プログラムや招待作家一覧も web 上で見られるみたい。これですね。

 ここでは、ナボコフの名前はもう削られているみたい。しかし、サルトルの名前もないぞ? ナボコフが尊敬している作家は、このなかでは、メアリー・マッカーシーとかアラン・ロブ・グリエとかか。

 ラッセルがナボコフのことをどう思っていたかはよく知らないが、ナボコフがラッセルを敵視するのは多分、保守派であるナボコフには、ラッセルの政治的な意見が気に食わないとかそんなところなのだろう。

 ナボコフ翻訳を多く手掛ける英米文学者の若島正の tweet でもこんな記述が。

『アーダ』を読んでいて、どうもバートランド・ラッセルをけなしているらしい個所を発見。なんでラッセルなん?と思ってふと気がつく。ベトナム戦争ホー・チ・ミンの肩を持ったのがきっとナボコフの癪にさわったんだな。ナボコフの小説にも妙に生臭いところがあるという実例。

Twitter / propara: 『アーダ』を読んでいて、どうもバートランド・ラッセルをけなし ...

 ところで、ナボコフが、サルトルを攻撃した記事は"Strong Opinions"に他にも載っていて前にブログ記事にしたことがあった。

ナボコフによるサルトル『嘔吐』(英訳)書評の感想-(V. ナボコフ, "Strong Opinions" から "SARTRE'S FIRST TRY") - わが忘れなば

 ナボコフは、ラッセルとは対照的に、1962年のインタビューでは、自分が文章をいかに推敲するか、頭の中のイメージを文章として表現するのがいかに難しいかを語っている。

”考えることは天才的、書くものは並はずれた作家のもの、喋ると子供みたい”-V. ナボコフ, "Strong Opinions" の感想 - わが忘れなば(<―こっちの記事に詳しく書いてます! )

  • 「えー」とか「あー」が非常に多いですね。お歳のせいでしょうか? 

V.N. 違うよ。話が下手なのは昔からだ。僕の語彙は、精神の奥深くに潜んでいてそれを引き揚げて物理的な状態に定着させることができるのは紙の上だけなんだ。得意即妙の応答なんて僕には奇跡に見えるよ。これまで出版した本も一語一語何度も書き直したんだ。僕の場合、鉛筆の方が消しゴムより長持ちするんだ。
("Strong Opinions"、p.4)

 しかも、ナボコフは音楽に対してはぜんぜん感受性のない人物で、あるインタビューでは、「ぼくが社会に望むことはたった三つだ。死刑の禁止、拷問の禁止、音楽の禁止(コンサートホールでやる分には許すが)」とか答えていたり、『ナボコフの文学講義』(2013、河出文庫)で音楽は「文学や絵画よりも芸術の価値尺度上より原始的で、より動物的な形式に属するものである」なんて書いたりしている。

 ナボコフが、「聴覚的人間」ラッセルに対して「視覚的人間」であったかどうかは、「視覚的人間」という概念自体まあ適当なところもあるので、よく分からないが、ナボコフの小説にあらわれるイメージ喚起的な描写や 1962 年に行われた次の BBC のインタビューから判断して、そんなふうに言ってみてもいいのではないか。

 色。ぼくは画家に生まれついたんだ、と思う、―本当だよ! ―14 歳までは毎日絵を書くことに一日の大半を費やしていたからね。そのころは、画家になるつもりだった。でも、画家になるだけの才能はなかったんだと思う。でも、色彩に対する感覚、色彩に対する愛、これを失ったことはない。また、ぼくには文字の色を感じるという変わった才能があるんだ。色を聞くというんだ。たぶん、千人に一人くらいいるんじゃないかな。でも、心理学者たちの言うところによるとこどもにはみんなこの能力があるのにそんなことは―A は黒、B は茶色―無意味だと聞かされて育つのでその能力を失ってしまうのだそうだ。
("Strong Opinions"、p.17)

 でも、ラッセルとナボコフ、政治上の意見の相違の前に体質的にも合わなそうだ二人だったんだな。(ラッセルがナボコフについて何か言ったのかどうか知らないけど。ご存知の方がいたら御教授ください! )

 しかし、アラン・ウッドの記述を読むと意外なところで共通点めいたものもでてきそう。先に挙げたインタビューのなかでナボコフの「共感覚」に関するやり取りがあった。

 いわゆる共感覚というものをナボコフが持っていたらしいことは有名で、次の本にも、息子のドミートリー・ナボコフが一文を寄せている。(そこだけ、立ち読みしました。。)

共感覚―もっとも奇妙な知覚世界

共感覚―もっとも奇妙な知覚世界

 アラン・ウッドは、ラッセルについて音についての共感覚だったのでは? (ともとれる)という推測をしている。

ことによるとラッセルには、敏感な耳と微妙な調子をもつ話し声をもっているために、音をきいて、その中に高さとか、音色とか、音量などの余分の「次元」を感ずる能力があるのかもしれない。
(ウッド著、p.68)

 まあ、これは、ウッドの推測にすぎないようだけど、共感覚かどうかは日記(あるとして)や書簡を丹念に調べれば分かることもあるんじゃないかと思う。(もう、分かってるのかも!? )

 共感覚かどうかってことにも、共感覚じたいにも、実は正直、あんまり関心はないのだけれど、ラッセルとナボコフが政治的な意見だけでなく、創作態度や思考法まで対立している風なのは少しおもしろかった。

 ところで、ナボコフはケンブリッジ大学の出身だから、ラッセルやラッセルの友人の哲学者たちとニアミスしててもいいはず。でも、"Strong Opinions"でうかがいしれるナボコフのケンブリッジ大学の哲学者への態度は次のようにそっけないものだ。

  • ゼンブラの言語とウィットゲンシュタインの「私的言語」は、関連があるように思うのですが? 大学で哲学科との交流は? 

V.N. 全くない。彼の仕事については何も知らない。名前を知ったのも 50 年代にはいてからだよ。ケンブリッジではサッカーをしてロシア語で詩を書いていた。
("Strong Opinions"、p.70)

アラン・ウッド、碧海純一訳『バートランド・ラッセル―情熱の懐疑家』(1978、木鐸社)感想(1)

 アラン・ウッドによるバートランド・ラッセル(1872-1970)の伝記『バートランド・ラッセル―情熱の懐疑家』(1978、木鐸社)を読んだ。高村夏輝訳『哲学入門』(2005、ちくま学芸文庫)の訳者解説に、ラッセルの生涯を知るには「読み物として面白いのはアラン・ウッド『情熱の懐疑家』[碧海純一訳、みすず書房、1963]」と書いてあったからだ。

 この本は、原著は1957刊、訳書ははじめみすず書房から 1963 年に刊行され、1978 年に「邦訳新装版への訳者あとがき」を付して再刊された。「邦訳新装版への訳者あとがき」には碧海純一がラッセル死去の際に朝日新聞へ発表した追悼文(1970.2.4 夕刊)が全文採録されていて、読み応えがある。

 アラン・ウッドのこの本は原著の刊行年からも分かる通り、ラッセルの生前に刊行されたもので彼の人生のうちの80年ほどを邦訳で400ページ弱の分量で扱ったものに過ぎない。シドニー大学とオックスフォード大学を卒業したウッドは、本書のほかにも『ラッセルの哲学――その発展の研究』というラッセルの哲学についての専門書を計画していたが、本書の刊行後まもない1957年に、43歳で亡くなったため結局、完成されることはなかったそうだ。(ウッド著p.379、p.383)もしウッドが長生きしたら、ラッセルの全人生を俯瞰した大著を書いたかもしれないと想像する。

 これまで、ぼくは、ラッセルの伝記的事実を描いた読み物としては、ポール・ジョンソンの『インテレクチュアルズ』(別宮貞徳監訳、講談社学術文庫)くらいしか読んだことがなかった。この本は、英国の保守派であるジョンソンが、ルソーにはじまって、トルストイマルクスサルトル、ラッセル、etc.といった人たちの主張と実生活の矛盾を論った「週刊新潮」ふうのイヤミな「進歩的知識人」列伝とでもいう本で、読んだときはコノヤロー、と思ったものだったが、そのときのぼくには反論するための知識も頭もなかった(でも自分が特にシンパシーを感じてない人たち――ルソーやトルストイについての章は、フンフンなるほどね、と面白く読んでしまった記憶があるから勝手なもん)。今回、ラッセルの人生についていろいろおもしろい逸話や基本的な知識を知ったので何か反論してやろうと思って『インテレクチュアルズ』を引っ張り出してこようと思ったが、書籍流に埋もれてしまったようで何処をひっくり返しても見つからない。残念だが、反論は本が見つかってからに持ちこしにしよう。

バートランド・ラッセル―情熱の懐疑家 (1978年)

バートランド・ラッセル―情熱の懐疑家 (1978年)

哲学入門 (ちくま学芸文庫)

哲学入門 (ちくま学芸文庫)

 今回からの2-3回くらいの記事で、『バートランド・ラッセル―情熱の懐疑家』でよんだラッセルの生涯にまつわるエピソードをテーマ別に紹介してみたい。

  • 家族

 ラッセルは、1872年5月18日5時45分に、アンバーレー子爵とケイト(旧姓スタンレー)の三人目の子供として生まれた。兄フランク(1865生)と姉レイチェル(1868生)がいた。なお、バートランドという命名については、父方の祖母が「ギャラハッド」というアーサー王伝説に出て来る騎士の名前をつけようとしたが母方の祖母がそんな変な名前を付けるなと反対したせいで「バートランド」になったという話が出て来る。『哲学入門』のジョン・スコルスプキや wikipedia に書いてある、父親の親友のJ・S・ミルが名付け親になったという話はここには出てこない。

 姉と母は、兄フランクが罹患したジフテリアが感染して、1874年に、父は1876 年に亡くなってしまった。そのため、フランクとバートランドは、祖父ジョン・ラッセルの邸「ペンブローク・ロッジ」に引き取られ、そこで養育されることになった。(p.17)

 ジョン・ラッセルは、宰相を務めたこともある政治家で、初代ラッセル伯爵でもあったが、二年後の1878年に亡くなったのでラッセルには直接的な影響をほとんど及ぼしていないようだ。

 ちなみに、ラッセルがケンブリッジ大学トリニティ・コレジに入学する18歳まで過ごした「ペンブローク・ロッジ」は現在では結婚式場になっているようだ。(バートランド・ラッセル・ルームとかいうのまである)


Pembroke Lodge

 そういうわけで、ラッセルの養育に大きな影響を及ぼしたのは、まず第一に祖母ジョン・ラッセル夫人(ミント伯爵の娘で、ジョン・ラッセルの後妻)だった。スコットランド長老会議派の出身で、清教徒的な厳格な性格だったが、思想は進歩的で、ジョン・ラッセルの同僚のうち慎重派からは怖れられていたらしい。アイルランドの自治を支持したり英国の帝国主義戦争に反対したりしていたそうだ。また、70歳でユニタリアンに改宗したそうだ。(p.18)

 八木谷涼子『知って役立つキリスト教大研究』(2001、新潮 OH! 文庫)によると「長老派」とは、予定説のカルヴァンの神学を基礎に置く、謹厳実直・禁欲的というイメージのオカタイ教派のようだ。なんでも聖書に起源をもたない風習を認めないので、クリスマスを禁止していた時期もあったという。

 対して、ユニタリアンは三位一体説を認めない神の単一性(ユニティ)を強調する教派で、インテリ層の進歩的な教派だという。ユニタリアンと近い教派のユニバーサリストは、予定説とまっこう対決の万人救済説をとるらしい。三位一体を認めないので、他の教派からは、異端として見られていたこともあったそうだ。

 そんな保守的な教派から進歩的な教派へ70歳で転向するとは、なかなか並みでない人物だというかんじだ。

 兄フランクは、祖父の死後、二代目ラッセル伯爵を継いだ。内向的な弟と対照的で、活発な性格で自分で望んで寄宿学校に入った。11歳の弟にはじめて幾何学を教えたのもこのフランクだという。オックスフォード大学に入学した後、仏教徒になってパリオル・コレジを追放になった。三度結婚し、アメリカでの離婚手続きの不具合から重婚罪で禁固刑になったこともあるという。訴訟や事情の損失で破産寸前になり、綱渡りのような人生を歩んでいたようだ。(pp.114-115)ラッセルが中国で客死したという誤報を日本新聞が報じたときに「そんな馬鹿なことが――バーティーがおれに黙って中国で死ぬなんて」といった。(p.213)

その他のラッセルの家族としては、叔父のロロと叔母のアガサがいた。叔父のロロは、ラッセルの科学に関する関心をかきたてた最初の人物ということだ。この人は、科学的な内容を盛り込んだ”詩”をつくっていたそうだ。(『吾輩は猫である』に出て来る「巨人引力」みたいなもん?)

 ところで、バートランドの愛称はバーティーだったそうだ。そして、彼にはアガサという名前の叔母さんがいた! となると、気になるのはラッセル家の従僕の名前だ! (残念ながら記述はない)

ジーヴズの事件簿―才智縦横の巻 (文春文庫)

ジーヴズの事件簿―才智縦横の巻 (文春文庫)

  • 教育
    • 初等教育

 バートランドは、初等教育は家庭で受けていた。ケンブリッジ大学に入学するために、古典語(ギリシャ語とラテン語)を勉強する必要があったので、「クラマー」という士官学校を受験する子供たち用の学校に通ったそうだが、それ以外は学校には行かなかったようだ。(p.31)

    • 語学

 バートランドは、英語のほかにドイツ語・フランス語・イタリア語を自由に使えたそうだが、ギリシャ語とラテン語は、同時代の他の哲学者たちと違って自由に操れなかったそうだ。これは、バートランドパブリックスクールに通って6年かけてこれらの言語を学ぶ代わりに「クラマー」で18ヵ月で勉強したからだ。(p.32)

とりあえず、今回はこれくらいにして、次回はラッセルのケンブリッジ入学以降のエピソードを紹介したい。

花田清輝「サラリーマン訓」

 花田清輝「サラリーマン訓」(『増補・冒険と日和見』(創樹社、1973))が、会社社会における人間関係のあるべき姿としてとても示唆的だったので、感銘を受けた部分を一部引用してみました。

 入社した以上、社長をはじめ、すべて、長と名のつく社の幹部諸君にたいしては、つねに、アワレミの心をもって接すること。資本家だとか、資本家の手先だとかいって、かれらにたいして、絶えず反抗の気勢を示すことをもって義務のように心得ているひとがあるが、資本家といえども、人間である。しかも、ただの人間ではない。やがて没落して、きみからアゴのさきで使われる運命にある気の毒な人間である。
 第一、きみのようなオソルベキ人間をやとっているだけでも、十分、同情に値する。したがって、かれらが、きみにむかってお辞儀をしたようなばあいには、きみのほうでも三度のうち一度くらいは、答礼してやること。それが、人間の人間にたいする当然のエチケットというものである。
(強調、引用者)

 なにか社用を命ぜられたようなばあいには、ちょっとせせら笑っていかにその用事が不急不要のものであるかを力説し、大いにきみに見識のあるところをみせるがいい。「君子は、重からざれば、威なし」という格言がある。数回、これを繰り返すと、ついに相手も、みずから無知を恥じ、その後は、絶対にきみに用事をたのまなくなる。

 万一、――たぶん、社長のお声がかりで入社したきみのことだから、そんなことはあるまいが――万一、クビだといわれても、素直にひきさがってはいけない。友人のボクサーを会社へ案内して、軽く社長のアゴをなでてもらうがいい。
 一度、この手をつかったときな、社長は六階の社長室から、自動車を目ざして、まっしぐらに会談を走りおりていったが、その道中のあいだ、社長を助けようとする社員が、一人としていなかったのには驚いた。みな、ニヤニヤしているのだ。まことに社長というやつは、孤独な存在である。

タイトルから分かる通り、この文章はスウィフトの『奴婢訓』をもじったものなんでしょうね。ブラック企業の話題とかアカデミックハラスメントとかに関する精神的に追い詰められるような話を読んでしまったときに、解毒剤として読み返す文章です。『冒険と日和見』や『花田清輝全集』は手に入りづらいかもしれませんが、次の本にも全文が収録されています。

高校生のための批評入門

高校生のための批評入門

いつか、「高校生訓」、「大学生訓」、「大学院生訓」、「アルバイター訓」、「フリー訓」、「プログラマ訓」とか書かれるかもしれないですね。

「アイン・ランドの著作と哲学への読者案内」

 アイン・ランドの"Anthem"のペーパーバックを買ったら、ランドの生涯や著作についての簡単な解説が巻末についていた。町山智広『99%対1% アメリカ格差ウォーズ』(2012、講談社)に紹介されていた Anne Conover Heller の"Ayn Rand and the world she made(2010,Ancor)"(『アイン・ランドと彼女の作った世界』) を今度読んでみようかなと思っているので予習として読んで、一部訳してみました。(そんなに目新しい情報はありませんが。。)

Ayn Rand and the World She Made

Ayn Rand and the World She Made

アイン・ランドの著作と哲学への読者案内

  1. アイン・ランドについて

 アイン・ランドはロシアのセント・ペテルスブルグに、1905 年 2 月 2 日に生まれた。六歳の時に、読書を覚え二年後にフランスの子供向けの雑誌のなかに最初のフィクションのヒーローを発見した。それから英雄のヴィジョンを捉える事が彼女の生涯の一貫した支えとなった。九歳の時に、彼女は小説家になることを決意した。ロシア文化の神秘主義と集団主義への徹底した反感から、彼女は自分をヨーロッパの作家として考えていた。特にウォルター・スコットや、彼女が崇拝していた作家、ヴィクトル・ユーゴーに出会ったからその思いは強くなった。
 高校生のときに、ランドはケレンスキーの革命(彼女はこれを支持した)と 1917 年のボルシェビキの革命の両方の目撃者となった。戦禍から逃れるために、家族はクリミアへ渡った。彼女はそこで高校を終了した。最終的に共産主義者が勝利したことによってランドの父の薬局は没収され一家の窮乏に近い生活を強いられた。高校時代の最後の年にアメリカの歴史を教えられたとき、彼女は直ちにアメリカを自由な人間の国のあるべき姿の規範として捉えるようになった。
 一家がクリミアから帰還し、ランドはペテログラード大に入学し哲学と歴史を学んだ。灰色の生活の中で、彼女の大きな楽しみがヨーロッパの映画と演劇を見ることだった。映画ファンが高じて、彼女は国立映画学校に入学し局本の勉強をした。
 1925 年、ランドはアメリカ合衆国の親せきに会いに行くという名目でソ連邦を離れる許可を得た。ソビエト当局には滞在は短いものになると伝えていたが、もうロシアに戻らないことを決意していた。1926 年の 2 月にニューヨークに到着しシカゴの親戚のもとで六カ月を過ごしたあと、ビザの延長を手に入れ、脚本家としての仕事を得るためにハリウッドへ向かった。
 ハリウッドについて二日目に、セシル B. デミルが事務所の前に立つランドを見つけた。彼は、映画『キング・オブ・キングス』のセットに立つことを彼女に命じ、最初はエキストラの次にスクリプト・リーダーの仕事を彼女に与えた。その次の週のうちに彼女はある俳優とであった。フランク・オコナー、ランドと 1929 年に結婚することになる人物だった。結婚生活は彼の亡くなるまで五十年間に渡って続いた。
 何年間かの苦闘の日々―執筆以外の様々な仕事をした―最初の映画脚本『赤いポーン』(Red Pawn)が 1932 年にユニバーサル・スタジオに売れた。さらに彼女の最初の舞台劇『一月 16 日の夜』(Night of January 16th)がハリウッドで、続けてブロードウェイで上演された。最初の小説、『われら、生きるもの』(We the Living)が 1933 年に完成したが何年間も出版社に拒絶されつづけ、遂に合衆国ではマクミリアンから英国ではキャッセルから 1936 年に出版された。もっとも自伝的要素の濃い、ソビエト時代の生活をもとにした『われら、生きるもの』はアメリカの知識人や批評家からはあまり受けが良くなかった。アイン・ランドは、半ば共産主義者に文化が支配されていた「赤い十年間」に反する存在だった。
 1935 年に『水源』(The Fountainhead)の執筆を始めた。建築家ハワード・ホークの特性のうちに、彼女ははじめて、自分の執筆の目標である英雄的人物の描写を成し遂げた。理想的な人物、「あるべき存在であり、なすべきことをなす」人物の描写を。『水源』は 12 の出版社に拒絶され、最後にボブス・メリルから刊行された。 1943 年に出版されるとまるまる二年間ベストセラーとなりつづけ、一つの歴史的事件となった。著者は個人主義のチャンピョンとして認識されるようになった。
 1943 年にハリウッドに戻ったアインランドは『水源』の映画化脚本を執筆したが、戦争のため映画の製作は 1948 年まで延期された。製作者のハル・ウォリスのために脚本家としての仕事をしながら、1946 年に大作『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)の執筆を始めた。1951 年にニューヨークに戻ったランドは、『肩をすくめるアトラス』の完成に全精力を傾けた。
 1957 年に出版された『肩をすくめるアトラス』は彼女の最大の達成であり、フィクションとしては最後の作品となった。この小説で、彼女は自分の独特な哲学を知的なミステリー小説の形で提出し、倫理、形而上学、認識論、政治、経済、そして性について語った。彼女は自分のことを本質的にはフィクションの作家だと考えていたが、自分の英雄的なキャラクターたちを造形するためには、そのような諸個人を可能とする哲学原理を確立する必要を認識していた。彼女には「この地上で生きる者のための哲学」を形作る必要があった。
 それ以後は、アイン・ランドは自分の哲学―客観主義についての執筆と講演を行った。 1962 年から 1976 年の期間は自分の定期刊行雑誌に執筆をし、編集した。客観主義と文化への客観主義の応用についてのエッセイを九冊の本にまとめて出版した。アイン・ランドは、1982 年の 5 月 6 日にニュー・ヨークのアパートで亡くなった。
 アイン・ランドが生涯のうちに出版した全ての本は今日でも印刷され、毎年何十万部も売れている。今日までの総発行部数は二千万部にもなる。彼女の人間観と地上に生きる者のための哲学は何千もの読者の人生を変え、アメリカ文化に大きなインパクトを与える哲学的ムーブメントを巻き起こした。

  1. 客観主義のエッセンス

(省略)

  1. アイン・ランドの著作

(タイトル以外は省略)
長編小説
『肩をすくめるアトラス』(1957)

肩をすくめるアトラス

肩をすくめるアトラス

Atlas Shrugged

Atlas Shrugged

『水源』(1943)

水源―The Fountainhead

水源―The Fountainhead

The Fountainhead

The Fountainhead



『アンセム』(1938)

藤森かよこの日本アイン・ランド研究会-論文トップ (<- 日本語訳)

Anthem

Anthem

Ayn Rand's Anthem: The Graphic Novel

Ayn Rand's Anthem: The Graphic Novel

『われら生きるもの』(1936)

われら生きるもの

われら生きるもの

We the Living

We the Living

その他のフィクション
『一月十六日の夜』(1934)

The Night of January 16th

The Night of January 16th

Three Plays: Night of January 16th / Ideal / Think Twice

Three Plays: Night of January 16th / Ideal / Think Twice

『初期のアイン・ランド(1984)

哲学一般
『新しい知識人たちへ』(1961)

For the New Intellectual: The Philosophy of Ayn Rand (50th Anniversary Edition) (Signet)

For the New Intellectual: The Philosophy of Ayn Rand (50th Anniversary Edition) (Signet)


『哲学:誰が必要としているか』(1982)

Philosophy: Who Needs It (The Ayn Rand Library)

Philosophy: Who Needs It (The Ayn Rand Library)

『理性の声:客観主義の思想についてのエッセイ』(1989)

The Voice of Reason: Essays in Objectivist Thought (The Ayn Rand Library)

The Voice of Reason: Essays in Objectivist Thought (The Ayn Rand Library)

認識論
『客観主義の認識論入門』(1990)

Introduction to Objectivist Epistemology: Expanded Second Edition

Introduction to Objectivist Epistemology: Expanded Second Edition

倫理
『利己主義の美徳』(1964)

利己主義という気概ーエゴイズムを積極的に肯定するー

利己主義という気概ーエゴイズムを積極的に肯定するー

The Virtue of Selfishness (Signet)

The Virtue of Selfishness (Signet)

政治
『資本主義:知られざる理想』(1966)

Capitalism: The Unknown Ideal (Signet Shakespeare)

Capitalism: The Unknown Ideal (Signet Shakespeare)

『原始への回帰』(1971)

The Return of the Primitive: The Anti-Industrial Revolution

The Return of the Primitive: The Anti-Industrial Revolution

芸術および文学
『ロマンチック・マニフェスト(1969)

  1. アイン・ランドと客観主義に関する著作

(タイトル以外は省略)
アイン・ランド辞典:客観主義何から何まで(1986)
不吉な類似点:アメリカにおける自由の終わり(1982)
客観主義:アイン・ランドの哲学(1991)
アイン・ランド書簡集(1995)
フィクションの技術(2000)
ノン・フィクションの技術(2001)

  1. アイン・ランド協会について

(省略)

花田清輝・吉本隆明論争 (その 2、「ユートピアの誕生」(『復興期の精神』より))

 1950年代半ばから1960年代初頭にかけて行われた、花田・吉本論争に関わりのある批評・著作を読んでいくシリーズとして、まず『復興期の精神』所収の「ユートピアの誕生」を読んだ。戦時下に連載され、戦後になって単行本として刊行された『復興期の精神』の諸エッセイは、もちろん、時期的には直接は花田・吉本論争に含まれるものではないが、吉本が『芸術的抵抗と挫折』の「情勢論」で批判的に「ユートピアの誕生」に言及し、花田が「大菩薩峠と戦争責任」などで反論するという経緯があるので論争に関係するもっとも初期の文章の一つと言えると思う。

 花田清輝・吉本隆明論争 (その 1、関連した論文) - わが忘れなばを参照。

 『別冊新評 花田清輝の世界』の年譜(福島紀幸、久保覚編)によれば、『復興期の精神』に収められた一連のエッセイは、1941年3月から1943年10月にかけて「ルネッサンス的人間の探求」として『文化組織』などに発表された。『文化組織』は、花田が中野秀人らと 1939年に結成した「文化再出発の会」の機関誌として結成の翌年に創刊された雑誌で、花田はここに『自明の理』(後に『錯乱の論理』に改題)に収められるエッセイ群を既に発表していた。「ユートピアの誕生」は1942年の12月に発表された。

 『復興期の精神』の単行本は、我観社(後の真善美社)から 1947 年に出されたのが最初で、その後角川文庫(1951)、未来社(1959、新たに「笑う男」を増補)、講談社名著シリーズ(1966)、講談社文庫(1974)、講談社学術文庫(1998)、講談社文芸文庫(2008)などとして刊行された。

 また、花田清輝著作集第一巻(未来社、1964)や花田清輝全集第二巻(講談社、1977)にも収められている(『別冊新評 花田清輝の世界』の著作目録など(福島紀幸、久保覚編))。

復興期の精神 (講談社文芸文庫)

復興期の精神 (講談社文芸文庫)

 今回は、 1974年に刊行された講談社文庫版の『復興期の精神』を読んだ(再読だけど、内容はほとんど頭から抜けていた)。『復興期の精神』は、主としてルネッサンス期のヨーロッパの思想家・芸術家を取り上げて論じたエッセイを収めたものだが、「ユートピアの誕生」は題名の通り、トマス・モア(モーア)を取り上げたものだ。冒頭では、イタリアの劇作家ピランデルロの「新しい植民地」が取り上げられている。

 ピランデルロの『新しい植民地』は、大地が揺れはじめ、ひとりの女と、かの女の必死になっていだいている赤ん坊とをのこし、さかまく怒濤が、島と、その島を開拓するために集まってきた人びとを瞬く間にのみこんでしまうことによっておわるのだが――むろん、それは、『新しい植民地』の終焉を物語るものではなく、やがて生きのこった母と子とによってはじめられる、本来の意味における『新しい植民地』の発端を示すものであり、すくなくともルネッサンス期に数多く描かれた聖母子像を連想させる、その幕切れのイメージは、決して我々に暗い印象を与えない。そこでこの作品は、ピランデルロがファシストになった証拠だとされ、それまでかれの作品を特徴づけていた、あの恐るべき懐疑が、ここではまったく影をひそめているといわれる。いかにも怒濤に洗われる巌頭に毅然として立つ古典的な聖母子像のすがたは、現実の否定よりも、その否定の否定である現実の絶対的肯定を、破壊よりも、破壊を通しての建設を、懐疑よりも、懐疑の果てにうまれる揺るぎない信仰を象徴するもののように思われる。にも拘らず、私が、すでにピランデルロの懐疑は、病、膏肓にはいっており、たとえファシストになったにせよ、その結果、全治するような軽傷ではさらさらなく、むしろ、この作品によって打診するならば、もはや、救いがたいまでにその病が重くなっているとするのは、聖母子像の劇的なポーズに誇張をみいだすからではなく、元来、それが「新しい植民地」であり、そうして、「古いユートピア」であるからであった。いつの時代にあってもユートピアとは、懐疑の表現以外のなにものでもないのだ。

 ルイジ・ピランデルロ(1867-1936)、日本語の wikipedia 情報から抜き出すと、 イタリア出身の劇作家で1934年にノーベル文学賞を受賞している。代表作は、「作者を探す六人の登場人物」(1921)。『新しき植民地』(1928)は、岩崎純孝訳で日本出版社から1942年に刊行されたらしい。(花田は、これを読んだ? それとも原書? )

参照: ルイージ・ピランデルロ(Luigi Pirandello)

 ピロンデルロがファシズムに傾斜したとか、ここで述べられている事についてなにか分かったら追記する。

 そのあとに続く部分で、花田は、芸術にあらわれたユートピアに「一片の真実」があるならば、「同時代に対する作者の懐疑が、あくまで真実のもの」であった場合だと述べ、これまでのユートピアを「原始社会の『自由』」に求めたものと「未来社会の『進歩』」として描いたものの二つのタイプに分けられると述べている。そして、どちらもが現代では魅力を失ってしまったと述べる。つまり、原始社会に対しては、「植民地経営の発展が、我々に原始人との直接的な接触の機会を増し」たことにより、未来社会に対しても「資本の有機的構成の高度化が、技術の進歩のいかなるものでるか」を教えたためにそれらに幻想を抱くことができなくなってしまったのだ、という。

 しかし、「ユートピア」というアイデアそのものは、現代でも魅力を失ったものではなく、現代版のユートピアというものが構想しうると述べる。それは、旧来のユートピアが封建的な頸木を脱して自由放任(レッセ・フェール)の状態を夢見ていたのとちょうど反対に、「現在、我々もまた、レッセ・フェールの状態を拘束し、生産と消費とを調和させようとして、同様によろめいていないであろうか」という現状認識に基づいている。そして、現代におけるユートピアがどのように可能であるかを次のような不思議なやり方で示そうとする。

 いったいユートピアが、フライアーのいうように「政治的な島」であり、それ自身の空間に存在する完結的な体系であるとするならば、我々の時代におけるユートピアは、経済的には、単純再生産の表式によって正確に表現されるでもあろう。周知のように、単純再生産の正常な進行のためには、生産手段の生産部門(I)のおける可変資本(V)と剰余価値(m)との和が消費資料の生産部門(II)における不変資本(C)にひとしくなければならず――したがって、I.1000V+1000m=II.2000C なる表式の成立が、普遍の諸事情の下におけるユートピア社会の誕生のためには欠くべからざるものであろう。

 ここで述べられている「単純再生産表式」というアイデアは、ケネーの『経済表』をもとにマルクスが編み出したものだそうだ。(再生産表式 - Wikipedia。またまた、wikepedia 情報で恐縮。。参考文献に挙がっている宇野『経済学原論』を読んだら追記します。)花田が、マルクスの名前を挙げていないのは、戦時下という時局を反映しているのだと思う。

 それは、ともかく、花田はこの表式を本気になって書いているのだろうか? それは、かなり疑わしいように思える。花田は、大真面目にこのような表式を持ちだすことで、現代のユートピアの科学性を示すというよりも、アイロニカルに否定しているのだろう、ちょうど、モアについて、「かれの親しい友人であったエラスムスの語るところによれば、日常の会話においても、どこまでがまじめで、どこからが冗談だがはっきり分からないところがあった」と書いているように、花田も冗談と真面目の区別のつきにくい批評家だ。

 このことの当否は、続く部分で花田が、トマス・モアに「現代の精神的ユートピアン」を仮託し、批判的な意見を述べていることからも判断できる。

 花田は、「そこで我々の問題は、このような表式をはっきり意識している人びとによって、いかなるユートピアが追及されるかをみることにある。(中略)しかるに、いささか意外なことに、かれらの思い描いているユートピアは、倫理的=社会的な、いわば精神的ユートピアとでも称すべきものであった」と話を進める。いささか奇妙なことは、現代版精神的ユートピアンたちが誰、もしくはどのような人たちであるかはっきりとは名指されていないことだ。

 そして、花田は、この現代版ユートピアにもっとも近しい「倫理的=社会的な、いわば精神的ユートピア」の提唱者としてユートピア譚の濫觴たるトマス・モア(モーア)その人を名指しする。その理由は、レッセーフェール以前の封建社会(モアの時代)とレッセフェールに拘束をかけようとしている現代(戦時下)の状況の相似に求められるそうだ(つまり、花田は、ユートピア譚をレッセフェール以前のもの、レッセフェール以後のものと現代(戦時下日本)のものに分けていることが分かる)。

 花田が、はっきりと名指ししていない、(花田の)「身辺にあやしげな精神的ユートピアンの夥しくいる」 、このユートピアンがどのような人物を指しているかは、トマス・モアについての記述によって逆に明らかにされる。花田にって、トマス・モアとは次のような人物だ。

思うに(モアは)典型的なヒューマニストであり、ひたすら中世期の余韻を懐かしむには、あまりにも近代的な性格の持ち主であった。かれは没落してゆく封建勢力の支持者ではなく、徹頭徹尾、新興資本家勢力のイデオローグであったのだ
(強調引用者)

 そして、花田は、モアがブルジョアを代表する市民の立場から、王権に使える立場に”転向”したことと彼が「ユートピア」の構想を抱いたことが、同時期であることを指摘して次のように続ける。

エラスムスは例の揶揄的な調子で、ついにモーアが「宮廷に引きずりこまれた」といっているが、この不屈の闘志をもった外柔内剛の一市民が、容易に敵の手中に捕らえられる筈はない。(中略)はたしてかれは、今まで通り、一市民として「下から」闘争しつづけていっていいものであろうか。それとも、すすめられるままに宮廷に入り、「上から」この危機の克服につとめるべきであろうか。いずれにも多くの効果を期待できない。しかし、だからといって、座視しているわけにはいかず、なんとか決着をつけなければならないのだ。のみならず、かれは、人びととともに、いったい、いかなる場所に向かって試むべきであろうか。このとき、かれの心に浮かんだのは、一応「安定」しているにせよ、苛斂誅求の中世農村のすがたでもなく、一応「自由」であるにせよ、黄金の支配下にあるロンドンやアントワープのすがたでもなく――すなわち、封建主義的でもなく、資本主義的でもない『ユートピア』の未知な風景であった。

 ここで花田が名指しを避けて言及している現代(1942 年当時)の精神的ユートピアンとは、誰なのか? あまり難しく考えなくても、革新官僚岸信介や「大東亜共栄圏」、「五族協和」などの精神的倫理的ユートピアを唱えた右翼ファシストたちが想起される(「文化組織」は右翼の中野正剛の弟中野秀人と共同で作った、また、花田は右翼の三浦義一宅に友人の世話で寄宿していたことがあった。つまり、かれらは花田の近辺にあった)。おそらく、次のような記述が、彼らに対する花田清輝の批判の一矢であり、陰になされた時局批判であり、この文章のクライマックスであるのだろう。

それ(ユートピア)は超階級的=集団主義的な国家の構想であった。そうしてモーアには、それを具体化するためには、ブルジョアの利害を代表したまま宮廷へはいり、現実の国家を「改良」してゆく以外に、方法がないように思われた。このような改良主義的な意図を抱く人びとは、屡々、封建勢力と資本勢力の均衡の上に立つ国家を「超階級的」であるかのごとくに錯覚し、この二つの勢力の妥協を企てながら、なにか素晴らしい『ユートピア』でもつくり上げつつあるかのように思いこむ。近代の官僚によくあるタイプだ。レッセ・フェールの拘束が、時として反動的な意味をもち、かれらの「清廉潔白」や「不偏不党」が、阿諛や迎合と紙一重である所以であろう。しかし、それはこの二つの勢力のいずれをも排除する第三の勢力の――かつて死刑にされ、耳をきられた人びとの子孫によって形づくられた第三の勢力の前景に登場する時代において、はじめていえることだ。
(強調引用者)

 花田は、封建的勢力と新興資本家勢力の釣り合いが取れていなかった時代、前者に対して後者がまだまだ圧倒的に弱かった時代においては、トマス・モアの革新官僚としての道行が「荊刺の道」であったと述べ、ヘンリー八世のカトリック教会への離反にたいして教会側を擁護した結果、斬首された運命を記して「ユートピアの誕生」をしめている。

 さいごに言及されている人物名・作品名を一覧で。

  • (ルイジ)ピランデルロ 『新しい植民地』
  • (アンドレ)マルロー
  • フライアー (だれ? 情報求めます!)
  • (フランソワ)ケネー 『支那の専制政治』、『経済表』
  • (トマス)モーア 『ユートピア』、『ヘンリー八世の擁護』、『対話』
  • ヘンリー八世 『七聖式擁護論』
  • (デジデリウス)エラスムス
  • モレル (だれ? 情報求めます!)
  • (ジョン)コレット
  • マルティン)ルター


ユートピア (岩波文庫)

ユートピア (岩波文庫)

ケネー 経済表 (岩波文庫)

ケネー 経済表 (岩波文庫)

『ナボコフの文学講義』と"Strong Opinions"からナボコフの現実に関する意見

 『ナボコフの文学講義 下』(野島秀勝訳、河出文庫、2012)のフランツ・カフカ「変身」講義に、客観的な「現実」というものが主観的な現実を平均して抽出した産物でしかないと主張する、こんな見解が書いてあった。

 「外套」、「ジキル博士とハイド氏」、それと「変身」、この三つはすべて一般に幻想的作品と呼ばれている。私見によれば、傑出した芸術作品はいかなるものであれ、独特な個人の独特な世界を反映している限り、幻想なのである。しかし、これら三つの物語を幻想と呼ぶとき、その意味はこれらの物語が主題において、一般に現実と呼ばれているものから離れているということだけだ。したがって、いわゆる幻想的作品がいわゆる現実からどのように、どの程度に離れているかを見出すために、現実(原文傍点、引用者注)とはなにか、それを調べてみようと思う。
 タイプの違う三人の男が同じ一つの風景のなかを歩いているとする。一番目の男は、当然与えられてしかるべき休暇をもらってやってきた都会人である。二番目の男は、専門の植物学者。三番目の男は、土地の農夫である。都会人である一番目の男は、いわゆる現実的、常識的、実務的なタイプで、木を木(原文傍店、引用者注)として見、地図を見て自分が歩いている道が、事務所の友人がすすめてくれた立派な料理屋があるニュートンに通じる立派な新道であることを、知っている。植物学者はあたりを見まわし、自分の周囲をまさに植物学の見地から、特定の樹木、草、花、羊歯類といった正確に生物学的に分類された単位という見地から、眺めている。彼にとって、これ(原文傍点、引用者注)こそ現実なのであり、彼にとっては(樫と楡の区別もつかぬ)無神経な旅行者の世界が、幻想的、茫漠とした、夢多き、空想の世界なのである。最後に、土地の農夫は、そこで生まれ育ったので、彼の世界は強く情緒的なものであるという点で前二者とはまったく異なる。彼はあらゆる小道、木の一本一本、小道に落ちる木の影一つ一つを、すべて自分の毎日の仕事、自分の少年時代の温かいつながりのなかで知っている。ほかの二人――平凡な旅行者と植物分類学者――が、この一定の時と一定の場所でまったく知りえようもない無数のささやかな事物やものの姿形を知っている。われらの農夫には、周囲の植物と世界の植物学的概念との関係が理解されるときはないだろう。ひるがえって植物学者には、そこに生まれた者にとって、いわば個人的な思いでの培養液のなかに浮かんでいるあの納屋、あの古い畠、ポプラの木の木陰のあの古い家がいかに大事なものであるか、そのことが理解されることはないだろう。
 かくして、ここに三つの異なった世界――三人の男、それぞれに違った現実(原文傍点、引用者注)を持つ普通の人間がいる。(中略)いずれの場合にも、三人の世界はたがいに全く異なっている、木、道、花、納屋、親指、雨(原文傍点、引用者注)といったこの上なく客観的な言葉にも、それぞれのなかに全く異なった主観的な含蓄、内包がひそんでいるのだから。実際、この主観的な人生はたいへん強いので、いわゆる客観的な存在など空ろなひび割れた殻にしてしまう。客観的現実に戻る道があるとすれば、次のようなものだろう――つまり、これら個々別々の世界をとって、それを完全に混ぜ合わせ、その混合物から一滴すくいとって、それを客観的現実(原文傍点、引用者注)と呼ぶことだ。(中略)
 かくして、現実(原文傍点、引用者注)というとき、われわれは実はこれらすべてのことを――一滴の中に――何百万という個々の現実が混じった混合物の平均的標本を考えているのである。特殊の幻想的作品である「外套」「ジキル博士とハイド氏」「変身」のせかいのような背景に対置して、わたしが現実(原文傍点、引用者注)という言葉を使うのは、このような(人間現実の)意味においてなのである。
 
(pp.143-146)

ナボコフの文学講義 下 (河出文庫)

ナボコフの文学講義 下 (河出文庫)

 この意見とちょっと似た意見を、まえにどこかで読んだな、と思ったら、ナボコフのインタビュー集"Strong Opinions"の中の一編だった(BBC、1962、二つ目のインタビュー)。そこの部分を訳してみた。

 あなたの新しい小説、『青白い炎』では、登場人物の一人が、現実("the reality")は真の芸術にとって主体でも客体でもない、真の芸術はそれ自体の現実を創るのだと言っています。現実はなんでしょうか?

 現実とはまさに主観的な代物だ。ぼくはそれを情報の段階的な蓄積と特殊化とでも定義することしかできない。例えば、ユリを例にしてみよう、あるいはほかのどんな自然物でも構わないが、ユリは普通の人よりも博物学者にとってより現実的だ。しかし植物学者にとってはもっと現実的だ。更にもう一段高い現実がユリを専門としている植物学者によって到達される。いってみれば、どんどん、どんどん現実に近づいていくことができる。しかし決して十分ということはない、なぜなら現実とは無限の階梯であり、知覚の段階であり、ニセの底だからだ。それゆえ、到達することも触れることもできない。ある事物についてはいくらでも知ることができるが決して全てを知ることはできない。それはありえない。だからぼくたちは多かれ少なかれお化けめいたものに囲まれて生きることになる――例えば、この機械がそうだ。これはぼくにとっては完全にお化けみたいなものだ。これについては何一つ分からない、そう全くの神秘だ――ちょうどバイロン卿にとってそうであったように。
(pp.10-11)

Strong Opinions (Penguin Classics)

Strong Opinions (Penguin Classics)

 『文学講義』は 1980 年の死後出版なので、Strong Opinions(1973)より活字になったのは後だが、実際にナボコフが大学で講義していたのは、1941年ごろから『ロリータ』で商業的大成功を収める 1958 年までの間、しかも、講義用のノートを執筆したのは 1940 年だというから、書かれたのは『文学講義』の見解のほうがはるかに先だろう。

 両者とも現実というものが主観に依存したものであると語っている(知識の量によって、真の現実との”差”を定量しようとしているかにも聞こえる Strong Opinions の意見よりもそれぞれのアプローチの多様性を強調する『文学講義』のほうが、ぼくには好ましいけれども)。そして、前者では、一般に客観的「現実」といわれるものは個々人の現実を標本平均したものに過ぎないといい、後者では、真の現実は永遠に到達できない無限の知覚の集積の果てにあると語っている。

 絶対に現実へは到達できないという諦念とそれでもそれぞれの人が無限に近付いていくことができるという希望の両方を抱かせる魅力的な見解と思うけど、なぜ別人の現実に対して「これら個々別々の世界をとって、それを完全に混ぜ合わせ」ることができるのだろうか、という疑問と到達できないにせよ、真の現実というものが存在することはナボコフにとって自明だったのだろうかという疑問を抱いた。

アンスコム「トルーマン氏の学位」 (2/2)

アンスコム「トルーマン氏の学位」 (1/2) - わが忘れなばの続きです。

 近刊の松元雅和『平和主義とは何か』(中公新書、2013)を読んだのですが、 平和主義に向けられる典型的な疑問にこたえる形で、平和主義を絶対平和主義と平和優先主義に分けて説明を精緻化していく前半も、正戦論・現実主義・人道介入主義と対決(対話)してながら、平和優先主義を擁護していく後半も面白くて、説得的でした。アンスコムの「トルーマン氏の学位」の議論は正戦論に近いと思うので、『平和主義とは何か』の議論を踏まえて、感想をいつか書きたいです。

(誤訳は多いと思います。。自分でも気づき次第直していきます。また、ご指摘いただければ、なるべく速やかに反映します。)

原文

http://www.pitt.edu/~mthompso/readings/truman.pdf

II

目的のための手段として罪のないものを殺すことを選択する事は常に謀殺だ。当然、殺すこと自体を目的として罪のないものを殺すこともまた謀殺だ。しかしながら、これ[殺すこと自体を目的として罪のないものを殺すこと]は、わたしたちにとって将来の可能な発展でしかない。わたしたちのいる地球の部分ではこれまでのところナチスに限定された慣習だ。わたしは自分の公式化を厳密に取り扱ってもらうつもりだ。ここでの一語一語は必要不可欠なものだ。罪のないものを殺すことは、たとえ統計的な確実性があることを知っていたとしても、必ずしも謀殺ではない。わたしの言っている意味は軍事的な目標、例えば軍需工場や海軍工廠を多く攻撃すれば、いくら注意深くしたとしても、大量の罪のない人を殺すことになるであろうが、これは謀殺ではないということだ。一方で、その可能性を考慮するときに無法が入り込めば謀殺になる。最近、オランダから受け取った手紙をこの点の例として掲げよう。

わたしたちはあなたのトルーマンへの反論がオランダの新聞に載ったのを読みました。わたしもトルーマンのことは好きではありませんが、戦争中に英国が、ゼーラント州の工廠を爆撃したのはご存知でしょうか? その島から逃げ場はありませんでした。そこでは全ての住人が傷つけられました。子供たち、女性、畑で働いていた農民、何百人も何百人もの人たちがです、わたし達は同盟国民だったのに! 誰もこれについて何も言いません。このことは知られるべきです。あるいは、思い出されるべきです。


これは逃げ出したドイツ軍を捕まえるためのものだった。わたしはなんらかの意味のある返答をしていると思う。


破壊しようと欲している事物(や人物)[だけ]を攻撃目標にすることは不可能かもしれない。大勢の罪のない人々を含む対照を攻撃する事だけが可能なのかもしれない。そのときは人々が偶然で死んだとは言えない。ここでは、この行動は謀殺だった。


「しかし、どこに境界線を引くのか? 正確に線を引くのは不可能だ」これは線引きにおいてよくある馬鹿馬鹿しい批難だ。それは非常に難しいかもしれないし、明らかに境界事例も存在する。しかし全く線を引かないという道に入ってしまえば、自由な世神の持ち主なら悪い冗談としか思えないものを正当化してしまうことになる。どこに線があろうと、確実に線のこちら側もしくはあちら側に属する事柄はあるのだ。


では、戦争において「罪のない」ものとは誰なのか? 戦闘に参加しておらず、戦闘の手段として[物資を]供給していないすべての人である。軍隊が食べるかもしれない小麦を育てている農家は「戦闘の手段として[物資を]供給して」いない。これ以上に線引きは非常に困難であろう。しかしこのこと[線引きが困難であること]は線引きを一切すべきでないことを意味しない。たとえ、どこに線を引いていいかに迷っていたとしても、ある事柄が必ずしも線を越えていないかはっきりできないことを意味しない。


「しかし戦闘している人たちもただ徴兵されただけだ! こういう場合、彼らも他の人たちと同様罪のない人たちだ」”罪のない”とはここでは個人的な責任については一切言及していない言葉なのだ。むしろ「害をなさない」という意味だ。しかし戦闘している人たちは「害をなす」、だから彼らは攻撃されうる。しかし彼らが降参し、この意味で罪のない存在となったときには虐待されたり殺されてはならない。彼らを犯罪人として裁こうとしてもならない。戦闘に対して個人としての責任を負っていないということではなく、彼らが自分の国の主権者ではなく囚人であるからだ。


この時点で先手を制しておくべき必要がある経験から分かっているある議論がある。それは、わたしには明らかな揚げ足取りだと思えるが、こういうものだ。わたしの理論では、兵士を殺すことが許されるのは彼が実際に戦闘中の時だけということになるのではないか? それは例えば、睡眠中の部隊を攻撃することはできないのではないか。その答えはこうだ、「ある人物がしていること」というのは、ある瞬間にその人がしていることもしくはある状況での彼の役割全体だ。武装した兵士はたとえ彼が睡眠していても後者の意味で「害をなす」。しかし敵の戦闘力を奪う以上に残忍に攻撃されてはならないのは真実だ。


これらの考えは明瞭かつ知的なものだ。これは形式的には諸国の法に属するといわれてきた。誰もがそれらを善いものと分かっていて、わたしたちの敵が法を乱したとき、道徳的な怒りを以てそれらに犠牲をささげる。しかし、実際はそれらは去ってしまい、ただかけらだけが残される。アイゼンハワー将軍は、例えば、捕虜への騎士道精神については、ほとんだ話していないと伝えられている。


謀殺よりも殺人の恐怖を語るのは今日の特徴だ。それゆえ、戦時下では自分自身が殺人を犯しているのだから―「必要悪」として―殺す人のことは気にしない。これは、悪の業というふうにみえる。しかし、わたしは平和主義が存在することの影響も疑っている。これ[平和主義]は、多くの人が敬して遠ざけている主張だ。この影響は、何が平和主義の間違いをもたらしているかはっきりと考えれば存在しなくなるだろう。


それゆえ、ある人が別の人を故意に殺すことが必然的に悪いことではないことを示すのが重要だとわたしには思える。大半の人が平和主義を拒否しているのだから、わたしは時間の無駄をしているように見えるかもしれない。しかし、それにもかかわらず、この点を議論する事は重要なのだ。もちろん、人々は国内ではこれを受け入れている。しかし、戦争になると彼らはどんな制約もクイーンズベリー・ルールのようなものだと考えるようだ。-謀殺での有罪と無罪の違いを考える代わりに。


わたしは、個人の自己防衛については議論してない。もし、ある人が彼を攻撃してきた人を殺したとしても事故であることはあるだろう。殺すことが目的の場合は謀殺となりうる。(わたしはこの考えでさえゆきすぎることを怖れている。最近ある男が上司が留守の間に危険なブービートラップを仕掛けて逮捕された)


しかし一国には自国民を護るためあるいはぞっとするような不正を正すために故意の殺人を命じる権威がある。(例えば、ヒトラー[政権下]のユダヤ人の苦境は、戦争の合理的な理由となりえただろう)この理由はとても簡単だ。それ[その理由]は、一国が国内で殺人を命じる権利についてまず考察することでいっそうはっきりするだろう。わたしは死刑について述べているのではなく、反乱が起きたときや暴力的な犯人が捕まった時に起こる出来事について述べている。反乱者や犯人はある場合には[軍事]力によって拘束されるだけだろう。[軍事]力を持たない法は役立たず、法を持たない人間は惨めな存在だ。(わたし達の法律があまりにも多くあまりにも変わりやすいので、はっきりとこのように感じるのは簡単ではないかもしれないが)かなりの程度まで明瞭なことだ。社会が平和であればある程、法の番人による殺人が必要なことがはっきりしなくなるとはいえ。このことは、反乱や大きな暴力行為が起きて法の番人による殺人が必要になったときに完璧に明瞭になるだろう。


死刑自体は全く別の問題だ。国家は死刑を宣告されている犯罪者と戦っているのではない。そういうわけで死刑は必要不可欠ではない。人々は[死刑の]ポイントは抑止力にあるのか復讐にあるのかという議論を続けているが、どちらでもない。抑止力ではないのは、なぜなら、誰もそれを証明していないし、人々は自分たちの偏見通りに考えること考えているからだ。そして復讐でもない。なぜならそれ[復讐]は誰の業でもないからだ。この点については混乱が起きている、というのも国は、犯罪者を罰するといわれ、正しくは言われているだけだが、”罰”は”復讐”を連想させるからだ。そして多くの心優しい人々はこういう考えが嫌なので”矯正”だとか”更生”といった言葉づかいを好む。しかし国がある人の権利を―命をも―奪うことは二つの側から考察されるべきだ。まず、その人自身だ。もし彼が「なぜわたしにこんなことをしたんだ。わたしはこんなことをされるはずはないのに」と言ったら、国は不正をなすことになる。それゆえ、彼が有罪であることが証明されなければならないし、罰としてのみ国家は彼に対して害になることをする権利を有している。罰という概念は厚かましくて権力を持つ人々が行う”善いこと”へのわたしたちの予防手段の一つなのだ。次に国家の側に立ってみると神聖で応報的な正義など関心事ではない。単に人々を保護し犯罪者を拘束する必要があるだけだ。[その犯罪者の]自由や生命を奪う権利があるということの根拠は、その犯罪者が壊死しかけた手・足のように迷惑な存在であるという事だけだ。それゆえ、[国は]彼を完全に切り落としてしまうことができる、もし、彼の犯罪が余りにも悪く「わたしはそんなこと[死刑]には値しない」と自己弁護することができない場合には。しかし、わたしが国がある人を殺す権利の根拠は彼が迷惑な存在であることだというときに、わたしが意味しているのは、彼が犯罪者として迷惑だという事のみだ。罪のないものの命は社会の要点だ、だから他の面で(例えば、介護の困難)その人々を国家が排除することを正当化しない。それは問打にすべき別の事柄ではあるけれども。


そういうわけで有罪であることがはっきりした犯罪者は国が死に追いやるかもしれない唯一の無防備な人物である。必要があるわけではない。もっと情け深い法律を選択することも可能だ。(わたしは、死刑への賛意については何の偏見もない)その他のどんな無防備な人物もこの「害を加えない」という意味で罪のない存在だ。


これは、一国が国民に、他国を不正に攻撃もしくはそれに類することをしてきた敵と戦う事を命じる権利の基礎である。外国の悪のために戦いを命じる権利は、たしかにもっとあやしげなものだが、それは隣人が攻撃されたときに感じる人間に共通の同情のために存在するのだ。


それゆえ、平和主義は間違った考えだ。今では疑いえない。この理由で間違いだと言える、なぜならいつも間違った意識を抱いていたからだ。


わたしは人々がこのように語るのを非常によく聞いてきた「よくいうだろう。『善をなすかも知れないからと言って、悪をなしてはいけない』と」しかし、戦争は悪だ。誰でもが知っている。もちろん、今日でも、絶対平和主義者であることは可能だ。わたしは尊敬はできるが、自分がその一員になることはできないし、他の大部分の人たちにしてもそうだろう。だから、わたし達はこの悪を受け入れなくてはならない。これは、この悪を見ないことではない。そしてそうと決めたら徹底的にやらなければならない。これではわたしが誰かを騙そうとしているかのようだが、誰かが私を止めようとしたらこういう、「絶対的な誠実! わたしは敬意を抱く。でももちろん絶対的な誠実は実際には何の意味もない」


当然のことながら、平和主義が非常に有害な主張であるというわたしの苦情はそれが間違った平和主義であるかに依存している。もし、平和主義が真実の主張であるのなら、この無意味な「理想的な偽善」を推奨することは平和主義の振りとならないだろう。しかし、これは間違いだ。わたしは平和主義は非常に悪いものだと思わざるを得ない。


「戦争は邪悪だ」という言明に対する正し答えは戦争は悪い(bad)、つまり戦争状態にあることの不幸ということだ。そして二つの国が戦っている時疑いもなく少なくともどちらかの国は不正義だ。しかしそのことは戦う事が悪いという事を意味しない。


1939年から1945年までにおきた出来ごとの歴史を振り返るとき、わたしはトル-マン氏が名誉を授けられることの驚きを感じない。しかし、彼の行動をひとつひとつ検討するとき、わたしは改めて驚きを感じる。


実際に[核]爆撃を賞賛し大衆に核兵器保有を推奨する人たちがいる。「わたし達は死によって協定を結んだ、そして地獄によって同意に達した」これでは長期的にはこのような希望のための良き基盤とはならないようだ。


平和主義者たちは、長いあいだ次の点を彼らのプロパガンダのポイントとしてきた。すなわち、人間は破壊のための技術が進歩するほどにますます残忍になったというものだ。そして謀殺を擁護するものが熱心にこの点を強調している。そのためにわたしは今ではこの考えが全世界で広く受け入れられていると思っている。もちろん、これは真実ではない。例えば、ナポレオンの時代には破壊の手段はヘンリー五世に時代よりもはるかに進歩した。しかし、ナポレオンではなくヘンリー五世のほうが市民を大量虐殺したのだ。残忍な行為をしつつ、フランスは罪深い国家で、自分は彼らを罰するという髪の指令を受けているのだと主張していた。もちろん、今日までの、本乙に大規模な虐殺は全く原始的な殺害方法を用いた時代に行われてきたのだ。現代では、兵器は大量生産されている。しかし、責任ある人々が残忍であるのは彼らが兵器を持っているからではなく、彼らが残忍だから兵器を持っているのだ。彼らは、原子爆弾がなくても、他の爆弾を使って虐殺を行っただろう。

力を持たない日々とによる抵抗は時間の無駄だ。わたしは原爆のもとで「抵抗のジェスチャー」をする機会について言ったのではない。わたしはトルーマン氏に名誉を差し出すというわたしたちの行為について猛烈に反対している。なぜなら悪事の罪はその行為を弁護することや賞賛することによって共有されうるからだ。わたしは、副学長や学監たちの態度に困惑した時に、なぜオックスフォードのこんないも多くの人たちがこの男を賞賛するべきかを説明しうるものがないか探している。


わたしは、第一次世界大戦に以来のオックスフォードの道徳哲学の研究成果―最近になって読む機会があったのだが―について考察することでこの主題についていくらかの巧妙を得ている。その特徴は手短に簡単に示すことができる。第二次世界大戦までに流布していたオックスフォードの道徳哲学では、ある行為はそれがなされた結果に関わらず”道徳的に善いもの”になりうると教えてきた。一例が、ヒムラーのユダヤ人絶滅の努力だろう。彼は「至高の価値」を持つ「義務感」ららこれを行った。同じ哲学によって人々のために罪のないものを殺すことが正しいことになりうるかもしれない。なぜならなんらかの利点を確保する「第一義務」が罪のない人を殺さないという「第一義務」より重いかもしれないからだ。この種の哲学は現在では廃れてしまって別のものがその位置に座っているようだ。その[哲学の]重要な原則は、「善」とは「叙述的」なことばではなくて、話者の子のんでいる立場の表明に過ぎないということだ。これと手を取り合って、わたしにはなんらかの論理的な関連が存在するのか分からないが、どんな一般的な律法も不可能と言う主張が現れる。つまり、「嘘をつくな」とか「ソドミーを犯すな」とかの律法は経験豊かな人なら破るべき時が分かっている経験則に過ぎない。それ以上にこれらを履行すべきという選択もここの場合における如才ない対応もどちらもその人の「生活様式」に基づいている。どちらの哲学もある種の行動、たとえば謀殺は絶対に排除すべきという考えは拒絶している。わたしにはこれらの考えがどれほど感染力を持っていたか、もっているかは分からない。


この恥ずべき学位授与を取り消すことはまだ可能だ。記念祭に行かないことは可能だ。