わが忘れなば

備忘録の意味で。タイトルは小沢信男の小説から。

”財界の秘密結社”こと協同調査会の実働部隊を務めた坪内嘉雄の経歴―坪内祐三『総理大臣になりたい』(講談社、2013)感想

 7/11-12 で、坪内祐三『総理大臣になりたい』(講談社、2013)という(ちょっと妙なタイトルの)新刊を読みました。

総理大臣になりたい

総理大臣になりたい

 この本の前半部分では、財界の裏面で活躍(暗躍?)した著者の父・坪内嘉雄(1920-2012)のことが語られていましたが、それが結構興味深い内容でした。(坪内祐三は、『文学を探せ』の後半でもいくらか嘉雄のことを書いていましたが、ここまで委しく書いてはいませんでした。)出たばかりの新刊をあまりネタばらししてしまっては悪いので、興趣を削がない程度に簡単に紹介&感想を述べたいと思います。

 著者は、坪内嘉雄のことを次の様に紹介しています。

私の父は不思議な人でした。東大の法学部を出て、海軍の短期現役士官、通称「短現」として海軍経理学校に進んでいます。これは政治家で言えば中曽根康弘と同じコースです。昭和十九年になると中国に渡り、南京の警備隊や上海の第一海軍経理部隊にいたようです。
 父は一九二〇(大正九)年生まれですから、二十五歳で終戦を迎えています。戦争中は中尉で、戦争が終わったときに大尉になった、いわゆるポツダム大尉です。二十五歳で大尉というのはかなりのエリートで、学歴や経歴を使えば一流企業に入ることだってできたはずですが、どうも日本に戻ってからまともに勤めた痕跡はありません。生前、本人は「王子製紙にちょっと勤めたんだ」とか「渋沢さんの一族に可愛がられたんだ」とか言っていましたが、私が記憶しているのは日本メラミンという会社を経営していたことぐらいです。その会社も工場が爆発して倒産してしまいました。それから、戦後すぐの時期には日本青年会議所の創設の舞台裏で暗躍していたはずですが、それもどこかの会社に属してやったわけではありません。
(pp.15-16)

 坪内嘉雄の父・利八は、愛知一中をトップで、一高をほぼトップで、東京帝大法学部を銀時計組で出て、第一銀行に勤めた人物でした。利八は、学費を援助してくれた織田一(織田信長の家系)という農商務省の官僚の長女と結婚したそうです。また、織田一の次女と結婚したのが、利八と法学部で同窓だった石坂泰三(後に経団連会長)だそうです。

 坪内利八と織田一については次の記事に委しく書かれていました。

2010-02-26 - 神保町系オタオタ日記

 戦後、坪内嘉雄は、”財界四天王”と呼ばれた櫻田武(1904-1985)、小林中(1899-1981)、永野重雄(1900-1984)、水野成夫(1899-1972)という面々に可愛がられたそうで、彼らが幹事を務める共同調査会という組織の実働部隊として働きました。

 坪内嘉雄の財界とのかかわりで、もっとも気になるのは、この”財界の秘密結社”こと協同調査会の実働部隊である「補佐会議」のメンバーであったことです。協同調査会については、著者も引用している中川一徳『メディアの支配者』(講談社、2005)の上巻第四章「梟雄」の「財界の秘密結社」(pp.361-365)に委しく書かれています。『メディアの支配者』の記述から共同調査会の沿革と活動内容を簡単にまとめてみます。

メディアの支配者 上

メディアの支配者 上

 まずは、沿革から。

  • 櫻田武が音頭をとり、当時の戦後新興財閥のトップたちが共産党など左翼対策のために設立した。(名目的な代表は、植村甲午郎
  • 設立は1955年9月、1968年11月に解散するまで13年間活動を続けた。
  • 一部上場企業140社あまりのトップ(会長か社長)によって構成されていた。
  • 組織は、意思決定を司る「幹事会」と実働部隊である「補佐会議」から成っていた。
  • 幹事は、東京では櫻田武、植村甲午郎(1894-1978)、小林中、水野成夫佐藤喜一郎(1894-1974)、永野重雄今里広記(1908-1985)。大阪・名古屋では堀田庄三(1899-1990)、松下幸之助(1894-1989)、芦原義重(1901-2003)、松原与三松(1895−1975)、野淵三治。
  • 幹事会は、月一回東京と大阪のホテルで交互に開かれた。
  • 活動の実務を執った補佐会議のメンバーは、鹿内信隆(1911-1990)、小坂徳三郎(1916-1996)、井深大(1908-1997)、早川勝(1904−1979)、坪内嘉雄など数人で構成された。
  • 補佐会議は、鹿内が中心となって、坪内嘉雄が事務をとり、毎週火曜日に日活ビル(日比谷パークビル、2004年解体)四一五号室の事務所で開かれた。
  • 年会費は、資本金によって一口百万と七十万に分かれ、年間予算は二、三億円に上った。

 これを見ると、補佐会議のメンバーは、おおむね幹事会のメンバーより一回り程度若く、坪内嘉雄はその中でも若い方でした。そして、実際にしていた活動はこんなものだったようです。

  • 公安関係者等を利用して入手した企業内の共産党員リストを企業のトップに示し、「このままではあなたの会社は破壊される。協力して下さい」と呼びかけることで会員獲得。
  • 日教組の分裂工作
  • アメリカへの教員派遣
  • 三井・三池争議の鎮圧
  • 民社党の結党資金の提供(鹿内信隆西村栄一に五億円を手渡したと坪内嘉雄が証言)
  • マスコミ対策(ニッポン放送、フジテレビ、産経新聞を押さえ、財界寄りの報道機関にした)

 このうち三池争議鎮圧にあたって暗躍したことについては『総理大臣になりたい』でも触れられていました。

 また、民社党への資金提供については、『総理大臣になりたい』に、次のような記述がありました。

私の父は民社党を応援していたと言いましたが、それには理由があります。CIAは、岸信介らの自民党親米派や”左派穏健勢力”である社会党右派に資金提供をして、民社党を結成させたわけです。父が生きていたら、そのあたりのことを詳しく話が聞けたと思うのですが。
(p.71)

 産経を水野成夫が手に入れた経緯については、奥村宏『徹底検証 日本の五大新聞』や「産経新聞残酷物語」にも書かれており、それをもとに別ブログに記事を書いた事があります。

”風の生涯”水野成夫のフィクサーぶり - わが忘れなば

 その後、坪内嘉雄は、1963年ごろには、東京音協の専務理事を務めていたそうです。東京音響は、財界が共産党系の労音創価学会系の民音に対抗して作った団体だそうです。東京音協のメンバーは共同調査会・補佐会議のメンバーと重なっていて、鹿内信隆が理事長を務めていました。

 そもそも『メディアの支配者』での坪内嘉雄の証言によると、「当時の共産党は『歌って踊って恋をしよう』と”微笑み路線”で民主青年同盟(共産党の青年組織)や労音に若者を集め、企業内に勢力を拡大し、党員の組織化をおこなっていた。この流れを断とうというのが会の大きな目的だった」(『メディアの支配者』、p.363)ということだそうです。

 東京音協では、ミッチ・ミラー合唱団を招いたり、水原弘のカムバックに関わったりしたそうです。ナベプロの社長にならないかと誘われたこともあったそうです。

 1969年に、共同調査会・補佐会議で同じくメンバーであった小坂徳三郎の選挙を手伝ったりしています。演説下手の小坂に代わって、いろいろなところで演説をし、小坂のトップ当選に貢献したそうです。また、坪内祐三によって、小坂の立候補は、田中角栄などの勢力伸長で潮目が変わってきた政界に対して、財界が自分達の意を受けて動く政治家を担ぎ出すという意味があったと推測されてます。

 1970年の大阪万博に際しても、親戚の石坂泰三・日本万国博覧会協会会長を介して何らかの関わりをもったそうです。 
 東京音協の専務理事は、1970年ごろ(坪内祐三が小学六年生の頃)まで続けていました。

 その後、一時、浪人的な状態だったようですが、1973年に倒産の危機にあったダイヤモンド社の社長に就任しました。これは、メインバンクだった三菱銀行の田中渉が創業者一族の社長石山四郎を追い出して、坪内嘉雄を社長に据えたのだそうです。

 ダイヤモンド社では、「次々と社員をクビにした」そうですが、前田久吉を追い出して産経新聞の社長になった水野成夫が呵責ない首きりを行ったことを連想します。

 また、『メディアの支配者』によると、1992年の日枝久によるフジテレビのクーデターに際しては、日枝のために財界の根回しの労をとったそうです。

 日枝は夕方、経済出版社・ダイヤモンド社会長の坪内嘉雄を訪ねた。坪内には、以前から宏明のことを相談する間柄で、坪内は「そんなに不満なら、取締役会で解任すればいいじゃないか」と大胆にアドバイスしたこともあった。
 解任前夜となって、日枝はこれから先のことを相談に訪れたのである。会長室には、坪内が呼んだアサヒビール会長、樋口廣太郎も姿を見せていた。
 日枝が意を決したように口を開いた。
「実は明日の産経取締役会で議長を解任します」
 坪内は解任を勧めたこともあって、それほど意外という感じはしなかった。
「おお、そうか。やれやれ!」
 坪内はけしかけるように言い放ち、愉快そうに笑った。樋口はさすがに驚いたようだが、日枝を最も強力に盛り立ててきた財界人だったから、すぐに賛同した。日枝は、続けてフジテレビでも解任することを告げ、財界への根回しを坪内や樋口に依頼した。
(『メディアの支配者』、p.132)

 坪内嘉雄は、もともとは鹿内信隆の弟分的存在だったそうですが、世襲を目論む鹿内信隆に反感をもつようになっていたそうです。

 その後、2000年に脅迫容疑で書類送検され、不起訴になったり、自宅が競売に掛けられたりするのですが、これらのことについては、坪内祐三の『文学を探せ』にいくらか委しく書かれていました。(今手元に見つからないので、後で追記するかもしれません)

 2012 年に91歳で亡くなっています。

 なかなか華麗と言えば華麗な生涯、全体的な感想としては、坪内嘉雄は、悪意をもって呼べば財界ゴロ、普通に呼べばフィクサーですが、有力者に食い込んでいく力は、財界四天王の水野成夫を思い起こさせるところもあります。

 残念なのは、戦後の裏面史について相当いろいろ知っているだろうに、回想録のようなものを残してくれなかったことですね。研究者かジャーナリストが聞き書きのようなものを取ってくれてもよかったのに。。坪内祐三や中川一徳が、坪内嘉雄から聞いてまだ発表していない話があるのではないかと妄想してしまいます。

 また、共同調査会については、坪内嘉雄の証言の他は、「記録らしい記録は何も残されていない。」「会については(鹿内)信隆を含めて二、三の財界人がわずかに回想している程度」(『メディアの支配者』)だそうですが、以下のブログによると今里広記の伝記や回想録に共同調査会について記述があるようです。このブログのことは、 twitter 上で junksai5 さんに教えていただきました。どうも、ありがとうございます。

ぴゅあ☆ぴゅあ1949:今里広記 その魅力(7) - livedoor Blog(ブログ)

 今度は、今里広記の回想録も読んでみたいですね。

私の財界交友録―経済界半世紀の舞台裏 (1980年)

私の財界交友録―経済界半世紀の舞台裏 (1980年)

佐々木実『市場と権力―「改革」に憑かれた経済学者の肖像』(講談社)感想と人名索引

6/2-6/3で、経済学者竹中平蔵の評伝、佐々木実『市場と権力―「改革」に憑かれた経済学者の肖像』(講談社、2013)を読みました。

市場と権力 「改革」に憑かれた経済学者の肖像

市場と権力 「改革」に憑かれた経済学者の肖像

twilogでの佐々木実『市場と権力』の検索結果からいくつか抜き出し。

竹中平蔵の評伝、佐々木実『市場と権力』(講談社)、まだパラパラっとしか見てないけど、かっこいい題名にたがわず面白そう。。高校時代の友人が共産党和歌山県委員会の委員長の息子で、竹中自身も民青に正式に加盟していたといってる人もいるらしい。倫理の先生の影響もあって一橋で近経を(続)

佐々木実『市場と権力』(講談社)。悪漢小説って感じ〜。開発銀の同僚・協同研究者を裏切る。やり手官僚(長富裕一郎)の側近になる。大物経済学者(加藤寛)に助教授・教授に取り立てられる。森善朗のブレーンになってからも、鳩山にも小泉にも売り込みに行き。。何でこんな野心家なのか?

佐々木実『市場と権力』第七章。「B層」とかいう言葉は、「郵政民営化・合意形成コミュニケーション戦略」とかいう広報戦略で作った言葉だったのか。。意味は、「IQ が低く、構造改革に賛成」の層。。(A層が「IQが高くて賛成」C層が「IQが高くて反対」)最低すぎて評する言葉もないわ。。

ちなみに「IQが低くて構造改革に反対」の層は、D層じゃない。問題外なんで、名前つける必要もないと。畳みかけるな〜   https://twitter.com/kohaku_nanamor/status/341205023478407170

佐々木実『市場と権力』。竹中平蔵、強力な後ろ盾を得て新しい世界に乗り込んだら周りを全部敵にまわして自分の欲しいものを得ていくの繰り返しだなあ(後ろ盾は、大蔵省では長富祐一郎、大学では加藤寛、内閣では小泉純一郎)。戦国時代に生まれてもいいとこまで行ったろうよ。。

本当に敵ばかり作っていてビックリです。現明大教授の鈴木和志という人は共同研究の成果を知らないうちに単著として発表され、宇沢弘文に本を見せられて宇沢や同僚たちの前で泣きだした、とかあるし。。(『市場と権力』p.60)wikipediaにも書いてあったから有名な話みたいだけど。

佐々木実『市場と権力』。だいたい読んだ。りそな銀行のとこだけちょっと難しかったので、飛ばし飛ばし読んだからそこはもう一回読む。小ネタも大ネタも豊富で面白かった。学者が権力者になったので、野心がついたんだと思ってたけど元々野心家だったのね。映画化して欲しい。

 誰が、竹中役やるといいでしょう? 香川照之とかどうでしょうか。

 上に書いたとおり、竹中平蔵の野心家ぶりに驚いてしまいましたが、めちゃくちゃ面白い本でした。

 この本を読んでも、竹中平蔵にたいして好感や共感はカケラも覚えませんでしたけど、ちょっと空恐ろしい人だな、とは感じました。

 例えば、元自民党税制調査会長、デフレ対策特命委員長の相沢英之は、こんなことを言っています。

「なかなか世渡りが一流だな。打たれ強いというのかあれだけ叩かれても、内心はどうか知らんが、竹中はシャーシャーとしていたな。あれはうまいから、『そうです、先生のおっしゃるとおりです』とかいう。そのときだけはね」
(p.167)

 これは、竹中平蔵小泉内閣で金融担当大臣をしていた頃のエピソードですけど、このとき竹中を叩いていたのは、相沢英之のほかに青木幹雄参議院幹事長(当時)とか麻生太郎政調会長(当時)とかの人たちです。いかに小泉純一郎が後ろ盾にいたとはいえ、青木幹雄にようないかにも海千山千なかんじの政治家を相手にしてこの態度は強いな〜、と思いました。ただ、この強さの源は何なのか? 本書を読んだ印象だと権力欲・野心のようなもの以外、ぼくには想像できませんでした。経済学者として自分の学説(それが「新自由主義」的で、ぼくにはとても賛成できないものであるのはともかくとしても)を政策として遂行させたいという使命感かというと、第七章「郵政民営化」や第八章「インサイドジョブ」を読むとどうもそんな感じではありません。なんだが、自己目的化した権力欲に突き動かされる虚無的な人物像すら想像してしまいました。。(本当にそうかどうかは知りませんが。)

 詳しい感想を書きたいなあ〜、と思ったんですが、出たばっかりの本のネタばらしみたいになっては申し訳ないし、複雑な人物関係をまとめた相関図を作ったら内容の紹介として面白いかな、と思ったんですが、途中で力尽きました。。

 その途中経過で、人名索引を作るとこまでしました。(本[佐々木実『市場と権力―「改革」に憑かれた経済学者の肖像』(講談社、2013年4月30日第一版)]には索引はなかったし、索引を載せたサポートページのようなものもないみたいです。)あっ、「竹中平蔵」の項は抜かしてあります。ほとんど全ページ竹中平蔵の話ですからね。ミスは、あるかもですが。。言うまでもないかもですが、これはぼくが勝手に作ったので、見落としや名前の読み方の間違いなどのミスはぼくの責任です。

 やっぱり、小泉・安倍・ブッシュ(ジュニア)の言及数は多いですね。

 他に多いのはケント・カルダー、木村剛、長富裕一郎、加藤寛西川善文などですね。

 余力あれば、人物相関や感想も後で書きます。

ア行

アカロフ ジョージ ジョージ・アカロフ 318

アッシャー デイビッド デイビッド・アッシャー 145 146

アマコスト マイケル マイケル・アマコスト 131

アルトマン ロジャー ロジャー・アルトマン 131

あいざわひでゆき 相沢英之 167 179 219 相沢 168 169

あおきみきお 青木幹雄 165 青木 166 167

あそうたろう 麻生太郎 136 166 239 286 292 297 麻生 (政調)会長 167 麻生 168 240 243 245 261 麻生大臣 244 麻生首相 298 299

あとだなおすみ 跡田直澄 106

あべしんぞう 安倍晋三 安倍政権/安倍内閣 1 3 8 268 326 安倍晋三 2 7 12 79 127 263 268 安倍総理 8 安倍 10 264 266  安倍官房副長官 128

あんどうつよし 安藤剛史(仮名) 99

いでまさたか 井出正敬 118

いでのぶゆき 井出伸之 123

いのうえむねみち 井上宗迪 44 井上 45

いいじまいさお 飯島勲 264 飯島 265 266 267

いくたまさはる 生田正治 241 295 生田 242 243 245

いけおかずと 池尾和人 153 池尾 154 155

いけだけいじ 池田啓司(仮名) 67 池田 68 69

いけだはやと 池田勇人 38 池田首相 39

いしいなおおこ 石井菜穂子 73 79

いしはらのぶてる 石原伸晃 250

いとうたつや 伊藤達也 157 伊藤 159 162 伊藤副大臣 161

いとうみつる 伊藤満 33 37

いとうぜんいち 伊藤善市 42

いとうたかとし 伊藤隆敏 81

いとうもとしげ 伊藤元重 117 118

いとう テリー テリー伊藤 254

いなばようじ 稲葉陽二 39

いわもとしげる 岩本繁 208 212 岩本理事長 211

ウィリアムズ リン リン・ウィリアムズ 86 130

ヴォーゲル エズラ エズラ・ヴォーゲル 45 131

ヴェブレン ソースティン ソースティン・ヴェブレン 324

うざわひろふみ 宇沢弘文 59 318 320 324 宇沢 60 319

うださこん 宇田左近 238

うえだかずお 植田和男 70

うえだしんや 上田晋也 279 281

うおやしゅういち 魚谷周一 26 27 28

うしおじろう 牛尾治朗 127 296 299

うしばのぶひこ 牛場信彦記念財団 84

エイベル アンドリュー アンドリュー・エイベル 49 50 73 エイベル 50 51 52 60 61 74 エイベル型投資関数 80

エリス チャールズ チャールズ・エリス 187 189

オバマ バラク オバマ大統領 10

オニール ポール ポール・オニール 143 146

おがわかずお 小川一夫 51 58 71 小川 52 63

おぐらせいりつ 小椋正立 65 66 75

おぶちけいぞう 小渕政権/内閣 2 3 8 116 121 271 285 306 307 小渕恵三 118 230 小渕首相 122 123

おおくぼとしみち 大久保利通 178

おおつかこうへい 大塚耕平 219 大塚議員 220 大塚 221

おおたひろこ 大田弘子 10 117 135 264

おおひらまさよし 大平正芳 38 53 56 大平 54 大平研究会 54 大平内閣 228

おかもとゆき 岡素之 9 岡議員 9

おくまさゆき 奥正之 186

おくだひろし 奥田碩 118 262 297 奥田 263 309 310 313

おくやまあきお 奥山章雄 153 192 奥山 155 193 194 197 215 216 奥山会長 209

おちあいのぶはる 落合伸治 209 落合 210 211 213

カ行

カーター ジョン カーター政権 84

カッツ リチャード リチャード・カッツ 144 カッツ 145

カルダー ケント ケント・カルダー 46 55 82 83 88 89 90 139 140 141 142 143 145 146 232

かとうひろし 加藤寛 92 97 104 110 276 加藤 93 98 105 106

かとうこういち 加藤紘一 96 229 230

かとうひでき 加藤秀樹 111

かさまはるお 笠間治雄 223 笠間次席検事 227

かたやまとらのすけ 片山虎之助 261 片山 262

かめおかぎいち 亀岡義一 211 亀岡副理事長 212 213

かめいしずか 亀井静香 240 271 300 亀井 301

かわもとゆうこ 川本裕子 215 308 川本 216

キッシンジャー ヘンリー ヘンリー・キッシンジャー 44 123

ギリトン リチャード リチャード・ギリトン 148

きうちみのる 城内実 257

きむらごう 木村剛 153 192 199 209 214 314 木村 155 156 157 159 161 193 198 210 211 212 213 214 315 316

きしひろゆき 岸博幸 162 170 196 216 221 236 266 岸 212 237 296

きたうちひとし 北内斉 29 北内 30 31 32

きたおかしんいち 北岡伸一 135 136

きたしろかくたろう 北城かく太郎 135

クリストル ウィリアム ウィリアム・クリストル 146

クリストル アーヴィング アーヴィング・クリストル 147

クリントン ビル クリントン政権 4 84 101 130 131 146 174 231 232 クリントン大統領 130 232 ビル・クリントン 133

クルーグマン ポール ポール・クルーグマン 72 269 クルーグマン 270

グリーンスパン アラン アラン・グリーンスパン 302 

くぼりひであき 久保利英明 215

くさかきみんど 日下公人 124 日下会長 125 日下 126

くまさわみさこ 熊沢芙佐子 22

クライン クライン 93

ケーガン ロバート ロバート・ケーガン 146

グリーン マイケル マイケル・グリーン 144

くさのよしろう 草野芳郎 316

ケネディ ジョン ジョン・F・ケネディ 49 ケネディ政権 320

こいずみじゅんいちろう 小泉政権/小泉内閣 1 2 3 4 5 6 7 8 11 12 32 78 103 111 113 114 130 138 141 142 145 151 159 172 174 195 225 237 238 251 252 268 269 273 278 279 284 296 308 309 313 321 322 326 小泉純一郎 3 96 121 136 139 227 230 246 264 273 275 277 288 289 290 291 298 300 303 小泉構造改革 8 小泉 130 137 144 148 149 150 152 155 165 228 229 231 233 240 241 243 244 245 249 250 256 259 265 266 285 299 小泉首相 143 147 154 217 234 235 320 小泉総理 166 178 262 267 297

こいずみじゅんや 小泉純也 227 230

こいずみまたじろう 小泉又次郎 230

こいずみりゅうじ 小泉龍司 257

こむらたけし 小村武 117

こうさいゆたか 香西泰 90 115 117 153 香西 91 155 215

こしだふみはる 越田文治(仮名) 110

ごみひろふみ 五味広(旧字)文 160

サ行

サックス ジェフリー ジェフリー・サックス 72 73 74 83 95 サックス・モデル 80 サックス 93 94

サミュエルソン ポール ポール・サミュエルソン 318

さとうえいさく 佐藤栄作 227

さいとうじろう 斎藤次郎 301

さかあつお 坂篤郎 301

さかもとみつよ(?) 坂本三代 23

さかいやたいち 堺屋太一 118 127 271 堺屋 272

さかきばらえいすけ 榊原英資 46 83

さくらいみつる 櫻井充 258 櫻井 259 260 261

ささがわりょういち 笹川良一 111 115

ささがわようへい 笹川陽平 111

さぬきとしお 佐貫利雄 40 62 64 104 佐貫 41 42 43 63 105 106

さわたかみつ 佐和隆光 93 95 96

シードマン ウィリアム ウィリアム・シードマン 148

ジョンソン チャルマーズ チャルマーズ・ジョンソン 45 89

ジョンソン リンドン リンドン・ジョンソン 49 ジョンソン政権 320

しとうあきお 市東昭夫 44

しいなたけお 椎名武雄 41

しおのやゆういち 塩野谷祐一 66

しまだはるお 島田晴雄 136 145

しまさとし 島聡 138

しもむらおさむ 下村治 39 59

しもむらとらたろう 下村寅太郎 30

スティグリッツ ジョゼフ ジョゼフ・スティグリッツ 318

すがよしお 菅義偉 299

すぎいたかし  杉井孝 117

すずきさんというひと 鈴木さんという人 20

すずきかずゆき 鈴木和志 51 60 71 鈴木 52 61 62

すずきぜんこう 鈴木善幸 38 92

すずきたかひろ 鈴木崇弘 111 鈴木 112 115 125 126 127 129 134 136

すずきとしふみ 鈴木敏文 118

すずきてつお 鈴木哲夫 266 鈴木 267

セイン ジョン ジョン・セイン 183 セイン 184 185

ゼーリック ロバート ロバート・ゼーリック 123 142 259 ゼーリック 260 261

せことしひこ 瀬古利彦 47

ソロス ジョージ ジョージ・ソロス 302

そんまさよし 孫正義 110 125

タ行

タイソン ローラ ローラ・タイソン 131 132

ダガー ロバート ロバート・ダガー 148

たなかかくえい 田中角栄 40 41 227 229 田中 230

たかぎしょうきち 高木祥吉 168 高木 169 219 221 高木監督局長 220

たかはしあつし 高橋温 171

たかはしのぶあき 高橋伸彰 62

たかはしよういち 高橋洋一 237 238 264 265 266

たかばやしきくお 高林喜久雄 70 高林 71

たけうちさわこ 竹内佐和子 118

たけしたのぼる 竹下内閣 229 竹下登 230

たけなかあきこ 竹中那蔵・明子 19 明子 23

たけなかせつこ (竹中)節子 33 34 36 37 44

たけなかくにぞう(?) 竹中那蔵・明子 19 竹中那蔵 20

たけなかのぶお 竹中宣雄 309 311 宣雄 313

たちりゅういちろう 舘龍一郎 53 舘 54

ただきけいいち 但木敬一 225 226

たわらそういちろう 田原総一郎 249 田原 252

たんごやすたけ 丹呉泰健 265

チェイニー ディック ディック・チェイニー 146

チェイニー リン リン・チェイニー 146  

チェンバース ジョン ジョン・チェンバース 125

ちだりょうきち 千田亮吉 71 73

つえむらけんいち 杖村賢一 26 27

つじめぐみ 辻恵 306 辻議員 307

テイラー ジョン ジョン・テイラー 172

てらしまさねろう 寺島実郎 321

てらだちよの 寺田千代乃 118

トービン トービン 93

トルシエ フィリップ フィリップ・トルシエ 146

ドーハティ アンドリュー アンドリュー・ドーハティ 89

とくがわよしむね 徳川吉宗 八代将軍吉宗 21

どみつとしお 土光敏夫 92

とよたしょういちろう 豊田章一郎 310

とりいやすひこ 鳥居泰彦 117

としかわたかお 歳川隆雄 232

ナ行

なかがわひでなお 中川秀直 127 129 130 266 299 中川官房長官 128

なかがわまさはる 中川雅治 256 中川 257

なかそねやすひろ 中曽根内閣 229

なかはらのぶゆき 中原伸之 155

なかむらけいいちろう 中村慶一郎 129 中村 130

なかむらじろう 中村治朗(仮名) 33 34

なかやまいちろう  中山伊知郎 30

なかやいわお 中谷巌 118 119 285 中谷 120 121

ながつまあきら 長妻昭 169

ながとみゆういちろう 長富祐一郎 53 57 66 67 81 91 長富 54 55 56 57 63 68 69 70 71 72 77 78 82 97 100 115

ながのあつし 長野あつし 117

なんぶやすゆき 南部靖之 326 南部 327

ニュートン力学 324

にしかわよしふみ 西川善文 171 181 183 184 190 261 262 280 295 296 西川 182 183 185 186 187 188 189 263 297 西川社長 299

ぬかがふくし 額賀福志郎 117

のぐちあさひ 野口旭 270 野口 271

のなかひろむ 野中広務 230

のむらなおき 野村直樹(仮名) 28 29 32

のむらしゅうや 野村修也 162 215 野村 163 216 217 221

ハ行

ハーヴェイ デヴィッド  デヴィッド・ハーヴェイ  1 

ハバート グレン グレン・ハバード 142 146 151 173 303 ハバード 148 149 152 173 174 175 304 305

ハルバースタム ディヴィッド ディヴィッド・ハルバースタム 320

ハンティントン サミュエル サミュエル・ハンティントン 46

バウチャー バウチャー報道官 172

バーグステン フレッド フレッド・バーグステン 84 120 123 132 バーグステン 85 87 101

パトリック ヒュー ヒュー・パトリック 99 131 パトリック 100

パール リチャード リチャード・パール 146

はしもととおる 橋下徹 11 橋下代表 12

はしもとりゅうたろう 橋本龍太郎 117 136 231 橋本政権 115 238 251 252 橋本 118 橋本派 165 橋本内閣 252

はしやまれいじろう 橋山禮治郎 38 92 93 橋山 39 40 98 101

はとやまゆきお 鳩山由紀夫 134 290 300 鳩山 137 138 鳩山内閣 301

はとやまくにお 鳩山邦夫 286 292 鳩山大臣 294 鳩山総務大臣 296 299

はまかたけお 浜渦武生 266

はまだこういち 浜田宏一 79 80 81

はやしまりこ 林真理子 114

はらだあきお 原田明夫 225

ひろなかじゅんいちろう 弘中淳惇一郎 315

ファガーソン チャールズ チャールズ・ファガーソン 302

ブラインダー アラン アラン・ブラインダー 270

ブルッキングス ブルッキングス研究所 84

ふりかどゆきひで 振角秀行 293

ひらぬまたけお 平沼赳夫 157

ひらたさとし 平田聡 196 197 213 平田 200 201 202 203 204 205 206 207 208 209 214

ひぐちこうたろう 樋口広(旧字)太郎 118 121 127 樋口議長 119 樋口アサヒビール会長 122

フェルドシュタイン マーチン マーチン・フェルドシュタイン 4 74 75 302 323 フェルドシュタイン 76 80 303

フォーリー トーマス トーマス・フォーリー 141

フランケル ジェフリー ジェフリー・フランケル 75

フリードマン ミルトン ミルトン・フリードマン 94 323 フリードマン 93 

ブッシュ ジョージ (シニア) ジョージ・ブッシュ 85 ブッシュ前政権 232

ブッシュ ジョージ (ジュニア) ジョージ・ブッシュ 133 ブッシュ政権 138 141 144 145 146 147 151 173 174 175 183 235 247 248 260 278 280 303 ブッシュ大統領 142 143 147 150 245 246 ブッシュ 144 148 149 152

ふくいとしひこ 福井俊彦 156 291

ふくだたけお 福田赳夫 40 56 227

ふくだやすお 福田官房長官 128

ふじたでん 藤田田 109 111 210 藤田 110

ふじわらまさひろ 藤原雅弘(仮名) 205 藤原 206

ふるかわようすけ 古川洋介(仮名) 108 古川 109

ベーカー ハワード ハワード・ベーカー 141 ベーカー大使 142 173

ベゾス ジェフリー ジェフリー・ベゾス 125

ボルカ― ポール ポール・ボルカー 302

ポールソンヘンリー ヘンリー・ポールソン 181 280 ポールソン 182 183 184 187 188 189 281 282 283

ほそかわもりひろ 細川護煕 119 細川内閣 301

ほそのゆうじ 細野祐二 156 211 細野 212

ほりうちみつお 堀内光雄 166 245

ほんままさあき 本間正明 78 105 115 本間 79 106

マ行

マクラマナ ロバート ロバート・マクナマラ 112 320 マクナマラ 317 318 マクナマラ国防長官 319

マーシャル アルフレッド アルフレッド・マーシャル 30

マーシャル ジャーマン ジャーマン・マーシャル基金 84

マルクス マルクス経済学 30 32

まがらあきひろ 真柄昭宏 162 236

まえだてるのぶ 前田照晃伸 172

まえはらせいじ 前原誠司 12

まちだとおる 町田徹 230

まつおくにひろ 松尾邦弘 223 225 松尾検事総長 226 227

まきはらいづる 牧原出 56

みきしげみつ 三木繁光 171

みきたけお 三木武夫 129

みきたにひろし 三木谷浩史 125 325

みさわみよじ 三澤千代治 309 三澤 310 311 312 313

みずのたかのり 水野隆徳 85

みずたにかずお 水谷和生 312

みつせひろみつ(?) 三瀬博三 20 三瀬 21

みつづかひろし 三塚博 117

みやうちぎさく 宮内義作 286

みやうちよしひこ 宮内義彦 127 135 286 291 294 296 308 宮内 287 288 289 290 292 295

みやけじゅんいち 三宅純一 119 三宅 120 122

みやざわきいち 宮澤喜一 39 130 宮澤政権 96 宮澤内閣 230 249

むらかみよしあき 村上世彰 291

むらやまおさむ 村山治 223 村山 224 225 226

モンデール ウォルター ウォルター・モンデール 141

もりあきはる 森昭治 159

もりいさお 森功 288

もりきみたか 森公高 200 森 203 204 205

もりちかし 森口親司 63

もりみのる 森稔 118 121

もりよしろう 森政権/森内閣 123 135 136 138 237 森善朗 121 122 森首相 127 128 129 130 133 134 137 289

もりもとみちお 森本道夫 24 27 森本 25

ヤ行

やしろなおひろ 八代尚宏 136 264

やすだぜんじろう 安田善次郎 209

やなぎさわはくお 柳澤伯夫 149 156 柳澤 151 152 182 柳澤前大臣 154 159

やなせゆきお 梁瀬行雄 308

やまざきあきつぐ 山崎晃嗣 109

やまざきたく 山崎拓 166 229 230 231

やまぐちしゅんいち 山口俊一 244 山口 245

やまぐちじろう 山口二郎 283

やまぐちやすし 山口泰 274 275 山口 276 277

よしだかずお 吉田和男 47 57 115 117 135 136 153 吉田 48 58 155

よしだたかし 吉田孝 34 35 36 37

よしだたろういち 吉田太郎一 35 36 68

ラ行

ライシャワー エドウィン エドウィン・ライシャワー 46 エドウィン・O・ライシャワー 139 ライシャワー教授 140

ライス コンドリーザ コンドリーザ・ライス 144

ラインハート ビンセント ビンセンセント・ラインハート 278 ラインハート 279

リンゼー ローレンス ローレンス・リンゼ― 142 145 146 リンゼー 143

レオンチェフ 93

レーガン ロナルド レーガン政権 4 48 49 72 74 75 130 323 ロナルド・レーガン 44 85 レーガン大統領 48 141 ロナルド・レーガン元大統領 282

ロビンズ ライオネル ライオネル・ロビンズ 319

ローレンス サマーズ ローレンス・サマーズ 4 72 95 303

ろうやましょういち 蝋(旧字)山昌一 78 106

ワ行

わきもとひろし 脇本弘(仮名) 22

わたなべあきひこ 渡邉明彦 43 71 渡邉 63

わたなべつねお 渡邉恒雄 189 渡邉 190

わたなべよしみ 渡辺喜美 12

その他

びーきょうじゅ B教授 106

松元雅和『平和主義とは何か』(中公新書、2013)

しばらく記録をサボってました。

松元雅和『平和主義とは何か』(中公新書、2013)は、twilog kohaku(@kohaku_nanamori)/「平和主義とは何か」の検索結果 - Twilogをみると、3/26-3/28 に読了していました。

twitter に書いた感想から。

松本雅和『平和主義とは何か』(中公新書)買った。これは面白そう! パラパラと見た感じではアンスコムの名前はなさそうだけど、内容的には関係してると思う。
23:19:40 2013年03月26日(火)

松元雅和『平和主義とは何か』。読了。アンスコムとか石橋正嗣とか読んでたこともあって、とてもおもしろかった! 平和主義に向けられる典型的な疑問にこたえる形で、平和主義を絶対平和主義と平和優先主義に分けて説明を精緻化していく前半も(続)
12:02:35 2013年03月28日(木)

(続)正戦論・現実主義・人道介入主義と対決(対話)して後半も面白かった。アンスコムの「トルーマン氏の学位」の議論は正戦論だと思うので、『平和主義とは何か』の議論を踏まえて、感想をいつか書きたい。
12:04:10 2013年03月28日(木)

『平和主義とは何か』、最近読んだブリュクモン『人道的帝国主義』や『非武装中立論』、アンスコムトルーマン氏の学位」(正戦論的に絶対平和主義を批判)の各見解への見取り図が得られそ。 https://twitter.com/kohaku_nanamor/status/317109434218336256https://twitter.com/kohaku_nanamor/status/317109831767044096
15:31:09 2013年03月28日(木)

松元雅和『平和主義とは何か』。しかし、これを読むと平和優先主義は、絶対平和主義より正戦論との距離の方が近いように、ぼくには見える。。。
11:59:32 2013年03月29日(金)

「石橋正嗣」は、「石橋政嗣」の間違いですね。すみません。。

読んだのは、もちろん、石橋の著書、『非武装中立論』(1980、社会新書)のことです。この本は、『平和主義とは何か』の分析を踏まえると、「現実主義」の理路を用いた(「現実主義」と対話した)平和優先主義ということになりましょうかね。

上に書いたように大変面白い本だったので、詳しい感想を書きたいと思ったんですけど、もう細かい内容がおぼろげに。。。

ナボコフ家の人々の共感覚についてや「現実とは主観的なものだ」という意見、『ロリータ』創作余談などがおもしろかった、ナボコフのBBCインタビュー――”Strong Opinions”から

 ウラジミール・ナボコフのインタビューや編集者への手紙、雑誌に載せた記事を収めた本、"Strong Opinions"(1973)についてはこれまでも本ブログで何回か面白そうなところを取り上げてきた。たとえば、ここ”考えることは天才的、書くものは並はずれた作家のもの、喋ると子供みたい”-V. ナボコフ, "Strong Opinions" の感想 - わが忘れなばとかここナボコフによるサルトル『嘔吐』(英訳)書評の感想-(V. ナボコフ, "Strong Opinions" から "SARTRE'S FIRST TRY") - わが忘れなばとか。

 最近また読みなおしてみてもおもしろかったので、二つ目に収録されている BBC によるインタビュー(1962)を紹介してみたい。ナボコフはここで、質問に答えながら、自分の認識論みたいなもの、(といってよいのかな? 『ナボコフの文学講義』にも出て来る現実="reality"とはきわめて主観的なものだという考え)やナボコフの二大アイコンであるチェスと蝶について、また、ナボコフ家の人々(ナボコフ、妻ヴェーラ、一人息子のドミートリ)が持っているという文字から色を感じる能力についてなど語っている。

 こんな感じ。

(訳はまあ、ぼくがしたものだからいろいろ間違いはいっぱいありましょう。。ご指摘いただければ、速やかに反映します。自分でも気付き次第直していきます。あと、原文はネットで読めるようですね。Nabokov's interview. (02) BBC Television [1962]

ロシアに帰国なさるおつもりはありますか?

 ぼくは絶対に戻るつもりはないよ、簡単な理由でぼくにとって必要なロシアはつねにぼくと共にあるからだ。それは文学、言語、そしてぼく自身の子供時代だ。ぼくは決して戻らない。決して降伏しない。それにどうしたって、警察国家のグロテスクな幻影をぼくの人生から払いのけることはないだろう。ロシアでぼくの作品が知られているとは思えない―ああ、たぶんかなりの数の読者はいるだろうね、でも忘れないでほしい。ロシアでは人びとは何を読んで何を考えるべきかを強制されている上にこの四十年間でとてつもなく野蛮になってしまったことを。ぼくは、アメリカでは他のどの国にいるよりも幸福を感じる。ぼくが自分の最良の読者を見出し、ぼくと最も考えの近い人々と出会ったのはアメリカでだよ。アメリカはぼくにとって知的な意味での故郷だ。ことばの真の意味における第二の故郷だ。


あなたは鱗翅類の専門家なのですか?

 そう、ぼくは鱗翅類の分類・変種・進化・構造・分布・習慣に興味をもっている。こういうとすごく大したことのように聞こえるけど、実際はぼくはある特定の蝶の専門家であるにすぎない。蝶についてのいくつかの研究をいろいろな専門の科学雑誌に寄稿してきた。――でももういちど繰り返しておきたいのは、ぼくの蝶に関する関心はもっぱら科学的なものだということだ。


あなたのお書きになるものとなんらかの関係はあるのでしょうか?

 大きな意味でならある、なぜならぼくは芸術作品においてはこの二つのもの、詩の正確さと純粋科学の興奮のある種の融合が存在すると考えているからだ。


新作『青白い炎』で、登場人物の一人が現実とは真の芸術にとって主題でも目的でもない、芸術はそれ自体の固有の現実を創りだすのだ、と言っています。現実とはなんなのですか? 

 現実とはまさに主観的な代物だ。ぼくはそれを情報の段階的な蓄積と特殊化とでも定義することしかできない。例えば、ユリを例にしてみよう、あるいはほかのどんな自然物でも構わないが、ユリは普通の人よりも博物学者にとってより現実的だ。しかし植物学者にとってはもっと現実的だ。更にもう一段高い現実がユリを専門としている植物学者によって到達される。いってみれば、どんどん、どんどん現実に近づいていくことができる。しかし決して十分ということはない、なぜなら現実とは無限の階梯であり、知覚の段階であり、ニセの底だからだ。それゆえ、到達することも触れることもできない。ある事物についてはいくらでも知ることができるが決して全てを知ることはできない。それはありえない。だからぼくたちは多かれ少なかれお化けめいたものに囲まれて生きることになる――例えば、この機械がそうだ。これはぼくにとっては完全にお化けみたいなものだ。これについては何一つ分からない、そう全くの神秘だ――ちょうどバイロン卿にとってそうであったように。


あなたは現実は非常に主観的なものだとおっしゃいましたが、あなたの本を読んでいると、あなたは(読者を)文学的に欺くことに皮肉な喜びを感じているように見えます。

 詰めチェスにおける偽手、手品師の行う奇術だね。ぼくは小さい頃よく手品をしたんだよ。簡単な手品が大好きだったんだ。水をワインに変えるとか、そんなものが。だけどぼくのような人はたくさんいると思うんだ、なぜなら全ての芸術は詐術なのだし、自然もまたそうなのだから。君は詩の歴史がどういうふうに始まったか知っているかい? ぼくはいつもこう思っている。穴居人の少年が生い茂った草原を走って洞窟に戻ってきて「狼だ、狼だ」と叫ぶのだが、狼はいないんだ。猿人に近い彼の両親は、真実について厳格なので、彼を鞭で打ちすえたが、間違いなく、詩は生まれたのだ。ホラ話(tall story)が、草原(tall grass)から生まれたんだ。


あなたはチェスや手品といったゲームの詐術についてお話になりましたが、あなた自身そういったものがお好きなのですか? 

 ぼくはチェスが好きだ。でも、チェスにおいて詐術はこのゲームの一部分でしかない。悦ばしい可能性、幻想、先を見通す思考、もちろんまちがっている場合もある、の結合の一部だ。ぼくは素晴らしい結合はいつでも詐術的な要素を含んでいるものだと思うね。


あなたは子供の頃のロシアの手品について言及されましたが、あなたのご本の中でもっと強烈な文章は失われた子供時代の思い出に関するものだったと思っている人もいます。記憶とはあなたにとってどのような重要性をもつものなのでしょう? 

 記憶とは、芸術家が使う数々の道具のうちの一つだ。そして、ある種の記憶は、たぶん感情的な記憶ではなく知的な記憶がそうなのだが、非常にもろいもので作者によって本の中に埋め込まれたり、登場人物たちに貸し与えてしまうと現実味を失ってしまいがちなんだ。


それはいったん作品に描くと思い出が色あせるという意味でしょうか? 

 ときにはね、だけどこれはある種の知的な記憶についてだけのことだ。しかし、たとえば、半世紀前のある夏の日に捕虫網をもって階段を駆け降りたぼくが感じた生家の客間に飾り付けられた花々の鮮やかさ。この種のことは完全に永遠不滅だ。決して変化することはない。何回でも登場人物たちに貸すことができる。こういった記憶はつねにぼくと共にある。赤い砂、白い庭のベンチ、黒いもみの木たち、全てが永久保存だ。これは全て愛に関わることだと思う。記憶への愛情が強いほど、それは強く奇妙なものになっていくんだ。ぼくが古い記憶、子供時代の記憶へ後の時代の記憶よりも熱い愛情を抱いているのは当然のことだと思う。だからぼくの頭の中では、イングランドでのケンブリッジやニュー・イングランドでのケンブリッジの記憶はやや薄れてしまっている。


あなたのような強烈な記憶力は創作の欲求に宿ったとお考えでしょうか? 

いや、そうは思わない。


同じような出来事がときには少しだけ形を変えて、何度も何も起きていますね。 

それは僕の小説の登場人物しだいだ。


長年アメリカで生活されていますが、いまだに御自身をロシア人だと感じていますか? 

 ぼくはまさにロシア人だと感じている。そしてぼくのロシア語で書いた作品―いくつもの長編小説に、詩、そして短編小説は、一種のロシアへの捧げものだと思っている。たぶんそれらはロシアでの子供時代が消失してしまったことによるショックが引き起こした大小の波なんだ。そして、最近ぼくは彼女への捧げものをプーシキンについての英語での仕事で行った。


なぜプーシキンについてそんなに熱烈な関心をもつのですか? 

 まずは翻訳、文学的な翻訳から始まった。ぼくは、それがとても困難な仕事だと思ったが、困難であれぼあるほど楽しいものにも思えた。だからプーシキンについてはあまりこだわってはいない――もちろんぼくはプーシキンに深い愛着を抱いている。かれは、ロシア最大の詩人だ、このことに何の疑いもない。――しかし、ここで再び何かをするための正しい道を探りだした興奮とプーシキンのリアリティへと近づくことの結合が起きた。実際のところぼくはロシア語に関わることに非常な関心をもっているし、丁度三十年前に書いた小説『賜物』の翻訳の手直しが終わったところだ。これはぼくのロシア時代の小説のなかで最も長い、たぶん一番上出来な、そしてもっともノスタルジックなものだ。そこには、二十年代におけるある若いロシア人亡命者のベルリンにおける冒険と文学とロマンスが語られている。だが、彼はぼく自身ではないよ。僕はよく気を付けてぼく自身が彼と重ならないようにしている。ただ、作品の背景だけがいくらか伝記的なところがあるね。あともうひとつこの小説に関してうれしいことがあるんだ。ぼくが書いた最良のロシア語の詩が、この小説に主人公の作品として出て来るんだ。


あなたが書いたものですか? 

 もちろんぼくが書いたものだよ。今ロシア語で暗誦しよう。説明するよ。二人の人物が出て来る。少年と少女だ。二人は日没を受ける橋の上に立っている。ツバメがかすめて飛んで行った。少年は少女を向いてこう言った。「教えてくれよ。きみはいつでもあのツバメを思い出せるか? 他のツバメじゃない今かすめていったあのツバメだよ」すると少女は言う。「もちろん、できるわ」そして二人は泣き出すんだ。

Odnahdy my pod-vecher oba
Stoyali na starom moustu
Skazhi mne, sprosil ya, do groba
Zapomnish'von lastochku tu?
I ty otvechala: eshchyo by!

I kak my zaplakali oba
Kak vskriknula zhizn' na letu!
Do zavtra, naveki, do groba,
Odnazhdy na starom mostu ...


あなたは何語で思考されているのですか? 

 思考はどんな言語でもしていない。イメージで考えているんだ。ぼくは人が言語で思考しているとは信じていない。考えるときに唇を動かしている人なんていないだろ。読んだり、考えたりするときに唇を動かしながらじゃないとできない無学な奴もいるけども。でも、ぼくはイメージで考えているんだ。そして、時によって、脳波の泡立ちの中からロシア語や英語のフレーズが形になるんだ。ただそれだけだ。


あなたはロシア語で執筆をはじめやがて英語に切り替えたのですね? 

 そうだよ。非常に難しい切り替えだった。ぼくの個人的な悲劇―他の誰の関心になるものでもなるべきでもないが―は、ぼくにとっての自然なことばを捨てなくてはならなかったことだ。ぼくの生まれながらの語彙を豊かで無限なロシア語を二流の雑種の英語に。


あなたは英語でもロシア語でも何冊も本をお書きになりましたが、その中で『ロリータ』だけが有名になりました。『ロリータ』の作者とみなされることにいら立つことはありませんか? 

 いや、そんなことは言わないよ、『ロリータ』は、ぼくにとって特別なお気に入りだからね。これは一番難解な本だ―この本ではぼくの生活からはとても遠く離れたテーマを扱っている。そこでぼくの現実創造の才能を使う喜びを味あわせてもらえたんだ。


この本が大成功して驚きになりましたか? 

 この本が出版されたこと自体に驚いたよ。


実際のところ、『ロリータ』を出版すべきではないのではないかと迷うことはありましたか? 

 いや、ない。結局のところ本を書いたということは近い将来の出版を望んでいたということを意味するよ。でもこの本が出版されて本当に嬉しかったよ。


『ロリータ』はどのように誕生したのですか? 

 彼女が生まれたのはだいぶ昔だ。間違いなく1939年のパリだ。『ロリータ』の最初の小さなうずきがぼくに訪れたのは'39 年かたぶん'40年の頭のパリにおいてだ。そのときぼくは非常に苦しい肋間神経痛のすさまじい発作で寝込んでいた。思い出せる限りでは、霊感の最初の震えは、奇妙にもある新聞記事によって引き起こされた。パリ動物園の類人猿につてのもので、"Paris Soir"に出ていたと思う。数月間科学者どもに訓練された類人猿がついに最初の木炭画を仕上げるのだが、そのスケッチは、新聞に再現されたところによると、この哀れな生き物の檻の格子を描いたものなんだ。

ハンバート・ハンバートという中年の誘拐者にはなんらかのモデルがいるのですか?

 いや、いない。彼はぼくが作った人間だ。あるオブセッションを抱えた男。ぼくの小説の登場人物たちにはそれぞれオブセッションを抱えたものが多いと思うが。しかし、彼は実在の人物ではない。彼が実在するのはぼくが本に書いたからだ。この本を書いている間、新聞のあっちこっちで中年の紳士が小さい女の子を追いかけます話をいくつも読んだものだ。なかなか面白い偶然だったがただそれだけだ。


ロリータにはモデルがいますか?

 いや、ロリータにはどんなモデルもないよ。彼女はぼくの頭の中で生まれた。決して実在したことはない。実際は、ぼくは小さい女の子のことなんてよく知らない。この主題を考えたときそういう知り合いは一人もいなかった。それ以降は会うこともあったが、しかし、ロリータはぼくの想像力の産物だ。


あなたはなぜ『ロリータ』を書いたのですか? 

 それは面白かったからだよ。ほかの本だってどんな理由で書くというんだい? それが悦びだから、それが困難だからだ。ぼくには特別の目的なんかないし、道徳的なメッセージもない。展開しようという一般論も持っていない。ぼくは、ただパズルと素敵な解答を作るだけだ。


どんなふうに書かれるのですか? どんな方法を使うのですか? 

 いまはインデックス・カードが一番いいと分かった。ぼくは第一章を書いてから順番に二章・三章と最後の章まで進んでいくわけではない。ぼくはただ絵の空白を埋めていくだけだ、ぼくの頭の中では極めて明瞭なジクソー・パズルのね。


あなたが他の点で通常の意識と違うのは、非常に色彩に魅力を感じている事ですね。

 色。ぼくは画家に生まれついたんだ、と思う、―本当だよ! ―14 歳までは毎日絵を書くことに一日の大半を費やしていたからね。そのころは、画家になるつもりだった。でも、画家になるだけの才能はなかったんだと思う。でも、色彩に対する感覚、色彩に対する愛、これを失ったことはない。また、ぼくには文字の色を感じるという変わった才能があるんだ。色を聞くというんだ。たぶん、千人に一人くらいいるんじゃないかな。でも、心理学者たちの言うところによるとこどもにはみんなこの能力があるのにそんなことは―A は黒、B は茶色―無意味だと聞かされて育つのでその能力を失ってしまうのだそうだ。


あなたのイニシャルの VN はどんな色なのですか? 

 V はある種の青白さ、透き通ったピンクだ。これは専門的には"quartz pink"というようだ。この色がぼくが V と結びつける色に最も近い色だ。そして N は灰色がかった黄色だ。ところが面白いことがあるんだ。ぼくの妻にもこの文字に色をみるとう才能があるのだが、彼女の見る色は完全に違うものなんだ。また、ある日我々夫婦が発見したんだが、息子が、そのときは小さなな子供だったが―たぶん10歳か11歳だったと思うが―また文字に色をみるんだ。すごく自然にこう言ったもんだ「ああ、これはこの色じゃないよ、これはこの色だ」などなど。そして私たちは息子に色をリストにするように言って、それである文字は息子にとっては紫で、ぼくにとってはピンク、そして妻にとっては青だということを発見したんだ。この文字は M だよ。そしてピンクと青の組み合わせは彼のばあいユリになるんだよ。まるで遺伝子が水彩絵の具で染まった様じゃないかい。

 
誰に向けてどんな読者のために書かれていますか? 

 芸術家は、読者のことなんか考えるべきでないというのがぼくの考えだ。芸術家の最良の観客はいつもひげをそる時にか鏡の中にいるあいつだよ。芸術家の想像する観客というのは部屋いっぱいにいる自分と同じ顔をした連中だよ。


あなたのご本の中では、仮面や変装にたいへんな関心がはらわれていますね。まるであなたが自分自身を何かから隠そうとしているようです。

 いやいや。ぼくはいつでもそこにいると思っているよ。難しいことはない。もちろん批評家どもの中にはフィクションの批評をするのに出て来る"I"をいちいち作者のことだと考える奴らがいる。最近でも、ニューヨーク・ブックレビューのある匿名の『青白い炎』の批評で、ぼくの作った人物の意見をいちいちぼくのものだと勘違いした奴がいた。もっとも、一部の登場人物にぼく自身の意見を語らせていることもあるが。『青白い炎』のジョン・シェイドがそうだ。彼はまさに僕の意見を語っている。この本の中の彼の詩で彼の述べている事は、ぼくの意見だ。彼はこう言っている、―引用してみよう、覚えていればの話だが、たぶんできるだろう。「ぼくの嫌いなものは、ジャズ、抽象主義派のがらくた、進歩的な学校、スーパーマーケットの音楽、スイミング・プール、冷酷な奴、退屈な奴、フロイトマルクス、ニセモノの思想家、詐欺、サメ。」こうだよ。


ジョン・シェイドも彼の創造主も明らかに社交的な人たちではないようですね。

 ぼくはどんなクラブにもグループにも所属していない。釣りも、料理も、ダンスも、本の宣伝も、サインも、宣言への共同署名も、カキを食べることも、酔っぱらうことも、教会に行くことも、精神分析にかかることも、デモに参加することもしない。


時々あなたの小説、―例えば『マルゴ』などですが―には残酷さまで達する倒錯的な傾向があるようにわたしには思えます。

 知らないよ。そうかもしれないね。ぼくの登場人物たちのなかには、確かに、野蛮な連中もいる。しかし、そんなことは実にどうでもいい。そいつらはぼくの内的な生活とは何の関係もない。実際、ぼくは残酷さを嫌悪する穏やかな中年の紳士だ。

(余力あれば、後で感想などを追記します)

「耳にバナナが詰まってますよ!」「すみません、よく聞こえないんです。耳にバナナを詰めているもので」というョークの起源が知りたい!

 伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』(ポケット文春)に出て来る小咄、電車で隣り合わせた紳士が耳にバナナを詰めていたので、意を決して「耳にバナナが詰まってますよ!」と言ったら「すみません、よく聞こえないんです。耳にバナナを詰めているもので」と返されたというのは、何かはっきりした出典なり起源なりがないのかなと思って探してみたら、セサミ・ストリートや「ドーラと一緒に大冒険」というアニメでも使われてたらしい。

Ernie Has A Banana In His Ear

 何かはっきりしたおおもとの出典はあるのだろうか? 知ってる人がいたら教えてください。

<―上の本は、アメリカにおけるバナナ史を詳述した本だそうな。読んでないけど、もしかしたらこの本を読めば何か分かるかな?

四日市の水質汚染について、原因企業を追求し、石橋政嗣の国会論戦に情報を提供した「公害 G メン」田尻宗昭を中心に-田尻宗昭『四日市・死の海と闘う』、『公害対策最前線』(岩波新書)、若宮啓文『忘れられない国会論戦― 再軍備から公害問題まで』(中公新書)感想

 若宮啓文『忘れられない国会論戦―再軍備から公害問題まで』(中公新書、1994)という本を読んで、海上保安庁の役人で、四日市の水質汚染の原因企業であった石原産業を摘発し、その後美濃部都政で公害対策を担当した田尻宗昭という人を知った。この人が『忘れられない国会論戦』に出てくるのは、石橋政嗣(当時、社会党書記長)に石原産業通産省の癒着について情報提供をしたからだ。田尻についてもっと詳しく知りたいと思って、田尻宗昭『四日市・死の海と闘う』(岩波新書、1972)、『公害対策最前線』(岩波書店)も読んでみた。読んでみると、「ひやー、こんなすごい・正義感を持った人がいたのか! 」と感じ入るような人物だった。なので、本エントリーでは、石原産業摘発の事跡を中心にこの人について3冊で読んだことをまとめてみたい。

 まず、田尻宗昭の経歴を簡単に。田尻宗昭は、1928年福岡生まれ。1940年に清水高等商船学校を卒業し、海員養成所の教官になった。その後、海上保安庁に入り、巡視船で李承晩ラインの監視をする仕事を務め、その後佐世保勤務、釜石で巡視船「ふじ」の船長を務めた。1968年7月に三重県四日市海上保安部の警備救難課長に就任した。3年後の1971年7月に和歌山県の田辺海上保安部の警備救難課長に転任するまで、公害企業の摘発を主導した。その後は、美濃部亮吉に招かれて東京都の公害局主幹を務め、日本化学工業による六角クロム鉱滓の大量投棄事件の陣頭指揮に立ったりした。東京大非常勤講師や神奈川大短大の教授を務めた。1990年、没。

四日市開発の歴史

 次に、四日市に海洋汚染などの公害をもたらした四日市コンビナートがどのような経緯で成立・拡大したか、その歴史を、『四日市・死の海と闘う』IV章「四日市開発の軌跡」をもとに簡単にまとめてみる。四日市港のコンビナートは大きく塩浜コンビナート(南側)、牛起コンビナート(中間)、第三コンビナート(北側、埋立地)の三地域に分けられ、この順で成立した。

 塩浜コンビナートの成立は、四日市進出の草分け的存在で、「四日市天皇」などと称せられた石原産業1936年に操業したことにさかのぼるらしいが、石原産業については後の章で詳しく説明する。

 戦後の本格的な開発は、シェル石油+三菱化成+昭和石油が共同出資した会社「昭和四日市石油」が政府の払い下げ土地(旧海軍燃料廠)で、1958年操業開始したことに始まった。その後、1956年に設立された三菱油化が、三菱グループとシェルや昭和石油の出資を受け、1959、60年に四日市工場の操業を開始し、政府出資の国策企業の登場などをまって、この二つの三菱啓騎乗を中心とする塩浜コンビナートは、1961年ごろまでにその全容を整えることになった。

 一方、塩浜コンビナートの開発からやや遅れて、国や自治体指導の企業誘致で、四日市北部の牛起コンビナートもでは1963年に大協和石油、大協和石油化学、中電四日市火力などの操業がはじまり、1967年に四日市開発事業団始まった埋め立て地に作られた第三コンビナートも1971年に大協和石油、新大協和石油化学を中心に東洋宗達、鉄エ社(興銀系)が操業を開始した。

 さて、このように次々と企業を誘致し年々拡大していった四日市コンビナートだが、1969年、1972年に行われた統計研究会公害研究委員会・都留調査団(都留重人、戒能通孝、宮本憲一ら)による四日市の実態調査ではやくもその矛盾・住民を苦しめる構図が指摘されていた。『四日市・死の海と闘う』から孫引きする形でかれらの主張をまとめてみる。

 まず、戒能通孝は、「公害防除の基本姿勢について」という報告で「四日市の公害対策は進んでいるといわれているが、本質的な進歩は見られないように思われる」と述べ、その内実を行政・企業・住民について次のようの述べている。

三重県・四日市市とも、公害関係担当者は、命令されたことを遂行するだけであって、公害を克服するために何をなすべきかを積極的に追求せず、記録作成にとどまっている。
(『四日市・死の海と闘う』、p.56)

企業はその研究成果を公開せず公害に由来する一切の責任を県庁に任せ、傍観者的態度をとっている。
(『四日市・死の海と闘う』、p.56)

四日市市民の公害に対する感情は、潜在的には極めて強い。然しながら市内に組織されている町内会有力者が大体において企業に手なづけられ、反対運動が公然化することに対して強力なブレーキになっている。
(『四日市・死の海と闘う』、p.56)

 宮本憲一は、「地域開発と公害」のなかで、税体系が企業に有利にできているために、四日市は次々と工場を誘致しつづけなければやっていけない悪循環に陥っていると指摘し、「四日市は工業都市ではない。工場用地都市にすぎぬ」と厳しい裁定を下している。

税金として大きいのは償却資産である。しかし、この試算は加速度償却されるために減価は急速であって・・・・・・設備を現状維持すると税収は激減する性格がある。したがってたえず設備拡張するか、新しい工場を誘致せねば税収の増大ははかれない。ここに、自治体が自発的にせ次拡張を抑制したり、工場の誘致を思いとどまることができない原因がある。(中略)これは全くの悪循環である。
(『四日市・死の海と闘う』、p.57)

公害による漁業者の苦しみ

 このような背景の上で、今回は四日市の公害を水質汚染・漁場破壊に絞ってその歴史をまとめよう。全盛期には四日市には四つの漁業組合があり、豊かな漁獲高を誇っていたそうだが、1955年ごろから工場の排水口近くでとれる魚がくさくなりはじめ、1960年に東京築地の中央卸市場に伊勢湾の魚はくさいので、取引を停止すると通達されてしまう。同年、四日市漁業者たちは伊勢湾汚水対策漁民同盟を結成し、30億円の損害補てんを求めたが、得られたのはわずか1億円の漁業振興費に過ぎなかった。1963年には、漁民たちが実力行使に出る動きもあったが、地元の有力者の働きかけで収束し、以後漁民の運動は振るわない時期が続いていた。

 『四日市・死の海と闘う』のことばによると「10年間」(1950年代半ばから1960年代半ばにかけて)で、漁場の35%が埋め立てなどで失われ、漁業従事者が31%減少し、水揚げ量が全盛期の1/4以下になったという。

 このような状況の中で、四日市港を中心とする漁場では売り物になる魚が取れなくなってしまった漁民たちは、他の漁場に密猟に行くなどの挙に出るしかなくなっていた。

 1968年7月に四日市に赴任した田尻宗昭が初期に任された仕事の一つが、この密猟の取り締まりだった。しかし田尻は、取り調べた漁民からつぎのような訴えをいくつも聞くことになった。

水産資源を守る法律を破って魚を殺したやつは向こうやないか。昔からまじめに平和にやっとるわしらから魚を取り上げるやつは罪にならんのか。それを取り締まらんで、追い詰められたわしらだけを捕らえるのはいったいどういうことなんや。あんたらは企業の手先になって取り締まりをやっておるのか。
(p.38、強調、引用者)

これらの言葉を聞いて、田尻は「深くショックを受けた」という。

 私は深くショックを受けた。おれたちがやっていることはなんなんだ、おれたちはなんか大きなものを見落としているんじゃないか。水産資源保護帽という法律はいったい、なにを守っているんだ。実際、自分の足下が、大地震でもあったときのように、ゆらゆらとゆらぐような感じがしました。弱い漁民たちがやっとの思いで魚をとってきて、わずかに家族を養っている。それを私たちは一生懸命追いかけてつかまえている。それだけで問題は終わりなのか、それだけで法律が守られたことになるのか――。
(pp.39-40)

公害企業の摘発―日本アエロジルと石原産業

 そういうなかで、タンカーの油流失事故の対応や関連企業を説得して回って「港湾災害対策協議会」を発足させる、違法廃棄の企業を摘発する(釣り人のふりをして、張り込みし現行犯逮捕など映画みたいなことをしている)などの活動のうちに、労働者などの通報をもとに田尻は公害企業の摘発も進めていった。

 『四日市・死の海と闘う』で大きく取り上げられているのは「日本アエロジル」と「石原産業」だ。

 本エントリでは、特に石原産業の起こした公害事件について『四日市・死の海と闘う』XI章、XIV章「石原産業事件(その1)」「同(その2)」、『公害摘発最前線』III章「誰が”硫酸の海”にしたか――石原産業事件――」をもとにまとめたい。

 摘発のきっかけは、1969年の10月ごろにかかってきた石原産業の労働者とおぼしき匿名の告発電話だった。日本アエロジルの捜査中の出来事であったが、電話は「(石原産業は)毎日二〇万トンというケタはずれた量の硫酸水を流している、しかも何年も前からだ」という内容であったらしい。

 先にも書いたが、石原産業は1936年にいちはやく四日市に進出した会社で、地元では絶大な権力を握っていて、行政との癒着も凄まじいものがあったようだ。田尻著の表現を借りれば、「四日市の支配者的位置にある」(『四日市・死の海と闘う』p.131)、「”四日市天皇”」(『公害摘発最前線』p.42)と称された企業だ。

 創業者でもあり、当時の社長だった(1970年に没するまでワンマン経営者だった)石原広一郎は、戦前からの実業家で、国家主義者でもあり、 A 級戦犯として巣鴨に収監されていたこともある人物だ。

 石原産業の捜査への警戒に対応して、「漁民に変装したり、釣り人に変装したりして排水口にちかづき、空かんでパッと水をすくうとか、それも夜中や夜明けに出かけてゆくなど、いろいろな工夫をこらし」(『四日市・死の海と闘う』、p.130)ながら内偵を進め、12月17日に工場の捜査を行った。

 大阪本社の捜査では、なかなか唖然とさせられるような対応にもあっている。

 私たちは、工場でも本社でも突然殴り込みをかけてきた”野蛮人”かなにかのように思われたらしい。職員に「あんた方はそんな紙切れ一枚(引用者注、捜査令状)もってきて、大企業を泥靴で踏みにじっている。いったいどういうつもりなんだ。こんあ乱暴な話はきいたこともない。今までのお役人はちゃんと応接室で上品に懇談していただいたものだ」とか「あんた方、これは企業秘密ですよ。うちはアメリカと提携しているんだから、アメリカから訴えられますよ」ともいわれました。まるで大企業は治外法権でもあるかのようです。
(『四日市・死の海と闘う』p.164強調、引用者)

 ちなみに、通産省石原産業との凄まじい癒着ぶりについては、次の章で詳しく書くが、『公害摘発最前線によると、「(石原産業の人物が)この直前の九月二七日、東京の通産省におもむいた時、公害の担当官が『田尻は何をやるかわからん男だから注意した方がよい』『田尻のところにあいさつに行っておけ』とアドバイスしていた」(p.30)ということも後の公判で明らかになったそうだ。

 排水口から出てくる水の PH を調べたり、「石原産業の真ん前の、昭和石油の桟橋だけで荷役をする船」が「非常に短期間で冷却水系統のパイプに穴があく」といった証拠を集め、法務官への懸命の訴えもあり、1970年10月、「このような大量の継続的な賛成工場排水は港則違反である」(四日市・死の海と闘う』p.170)という法務省見解を引き出すにいたった。

 次に引用するのは、四日市を訪れた法務省の担当者への田尻の訴えである。

「この湯気のたったミルク色の海を見てください。硫酸の海です。こんななかに船が停泊したらいったいどうなるでしょうか。船の心臓部であるエンジンの統制部分が溶けて、エンジンは故障してしまいます。たとえば二〇万トン級のタンカーはエンジン・ストップしても、四○○○メーターも走ってからでないと止まらないような惰力をもっています。それが岸壁や桟橋、あるいは他の船とぶつかりでもしたらたいへんなことになります。この硫酸は、そもそも原料であるイルメナイト(チタンを含む砂鉄)から鉄分を溶かして除去するために使われた物なんです。それを海に捨てたら、どうなるでしょうか、そこに浮かんでる船はやはり鉄なんです。港に及ぼす害から言ったら、バケツ一パイのゴミを放ったおばさんの行為と一日二〇万トンの硫酸水をたれ流す石原産業の行為とは、もう比較になりません。石原の行為は、四日市港に対する、また港則法に対するあからさまな挑戦です。これを放置したら、明日から私たちはゴミを放っているおばさんを取り締まるわけにはいきません。ここで法の公平を貫徹されるように心からお願いします。どうぞこの硫酸の海を忘れないでください」
(『四日市・死の海と闘う』pp.167-168)

石橋政嗣 vs 宮澤喜一の国会論戦―行政と企業の癒着

 石原産業が、「大量の硫酸水たれな流し」を始めたのは1968年のことだが、酸化チタン増設のために工場を新設したことに絡んでいる。

さて、石原産業は昭和十三年の設立以来、ずっと化学肥料を製造してきた企業なんですが、昭和二九年ごろから酸化チタンの需要が伸びてきたものですから、今度はその製造もはじめた。いまや国内の酸化チタンのシェアの六割を独占する、わが国最大のチタン・メーカーであるのはもちろん、海外のチタン業界でも名の売れた存在です。さきほど申しましたように、原料のイルメナイトから鉄分を溶解除去するために硫酸がつかわれるのですが、はじめのうち、そのときできるチタン工場の廃硫酸を硫安工場に回収して、これにアンモニアを加えて硫安をつくっていた。ところが昭和四三年の七月、第二工場を増設して、それまで月産四五○○トンだったチタン生産を月産六○○○トンにあげた。このためチタン工場と硫安工場のバランスがくずれ、第二工場から流れ出てくる廃硫酸の処置がつかなくなってしまったのです。
(『四日市・死の海と闘う』p.170)

 ちなみに、チタン増産は、1967年5月に、社長当時の社長石原広一郎が工場長や取締役等を集めて決めたそうだが、廃硫酸の対策をどうしたらいいかという質問に対して石原は、「『当分の間、廃酸の処理のことは考えないでよい』という指示をし、皆これに同調したという」(『公害摘発最前線』、p.32)ことだそうだ。

 このように、1968年に工場を増設しているのだが、実はこの工場は無届けでつくったものであり、しかもそのことをごまかすために通産省が日付さかのぼって書類を作成し、協力していたということを暴いたのが1971年1月19日の当時の社会党書記長、石橋政嗣による国会質問だった。(主な相手は、佐藤内閣の通産大臣、宮澤喜一)石橋と田尻の間にはは、佐世保時代の田尻が石橋に「上司の理不尽な専横ぶりに立腹して、地元選出の若手議員だった石橋に相談を持ちかけた」(『忘れられない国会論戦』、p.168)ことから始まる長い信頼関係があった。

資料は後ほど出していただきたいと思います。

それじゃ、通産大臣が積極的に責任を感ずるとおっしゃいましたし、しかしいまは違うのだということばも付言されました。その中で、幸い石原産業の例を引かれましたから、私も石原産業の問題をいまから取り上げます。

これほど四日市港がひどい死の海になった原因はなぜか。いままでずっと申し上げてきましたが、もう一つ大きな原因があるのです。それがまさにいまあなたがおっしゃったこの石原産業なんです。施設を設けたとおっしゃいます。ばく大な投資をしたとおっしゃいます。いつやったのですか。海上保安庁が港則法という法律を適用して検挙してからです。それまで工場側が幾ら進言しても、会社自体はてんとして恥じず、一日二十万トンの硫酸排出を一年以上続けてやったのです。その中で通産省がどのような共犯的役割りを果たしてきたか。私はいまからやりますよ。共犯ですよ。違法を奨励しています。確たる文書をもって私はやるのですから。まさに共犯だと私は感じました。改善したのは、通産省の勧告によるものでも何でもありません。海上保安庁の勇気によるものです。

この四日市港をこれほど悪化させた非常に大きな要因の一つに、石原産業が四十三年六月にチタン第二工場を増設したことがあるわけです。従来のチタン月産四千五百トンから六千トンに増産することになりました。そのときに、法に基づく手続もしなければ、処理施設も行なわず、これ以来増産に伴って余分の廃液が出る。この分がなまのまま港に排出されたのです。いいですか。一日二十万トン、けた違いです。先ほど申し上げた日本アエロジルは、一日五百トンです。こっちは一日二十万トンです。このような二十万トンという硫酸を港の中にそのまま流さなければならなかったのは、法で規定された処理施設をつくらなかったからです。通産省が指導するどころか、それを認めて、違法を承認していることに原因があるのですよ。

まず、この増設、これが無届けで行なわれたことは、通産大臣、認めるでしょうね。
(強調、引用者)
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それじゃ、私、通産省が確認する材料をいまから提供しておきます。確認することの必要な一番ポイントは、いま申し上げたように、増設をしたその段階で、法の示すところによって指導しなければならなかったんです。ここがポイントですから。廃液がそのまま出されないで済むかどうか、それだけの施設がちゃんと行なわれているかどうか。監督し、指導しなければならない立場にあったんです。ところが、実際には放任しております。それじゃその増設工事をやっていることを知らなかったかというと、知っているんです。通産当局ははっきり認めているんです。あとでこれをそのまま読みますけれども、工場見学もやったことだし、まあいいでしょうと言っているんです。見学をしたことを監督、指導とすりかえてしまっているんです。実際に操業を開始しましたのは七月です。これは当時の社長の石原廣一郎さんの「八十年の思い出」という中にもちゃんと書いてありますです。六月です。「四十三年六月二十日酸化チタン工場増設完了す(月産六千トン)」これは当時の社長の記録です。六月にちゃんと完成している。ところが、工場と通産当局との話し合いがいつから始められたかというと、七月に入って始められました。増設工場が完成して、そのあと翌月に通産当局と工場側とが話し合いをしております、つじつまを合わす話し合いを。いいですか。これはどうしてこの処理施設を設けるか、そういう話し合いじゃないのですよ。六十日以前に届けにゃならぬ、工場の増設をやろうとする場合には。その手続を全然しないまま、完成して、操業を始めちゃったから、どうしてつじつまを合わせるかという話し合いをしているのですよ。いいですか。このことは歴然としています。なぜならば、話し合いの結果、工事着工は四十三年八月十五日にしましょうという合意に達しているからです。六月にできたものを八月十五日に工事着工したことにしましょう、完成及び使用開始年月日は四十三年の九月十五日にしましょう、そうして通産当局が工場から増設の申請をする日付を六月十五日にしましょう、一カ月さかのぼって、話し合いのときから六月十五日に届けたことにしましょう、こういう話し合いが行なわれているんです。このとおりになっていますよ、調べたら。工場はもうできちゃった、仕事を始めた。その段階で話し合いをして、さかのぼって六月十五日に届けをしたことにしてくれ、そうして工事の完成は八月十五日にしてくれ、操業開始は九月十五日にしてくれ、そうしなければ法律に反するから、こういうことです。こういう事実を確認しなければ話を進められないですよ。進められると思いますか。事こまかに指導しているのです、脱法行為の指導を。どうして公害を防止しようかなんということはただの一言もこの話し合いの中で出てきませんよ。どうして法律とつじつまを合わせるかということしか出ていませんよ。
(強調、引用者)
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この質問は、大きな反響を呼び、二月八日には津地検が捜査本部を設けて工場長の取り調べを行った。ただし、”談合”に関しては不起訴になった。ただし、名古屋通産局は談合容疑者となった三人を文書で「注意」し、人事異動でけじめをつけた。

 こうして石原産業は昭和四六年二月十九日(引用者注、若宮著によると時効直前だったらしい)、ようやく港則法違反、水産資源保護法違反および工場排水規制法の無届け操業を持って起訴され、ここに全国ではじめての公害刑事裁判がはじまったのでした。

(『四日市・死の海と闘う』p.175)

若宮著によると、次のように石原産業側の敗訴で裁判は終わった。

 津地裁は起訴された石原産業の被告について、八年余に及ぶ裁判の末、「会社は採算性を追求するあまり、企業の社会的責任を忘れた」と厳しく戒め、有罪判決を出した。被告側は控訴を断念し、一審で有罪が確定する。
(『忘れられない国会論戦』p.166)

田尻宗昭の原点とその後

 田尻宗昭は、著書『四日市・死の海と闘う』のなかで、石原産業を追求する部分で一カ所だけ弱気を感じたことを書いており、そのときに自分の原点を李ラインのときも佐世保のときも漁民を救えなかったことが心の傷になっていることだと語っている。

しかし、私も摘発までの間、保安部の窓から毎日石原産業を眺めながら、心の中で何度も立止まっては、あれやこれや自分自身に問いかけたんです。全身に、ずっしりとオリのようなものがひろがって、いいようのない重苦しさが感じられてなりませんでしたこれからは長くて苦しい道が続くだろう。相手側には何百人という専門の技術者もいるだろうし、はたしてあの厖大な生産工程のすべてを、われわれの手で解明できるだろうか。このような大掛かりな公害事件には、複雑な社会的背景があるはずだ。関係の行政は、一体どういう関わり合いになっているのだろうか。
(中略)
滅入りがちな気持ちの奥で、しかしなにかが心を駆り立てている。それは一体何か――。あえて言えば、それは心の傷とでもいったらよいでしょうか。私は、李ラインや佐世保で命を縮めるような苦労をしながら、結局のところ勇気のなさと認識不足とから、その苦労を少しも実らせることができなかったのです。どちらの場合も、みすみす多くの漁民の犠牲をくいとめられなかった。いや、そればかりではありません。現に、四日市でも、またもや海の汚れをよそに漁民だけを取り締まってきた――。私はもう二度とこんなことをくりかえしたくない。恥ずかしさにさいなまれる重荷からなんとか脱け出したい、これからは、はっきりと人生に自分の足跡を刻みつけて行きたい――。
(『四日市・死の海と闘う』、pp.132-133)

 その後、「正義感あふれる公害Gメンとして地元の漁民らから圧倒的な支持を得た」田尻も、「海上保安庁からは『はずれ役人』の烙印を押された」ため、「事実上の左遷」によって和歌山県の種べ海上保安庁の課長に異動となった。しかし、美濃部亮吉の都政に招かれ、六角ロム事件の陣頭指揮などに当たった。東京大や神奈川大短大で教鞭をとったらしいが、そのときの受講者や著作に触れた人たちの感動がネット上でいくつか読めた。

1981年10月から1982年2月まで、田尻宗昭氏(当時57歳?)は、都の役人の現役の激務の中、講師として東大駒場で「環境行政論」という週一回(水曜日4限)の講義を行いました。
 講義開始当時は、第7本館が使用されていましたが、聴講生が多いために(時計台のある)第1本館に教室変更になりました。授業は毎回熱気に包まれ、多くの学生で常に教室は満席に近い状態でした。
 田尻氏が大学での教鞭を取ったのはこれが初めてであり、その後他の大学でも教壇に立ったと聞いています。
 田尻氏は「大学の講義には毎回全力投球だった」と最終講義で述懐されたように、終始聴衆を圧倒する迫力に満ちた田尻氏の熱弁に、学生たちは息を呑んで聴き入りました。
追想 田尻宗昭氏(公害Gメン)

それは、これから生きていく人生の中で、人や本で何か自分の心をドキッと打つものが出て来るよ・・・ということです。異性であれば恋愛?とか。ここでは私が出会った或る書物のことを書きます。
 それは、昭和47年発行の岩波新書四日市・死の海と闘う」です。作者は、当時の現役の海上保安官「田尻宗昭」という方です。その頃、日本全国では「公害問題」が叫ばれていました。熊本水俣病四日市ぜんそく・新潟イタイイタイ病・安中カドミウム等々。特定の企業が流した有害物質が、周辺住民の健康被害に関係していました。当時高度経済成長の中で、経済優先の陰に潜んでいた健康被害です。四日市ではI産業が、有害物質を海洋投棄していました。それを突き止めた田尻さんが、様々な横やりの中で摘発していくものです。
 しかし、現役保安官がいわば「告発書」を書いたのですから、職を賭す覚悟だったと思います。その後彼は美濃部都政に招かれて都の公害担当部局に移ります。
 私は「悪を許さない。死ぬ気で闘う。」彼の主張に感動し、公務員を目指そうと思いました。宇井純さんが始めた「公害原論」講座にも通いました。もし、この本に出会っていなければ県庁職員になっていなかったでしょう。37年間の県庁生活でこの気概を全うできたかは甚だ疑問ですが、おかしいことはおかしい・・この姿勢だけは貫いてきたつもりです。